第65話:海の宴
一、 星降る水上広場の熱狂
海洋都市アクアリアの中心部【大水上広場】は、完全なる夜の帳が下りてもなお、真昼のような明るさと熱気に包まれていた。
空には雲一つなく、澄み切った満天の星が、浄化された群青の海面と白亜の建物にキラキラと反射している。広場に並べられた巨大な鉄鍋からは、海竜が残した『海神の涙塩』と新鮮な魚介が織りなす極上の香りが、絶え間なく立ち上り続けていた。
「さあさあ、どんどん食べて! まだまだお魚はいっぱいあるよ!」
調理台の上に立つ少年料理人アルが、額の汗を拭いながら満面の笑顔で木のお玉を振るう。
「料理人様、こっちの鍋にもおかわりを頼む!」
「この銀鱗マグロの頬肉、信じられねぇくらいトロトロだぜ! 頬っぺたが落ちちまう!」
街の漁師や子供たち、かつてはアルたちに冷たい視線を向けていた住人たちも、今は誰もが我先にとお椀を差し出し、満面の笑みを浮かべていた。
恐怖や不信によって冷え切っていた彼らの心は、アルの注ぎ込む『命の熱』と、己自身の生命力を呼び覚ます海の恵みによって、完全に解きほぐされていた。
「アル! 第二ブロックへの配膳、完了しました! 続いて第三ブロックへ向かいますっ!」
オルタが、自身の演算能力をフル稼働させ、給仕のボランティアたちを的確に指揮して広場を駆け回っている。
「うむ。私も魚の解体を急ごう。……しかし、これほどまでに多くの人間が、一つの食卓を囲み、共に笑い合う光景など……教国の歴史書には一行たりとも記されていなかったな」
エレナが、聖剣を脇に置き、作業着姿でマグロを捌きながら、感慨深げに目を細めた。
教国ルミナでは、食事とは単なる「栄養ペレットの摂取」という作業に過ぎない。感情を排し、効率のみを追い求めた冷たい世界。
だが、今彼女の目の前にあるのは、怒りも、悲しみも、すべてを乗り越えた人間たちが生み出す、圧倒的な【生命の熱気(宴)】であった。
広場のあちこちでは、陽気な弦楽器の演奏が始まり、漁師たちが肩を組んで海の歌を歌い、子供たちが水路の縁で跳ね回って踊っている。
アルは、大鍋の火加減を見ながら、その光景を眩しそうに見つめた。
(みんな、すごくいい笑顔だ……。これだよ。僕が作りたかったのは、こういう温かい食卓なんだ)
二、 炎と海の男たち
大広間の一角。
大樽の酒がいくつも並べられた酒盛りエリアでは、一際大きな笑い声が響いていた。
「ギャハハハッ! だから言ったろ! あの深海で俺が放った炎の気泡弾がなけりゃ、アルはあの海竜の額には届かなかったってな!」
「へっ、よく言うぜ赤毛の! あの時、一番ビビって船にへばりついてたのはどこのどいつだったかなぁ!」
カルムが、顔を真っ赤にしながら、アクアリアの船長ギルや荒くれ漁師たちと肩を組み、巨大な木杯で海酒を煽っていた。
「ビビってねぇよ! 俺はただ、水圧ってやつを慎重に見極めてただけだ!」
カルムが八重歯を剥き出しにして言い返すが、その表情に怒りの色はなく、むしろ照れ隠しの笑いが浮かんでいた。
「はははっ、まあいいさ。お前のその『護るための炎』がなけりゃ、俺の銛もただの鉄クズで終わってたからな」
ギルが、豪快に酒を飲み干し、カルムの背中をバシッと叩いた。
その衝撃でカルムが咳き込む。
「だがよ……お前、本当に変わったな」
ギルが、急に真面目な顔をしてカルムの目を見た。
「あのドックで雨に打たれてウジウジしてた時と、深海でアルを抱えて飛び込んだ時のテメェは、まるで別人のような炎の熱を出してやがった。……海の冷たさに負けねぇ、本当に強い火だったぜ」
「……ギル」
カルムは、木杯を置き、自分の右拳を見つめた。
「俺は……ずっと、この拳で誰かをぶっ飛ばすことしか知らなかった。強え奴を殴り倒して、自分を大きく見せることだけが、俺の『火力』だと思ってたんだ」
カルムの脳裏に、深海で己の炎が海に打ち消された瞬間の絶望がよぎる。
だが、その後に見たアルの小さな背中と、温かな光。
