第67話:膨らむ誓い
一、 水平線の影と深まる黄昏
忘却の海を西へ、西へ。
捕鯨船シーホーク号が切り裂いてきた群青の海原は、刻一刻と表情を変えていた。
天を焦がすような鮮やかな朱色と紫色のグラデーションが空を覆い、茜色の夕陽が海面に一本の輝く金の道を投げかけている。その水平線の向こう側に、巨人の指のように突き出た圧倒的な影――【教国ルミナの本土】、そしてその中心に君臨する【神座の塔】のシルエットが、夕闇の中で一層その冷たい存在感を増していた。
「……あそこが、教国か」
船首の手すりに背を預け、白湯の入った木のお碗を両手で抱えながら、アルがぽつりと呟いた。
夕風が、彼のエプロンと、前髪を優しく撫でていく。
アルの胸の奥底。
魔力ゼロの身体に宿る命の火『炉』が、遠い記憶の呼び声と、西から押し寄せる不気味な神聖マナの冷気に反応して、トクトクと静かに、だが確かな脈動を刻んでいた。
「緊張してるか、アル?」
隣に歩み寄ってきたカルムが、自身のお碗を傾けながら尋ねた。
彼の火傷痕が残る両拳は、今や迷いを完全に振り払い、深海で覚醒させた『護るための極光炎』の温かな余熱を肌の奥に秘めている。
「うん……少しね」
アルは素直に頷き、夕陽に染まる海を見つめた。
「スラムの泥の中で死にかけていたあの日……。僕に温かいスープをくれて、『君は空箱じゃない』って抱きしめてくれたあの人。……あの人が、あの冷たい塔のてっぺんで待ってるんだよね」
「ああ」
カルムが力強く首を振る。
「アガルタの遺志、海竜の救済、そしてアクアリアの街の連中の想い。……俺たちは色んなモンを背負ってここまで来た。だけどよ、一番の目的は最初から変わっちゃいねぇ。お前の恩人に会って、とびっきりのメシ喰わせて『助けに来たぞ』って笑ってやることだ」
「うん……! ありがとう、カルム」
アルの漆黒の瞳に、太陽のごとき黄金の輝きが優しく灯る。
かつては自分を「何も入っていない無能の空箱」だと諦めていた少年。だが今の彼の心の中には、仲間たちと育んできた不滅の体温と、数え切れないほどの人々の「美味しい」という笑顔が、ぎっしりと満たされていた。
二、 アガルタの遺志とオルタの選択
「アル、カルム。少しよろしいですか?」
静かな足音と共に、オルタとエレナが甲板へ歩み寄ってきた。
オルタのルビー色の瞳は、夕陽の光を反射して、まるで生きている宝石のように深みのある輝きを放っている。彼女の手には、アガルタの地下遺跡から回収された、古代の【記憶記憶晶】が握られていた。
「どうしたんだ、オルタ?」
「ワタクシの内部データベースと、この記憶晶の暗号照合が、教国接近に伴い最終段階へ入りました」
オルタは、記憶晶を胸の【ALTA-00】の刻印へ当てた。
空間に、淡い青白のマナ光がホログラムとなって浮かび上がり、かつて地下で聞いた古代アガルタの最高位技師長の、嗄れつつも力強い声が再生され始めた。
『……原初の火の守り手よ、そして“空箱”の特異点よ。……主神アルファが目指す“絶対の静止(大氷期)”は、生命の感情と熱量を無へと固定する死のプログラムだ。……彼らが求めているのは、過ちを犯さない完璧な機械の世界なのだ』
ホログラムの中で、技師長が静かに愛おしそうに撫でていたのは――かつて感情を持たぬ兵器として眠っていた、初期状態のオルタ(機甲素体)の姿であった。
『……我々は、感情を持つ機甲人形 ALTA-00 を創り出し、神の領域へ挑ませた。しかし、真に世界を再創生するのは、技術でも兵器でもない。……人と人とが食卓を囲み、温もりを分かち合う“体温”そのものなのだ』
ホログラムが光の粒子となって消えていく。
「ワタクシは……」
オルタが、自身の小さな白磁の手を見つめ、静かに語り始めた。
「ワタクシは、神のプログラムを解体し、大氷期を打ち破るための『兵器』として作られました。……地下で目覚めた時、ワタクシの存在理由はそれだけだと思っていました。命令に従い、敵を排除し、目的を果たして消える……それが機械の宿命だと」
オルタは、ゆっくりと顔を上げ、アル、カルム、そしてエレナの顔を順番に見つめた。
そのルビー色の瞳から、一滴の透明な涙がこぼれ落ちる。
「ですが……皆様がワタクシに『心』をくださいました。アルが作ってくれたスープの温かさ、カルムの炎の強さ、エレナの盾の優しさ。……ワタクシは今、兵器としてではなく……皆様の『家族』として、あの塔へ行きたいのです」
オルタは、胸の前で両手をギュッと握り締めた。
「教国の主神アルファが、人間の感情を無駄なエラーだと言うのなら……ワタクシは全力で否定します! 人が人を思いやり、美味しいご飯を食べて笑い合うこの『心』こそが、世界で最も美しい奇跡なのだと、証明してみせますっ!」
オルタの力強い宣言。
それは、数千年の時を超えて、機械の少女が自らの意志で選び取った【真の存在理由(誓い)】であった。
「よく言った、オルタ」
エレナが、オルタの銀髪を愛おしそうに撫でた。
「君はもう、道具でも兵器でもない。我が誇り高き妹であり、最高の家族だ。……神の冷酷な計算式など、君のその美しい心で打ち砕いてやろう」
三、 騎士の訣別と不滅の盾
「エレナさん……」
