第90話:絶望の境界線
一、 砕け散った希望の残骸
冷たい。
ただただ、どこまでも冷たい。
奈落の石畳の上にうつ伏せに倒れた少年料理人アルは、自分の血液が石の隙間へと流れ出し、そして急速に凍りついていく嫌な音を、遠い耳鳴りのように聞いていた。
「……あ……う……」
口を開いても、声にはならない。
喉の奥から込み上げてくるのは、肺から絞り出された生ぬるい血の塊だけだった。
アルの視界は、右半分が自分の血で赤く塗り潰され、左半分は薄暗い奈落の闇と、神聖光柱が残した網膜を焼くような白光の残像が入り混じった、混沌とした色をしていた。
全身の骨が砕け、筋肉が断裂している。
指先から足の先まで、自分の肉体であるという感覚がすっぽりと抜け落ちていた。
ただ一つ、右手に握りしめた『黒鉄の包丁』の柄の感触だけが、彼がまだこの世に繋ぎ止められている唯一の証であった。
(包丁が……折れちゃった……)
アルは、ぼやける視界の先で、光を失って転がっている自分の包丁の刃の破片を見つめた。
スラムで拾ってから、毎日毎日、石で研いで大切にしてきた包丁。
硬い魔物の肉を切り裂き、海竜の呪いを断ち切り、仲間たちに美味しいご飯を作るための、彼の命そのものだった道具。
それが今、無惨に真っ二つに叩き割られ、ただの鉄屑となって散乱している。
武器を失った。
マナ(熱)を生み出す胸の『炉』も、限界を超えた酷使により完全に活動を停止し、生命を維持するための最低限の鼓動すらままならない状態に陥っていた。
「……っ……」
アルは、這いつくばったまま、わずかに首を動かして仲間たちの姿を探した。
数メートル先には、相棒カルムの姿があった。
自らの命を薪にして極限覚醒の炎を放ち、神の法則すら一時的に焼き切った男。
だが、その代償として彼の肉体は炭化し、今はエノクの絶対零度によって完全に分厚い氷の塊の中に閉じ込められている。あの不屈の拳からは、もう一欠片の熱気も立ち上っていなかった。
その向こうには、エレナが倒れている。
自身の聖剣を折られ、アルを庇うために三使徒の反発エネルギーを真正面から浴びた不滅の盾。彼女の白磁の甲冑は粉々に砕け散り、美しかった白銀の髪は血と泥にまみれ、ピクリとも動かない。
セリアも、オルタも、瓦礫の陰で完全に沈黙している。
誰一人として、立ち上がる者はいない。
奇跡は起きなかった。
彼らの心は最後まで折れていなかった。相棒を、仲間を護るという覚悟は、100%完了していた。
それでも——純粋で、絶対的な、物理法則レベルの『力不足』が、彼らの全存在を容赦なくすり潰したのだ。
二、 静止の進行と無慈悲な宣告
「……エラー個体の完全な無力化を確認。特異点および随伴バグの生命活動は、現在三パーセント未満まで低下。数分以内に全個体が自動的に停止(死亡)する見込みです」
静寂に包まれた奈落に、第三使徒バアルの無感情な合成音が響き渡った。
「わざわざ手を下すまでもありませんでしたね」
第二使徒エノクが、白亜の法衣を翻し、アルたちの惨状を氷のように冷たい目で見下ろした。
「感情という一時的な化学反応に頼り、分不相応な熱を放った結果がこれです。自らの肉体を焼き切り、砕き、最後は泥の中で凍りつく。……これが、主神アルファ様の理に逆らった者の必然なる結末」
第一使徒補佐メリエルは、空中に浮遊したまま、静かに『創世の法典』を開き直した。
「ですが、万が一ということもあります。主神アルファ様は、この特異点という存在を極めて危険視しておられた。……息の根が完全に止まり、空間から概念ごと消去されるまで、監視と処理を続行します」
メリエルが指先を動かすと、奈落の空間全体に、これまでとは比べ物にならないほどの【超低温の神威】が充満し始めた。
ミシッ……パキパキパキッ……!