「でも、違った。本当の強さってのは、敵を壊すことじゃねぇ。……自分の命を燃やしてでも、誰かの『居場所』を護り抜くことなんだな。アルが俺に教えてくれたんだ」
カルムが、ふっと柔らかい笑みを浮かべると、周囲の漁師たちも黙って頷いた。
「おうよ。俺たち海の男も同じだ」
ギルが、海風の吹く沖合を見つめた。
「海を敵として力でねじ伏せようとすれば、海は波で俺たちを飲み込む。だが、海の恵みに感謝し、海と生きていく覚悟を決めれば……海はこうして、最高の宴を与えてくれる。……お前の炎も、これからはこの海みたいに、デカくて優しい火になるはずだぜ」
「へっ、ジジイに説教されるとはな。……だが、悪くねぇ」
カルムは再び木杯を掲げた。
「俺たちの『最高の厨房』に……そして、このアクアリアの海に乾杯だッ!」
「「「乾杯ッ!!」」」
海の男たちと、かつてのスラムの喧嘩屋が、完全に心を一つにして杯を打ち合わせた。
三、 騎士の追憶と少女の涙
宴の喧騒から少し離れた、静かな浮き桟橋の先端。
エレナは、夜風に銀髪をなびかせながら、穏やかな海面を見つめていた。
「エレナ……ここにおられましたか」
後ろから、トコトコと小さな足音が近づいてきた。
両手におにぎりと温かいスープを持ったオルタだった。
「オルタ。……君も、少しは休めたのか?」
エレナが振り返り、優しく微笑む。
「はい。ワタクシの生体回路は、アルのスープの栄養素を変換し、エネルギー充填率一二〇パーセントを維持しています」
オルタは、エレナの隣に座り、スープの入ったお椀を一つ手渡した。
「ありがとう」
エレナはスープを受け取り、星空を見上げた。
「……教国ルミナにいた頃。私は、こんな風に静かな夜空を見上げることも、誰かと並んで食事をとることもなかった」
エレナの声には、どこか遠い過去を懐かしむような、そして悔やむような響きがあった。
「私は『神の剣』として育てられ、ただ教律に従ってバグ(異端者)を排除することだけが自分の存在意義だと信じていた。……人々の笑顔も、涙も、すべて計算式を乱すノイズだと教え込まれていたからだ」
「エレナ……」
「だが、アル殿と出会い、君たちと共に旅をする中で、私は教えられたのだ。……世界を本当に美しくしているのは、冷たい計算式ではなく、こうして人々が笑い合い、悲しみを乗り越えようとする『心の熱』なのだと」
エレナは、オルタの白磁の手をそっと握った。
「オルタ。君も、アガルタの地下で感情を封じられていた兵器だった。だが今、君の瞳からは、誰かのために涙を流し、誰かのために笑うことができる『心』が溢れている。……それは、神の教律よりも遥かに尊い奇跡だよ」
オルタは、エレナの言葉に、ルビー色の瞳をパチパチと瞬かせた。
そして、彼女の目から、またしても温かな涙がホロリとこぼれ落ちた。
「ワタクシ……泣いてばかりです。アルが傷ついた時も、街の人たちが笑顔になった時も……胸の奥がキュッとなって、水分が制御できなくなります」
オルタは、慌てて目元を拭う。
「ふふ、それでいいのだ。それは、君が『人間』として生きている証なのだから」
二人の乙女は、星明かりの下で、静かにスープを啜り合った。
兵器と騎士。かつては冷たい呪縛に囚われていた二人の魂は、海風の中で、本物の姉妹のように温かな絆で結ばれていた。
四、 恩人へ届ける温もり
夜が更け、宴の熱気も心地よいまどろみへと変わり始めた頃。
アルは、巨大な鉄鍋の火を落とし、調理台の片付けを終えて、一人広場の水際へ足を伸ばしていた。
腰の『黒鉄の包丁』にそっと手を当てる。
深海で海竜の鎖を解体した時、この包丁はかつてないほどの金銀の極光を放った。それは、アル自身の成長であると同時に、この包丁に込められた「アガルタの遺志」が、彼に力を貸してくれた証でもあった。
(……ねえ)
アルは、遠く西の水平線――教国ルミナが座するであろう、星空の彼方を見つめた。
(僕、少しは料理人らしくなれたかな?)