アルがエレナを見上げた。
エレナは、背に背負うた『星霜の聖剣』の柄にそっと手を置き、夕陽の沈む西の水平線を見据えた。
「教国ルミナ……。かつて私が『不滅の盾』として命を捧げ、神の教律こそが絶対の正義だと信じ込んでいた故郷」
エレナの青い瞳に、静かな過渡の記憶が掠める。
教国の聖騎士団。感情を殺し、神の命じるままにバグ(不純物)を切り捨ててきた日々。
そこには、温かな食卓も、互いを案じる体温も存在しなかった。ただ、冷たい石造りの聖堂と、効率のみを求める無機質な教律があるだけだった。
「私は、教国を捨てることで一度死んだ。……だが、ガレアの街でアル殿のスープに出会い、君たちと共に旅をする中で、私は真の『聖騎士の誇り』を取り戻したのだ」
エレナは、アルの前で深く、片膝をついた。
「私の剣は、もう神の理不尽な命令のために振るわれるのではない。君たちの作る温かな厨房を、君たちが届ける食卓の笑顔を護るためにこそ振るわれる。……我が身が砕け散ろうとも、主神アルファの氷の刃を、君たちへ届かせることは絶対にさせん!」
エレナの不滅の誓い。
それは、教国の元・最高位聖騎士長として、自らの過ちの過去と完全に訣別し、愛する家族のための「盾」として生きる絶対の決意であった。
「エレナさん……! 頼りにしてるよ!」
アルが力強く頷く。
「へっ、気合いが入ってやがるな騎士様! 俺の炎とアンタの盾がありゃあ、神様の兵隊が何千人来ようが、全員まとめて蹴散らしてやるぜ!」
カルムが豪快に笑い、両拳をパンッと打ち合わせた。
四、 相棒の覚悟と「最高の火」
「なぁ、アル」
カルムが、水平線に沈みゆく太陽に向かって、右拳を突き出した。
その掌の上に、ぽっと小さな灯火が点される。
深海の絶対零度と超高水圧を乗り越え、己の破壊衝動を克服したことで覚醒した【群青と緋色の極光炎】。
「スラムのゴミ溜めで、世界を恨んで暴れてた俺が……まさか神様に喧嘩売りに行くなんてな。人生ってのは分からねぇもんだ」
カルムは、自分の掌の炎を、どこまでも愛おしそうに見つめた。
「俺はよ……強くなりたかった。誰も俺を虐げられねぇように、世界を焼き尽くすくらいの『火力』が欲しかった。……だけど、アクアリアの海で気づいたんだ」
カルムは、アルの肩を抱き寄せ、ニッと八重歯を見せて笑った。
「本当の強さってのは、敵を倒すことじゃねぇ。自分の大切な奴らの『居場所』を護り抜くことなんだな。お前が包丁で海竜の鎖を切った時、俺は心底思ったぜ。……俺のこの炎は、お前のスープを温めるために、お前の道を切り開くために神様がくれたんだってな」
カルムの言葉。
それは、かつてスラムの喧嘩屋として孤立していた青年が、生涯を懸けて護るべき「相棒」と出会い、たどり着いた【真の強さ(誓い)】であった。
「俺は、お前の『最高の火力』だ。教国の冷たい氷だろうが、使徒どもの結界だろうが……俺の炎で、全部最高の温度まで溶かしてやるよ!」
「カルム……うんッ!!」
アルとカルムの拳が、夕陽の下で固く、強く打ち合わされた。
二人の間に交わされた熱い体温は、どんな酷寒の地であっても決して消えることのない、絶対の太陽の火種であった。
五、 港の男の意地と膨らむ熱量
「ハハッ! 言ってくれるじゃねぇか、野郎どもッ!」
操舵輪を握る船長ギルが、背中の白銀の銛をバシッと叩きながら、豪快に笑い飛ばした。
「教国の神様がどれだけすまし顔で待ってようが関係ねぇ! アクアリアの海の男たちの意地と、お前たちの熱いスープがあれば、どんな波だって乗り越えられるぜ!」
ギルは、舵輪を力強く固定し、甲板のアルたちへ向かって親指を立てて見せた。
「シーホーク号は、お前らを神座の塔の玄関口まで、安全に送り届ける! ……お前らは、そこでとびっきりの『下ごしらえ』をブチかましてやりなッ!」
「「「「おぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!!!」」」」
甲板の上に響く、命の叫び。
四人の胸の中に膨らむ、絶対の誓い。
スラムの泥底で生まれ、無能の「空箱」だと蔑まれていた少年・アル。
敵を破壊することしか知らなかった炎の喧嘩屋・カルム。
神の冷たい命令に従うだけだった元・最急聖騎士・エレナ。
そして、感情を封じられていた古代の機甲人形・オルタ。
かつては絶望と孤独の暗闇の中にいた四人の魂。
彼らが一杯のスープの熱によって出会い、旅を通じて痛みを分かち合い、互いの欠けた心を埋め合ってきた。
いま、彼らの間には、世界で最も強く、最も温かい【不滅の家族の絆】が燃え盛っていた。
教国ルミナが目指す「感情なき完全管理の世界(大氷期)」。
それに対し、彼らは一振りの包丁と、互いを思いやる不滅の体温をもって挑む。
「……さあ、行こう!」
アルが、漆黒の夜の帳が下り始めた西の空を指差した。
「僕たちの『最高の厨房』で……世界をあたたかくするためにッ!!」
夕陽が水平線の向こうへと沈み、星々が瞬き始める。
膨らむ誓いと不滅の熱量を胸に抱き、チーム『最高の厨房』を乗せた捕鯨船シーホーク号は、いよいよ最終決戦の地・教国ルミナの本土へと、破竹の勢いで突き進んでいくのであった。