それは、単なる冷気ではない。
世界から「時間」と「変化」を奪い去る、真なる『大氷期』の足音。
アルのスープを飲み、涙を流して「人間らしい心」を取り戻していた何百人もの不適合者たち。
彼らは先ほどの神威の衝突の余波で気絶し、地面に倒れ伏していたが、メリエルの放った新たな神威に触れた瞬間、彼らの肉体は末端から急速に青白い氷の結晶へと置換されていった。
「あ……」
アルの霞む視界の中で、かつて家族を奪われ、アルのスープを飲んで『美味しい』と泣いてくれた片目の初老の男の姿が、完全に氷の彫像へと変わる瞬間が映った。
アルが与えた体温が。
彼らが取り戻した人間としての尊厳と笑顔が。
神の理不尽な法則の前に、再び、そして永遠に奪い去られていく。
「や……め……」
アルの口から、掠れた声が漏れた。
指先を石畳に立て、前に進もうとする。
だが、指は動かない。手首から先が、すでにエノクの冷気によって感覚を失い、青白く変色し始めていた。
「無駄な足掻きです」
エノクが、アルの顔のすぐ横に音もなく降り立った。
「あなたの作ったその下等な液体が、彼らに一時的な熱を与え、結果として彼らに『死の恐怖』という無駄な苦痛を味わわせることになった。……あなたが余計なことをしなければ、彼らは何も感じないまま、平穏に静止(死)を迎えることができたのです」
エノクは、冷酷な目でアルを見下ろす。
「心があるから、絶望する。温かさを知るから、冷たさを恐れる。……あなたが彼らに与えたのは、救いではなく『残酷な罰』だったのですよ」
その言葉は、アルの魂を最も鋭く抉る刃であった。
三、 砕かれる誇り、嘲笑の狂信
「エノク様の仰る通りですわ!」
上空から、新・聖女セラフィナが、白磁の仮面を揺らして歓喜の声を上げた。
彼女は、エレナの倒れている血の海の上へと優雅に舞い降りた。
「ご覧なさい、この惨めな裏切り者の姿を!」
セラフィナは、自身の純白のヒールで、意識を失って倒れているエレナの血に染まった頬を、無造作に踏みつけた。
「ぐ……っ……」
エレナの口から、無意識の苦痛のうめき声が漏れる。
「エレナ……さんッ!」
アルが、絶叫しようとして、肺に血が詰まり激しく咳き込んだ。
「かつては教国の象徴であり、完璧なる『神の剣』と謳われたあなたが、このようなゴミのような子供に絆され、最後は素手で神に挑んで無様に散る。……滑稽! なんて滑稽なのでしょう!」
セラフィナは、エレナの顔を踏み躙りながら、狂気を含んだ声で笑い続けた。
「私利私欲のために聖女の座にしがみついていた前聖女(あの女)よりも、さらに質が悪い! あなたは『誰かを護る』などという偽善に酔いしれ、世界を穢そうとした最大の悪玉ですわ!……あなたのその腐ったプライドごと、私の光で真っ白に漂白して差し上げます!」
セラフィナが、足元に倒れるエレナに向けて『純白の概念消去光』を放とうと右手を掲げた。
「やめろォォォォォォォォッ!!!!」
アルの魂が、肉体の限界を無視して絶叫した。
動かないはずの腕で。
感覚のない足で。
アルは、自身の歯を粉々に噛み砕きながら、石畳に爪を立てて、エレナを護るために前へと這いずろうとした。
ギリ……ッ。
アルの爪が剥がれ、石畳に生々しい血の跡を残す。
「……ほう」
エノクが、アルのその異常な執念に冷たい目を向けた。
「まだ動く意志が残っていましたか。……ならば、その無駄な意志ごと、永遠に凍結させて差し上げましょう」
エノクが、アルの背中に、容赦なくその革靴の踵を振り下ろした。
ドゴォォォンッ!!
「がはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
アルの小さな身体が、背骨が砕けるような衝撃とともに石畳に叩き潰された。
口から、大量の血が放射状に噴き出す。
視界が、完全に真っ暗に明滅した。
「もう二度と、その口で仲間を呼ぶことも、その手で包丁を握ることも許しません。……永遠の静止の中で、己の無力さを呪いながら消え去りなさい」
エノクの靴底から放たれる絶対零度の冷気が、アルの背中から直接体内へと流れ込み、彼の残されたわずかなマナ回路を根こそぎ凍らせていく。
四、 絶望の境界線
「……あ……カル……ム……エレナ……さん……」
アルの意識が、深い、深い闇の底へと引きずり込まれていく。
寒い。
痛い。
苦しい。
でも、それ以上に、恐ろしいほどの【無力感】が、アルの心を真っ黒に塗り潰そうとしていた。
頑張った。
限界まで頑張った。
カルムも、エレナも、命を懸けて戦ってくれた。
自分も、折れるまで包丁を振り抜いた。
だけど、届かなかった。
どれだけ想いが強くても、どれだけ覚悟が完了していても、相手の「戦力」と「理不尽な法則」の前には、ただ虫けらのように踏み潰されるしかなかったのだ。
(僕が……弱かったから……)
アルの脳裏に、かつてスラムのゴミ捨て場で死にかけていた時の光景がフラッシュバックする。
あの時も、自分は何もできず、ただ寒さと飢えに震えて死を待つしかなかった。
恩人に拾われ、料理を教わり、カルムたちという「家族」ができて、自分は少しは強くなれたと思っていた。
誰かを温め、誰かを救えるようになれたと思っていた。
でも、違った。
結局、自分はスラムのゴミ捨て場で震えていた、あの無力な「空箱」のままだったのだ。
「……警告。特異点の生命維持機能、臨界点を突破。……心停止まで、カウントダウン開始」
バアルの合成音が、アルの最期を冷酷に宣告する。
アルの耳に、セラフィナの高笑いと、エノクの冷たい足音が響く。
仲間たちは倒れ、自分も今、死の淵(境界線)を越えようとしている。
手のひらに残る、折れた包丁の柄の感覚すらも、冷気に奪われて完全に消え去った。
胸の『炉』は、もう一ミリも熱を発していない。
世界が、完全に白と黒の『静止』へと停止していく。
これが、神に逆らった者の末路。
これが、圧倒的な戦力差の前に突きつけられた、言い訳すら許されない【完全敗北】の現実。
アルの漆黒の瞳から、最後の光がスゥ……と消え去り、彼の手からついに折れた包丁の柄がコトリと転がり落ちた。
境界線を越えた向こう側。
そこには、奇跡も希望も存在しない、完全なる冷たい暗黒だけが待ち受けていた。
少年料理人アルと、チーム『最高の厨房』の旅は、ここ聖都ルミナの最深部において、完膚なきまでにその幕を閉じようとしていたのである。