スラムの雨の夜。
ゴミ捨て場の泥水の中で死にかけていた自分を抱きしめ、最高に温かくて甘いスープを飲ませてくれた「あの人」。
「君は空箱じゃない。世界を温める太陽の器だ」と語りかけ、アルの胸にこの不滅の『炉』を灯してくれた恩人。
教国の神座の塔で、今もアルが来るのを待ち続けているという、原初の火の守り手。
(このアクアリアの街の人たち……みんな、笑顔になったよ。カルムも、エレナさんも、オルタも、みんな僕の家族になってくれたんだ)
アルは、自分の胸の奥底でトクトクと脈打つ『炉』の熱を、両手でぎゅっと抱きしめた。
(あの時、あなたが僕にくれたスープの温かさ。……僕、絶対に忘れてないよ。今度は僕が、あなたが待ってるその冷たい塔へ行って、世界で一番温かいスープを作ってあげるからね)
アルの漆黒の瞳に、決意の星明かりが反射する。
恐怖や不安はなかった。
自分の背後には、彼を信じ、共に死線を越えてきた最強の家族たちがいる。
そして、この海で出会ったアクアリアの十五万人の人々の感謝が、彼の背中を力強く押してくれているのだから。
「よお、コック長」
不意に、後ろからカルムの声がした。
振り返ると、カルム、エレナ、オルタの三人が、アルを迎えに来ていた。
「もう片付けは終わったか? 街の連中もすっかり寝静まっちまったぜ」
カルムが、欠伸をしながら笑う。
「うん! 全部ピカピカに磨いてきたよ!」
アルが元気に答える。
「ご苦労だったな、アル殿。今夜は、君が一番ゆっくり休むべきだ。……明日は、いよいよ教国への出航だからな」
エレナが、アルの頭を優しく撫でた。
「はいっ! ワタクシが、アルのためにフカフカのベッドの座標をナビゲートします!」
オルタがアルの手を引く。
「ありがとう、みんな!」
五、 夜明けの海と次なる航路
翌朝。
アクアリアの東の空が、美しい茜色から黄金色へと染まり始める。
港の埠頭には、再び修復と補給を完全に終え、真新しい真っ白な帆を張った捕鯨船『シーホーク号』が、朝陽を浴びて堂々と出航の時を待っていた。
「船長! 燃料のマナ鉱石、満載です! 水と食料も、教国まで十分に保つ量を積み込みました!」
漁師たちが、ギルに報告する。
「おう! ご苦労だったな!」
ギルは、タラップの前に立つアルたち四人へ向き直った。
「アル。カルム、エレナ、オルタ」
ギルは、いつになく真剣な表情で、四人の顔を見渡した。
「俺たち海の男は、一度交わした兄弟の盃は絶対に忘れねぇ。……お前たちを教国の本土まで送り届けるのは、俺たちアクアリアの誇りだ」
ギルは、背中の白銀の銛をバシッと叩いた。
「教国の神罰審判官どもがどれだけ待ち構えてようが関係ねぇ。俺の船が、お前らの道を切り開いてやる。……準備はいいか?」
「うんッ!!」
アルが、力強く頷いた。
「へっ、いつでも行けるぜ! 俺の炎も、早く神様の氷を溶かしたくてウズウズしてやがるからな!」
カルムが両拳を鳴らす。
「不滅の盾は、すでに展開済みだ」
エレナが微笑む。
「最適航路の計算、完了しています! 目指すは西の果て、教国ルミナですっ!」
オルタが右手を高々と掲げる。
昨日までとは違う、確かな自信と、完全に一つに結ばれた絆の熱量。
アルたちは、タラップを登り、シーホーク号の甲板へと立った。
「出航ォォォォォォォォォッ!!!!」
ギルの号令と同時に、巨大な錨が巻き上げられ、白亜の帆が潮風をいっぱいに受けて膨らんだ。
ボーーーーーーーーッ!!!!
アクアリアの街全体から、彼らの旅立ちを祝福する何百という汽笛が鳴り響く。
埠頭には、街の住人たちが大勢集まり、「ありがとう!」「気をつけてな!」と、見えなくなるまで大きく手を振り続けていた。
アルは、船尾の甲板から、どんどん小さくなっていくアクアリアの街を見つめ、大きく手を振り返した。
あの街で出会った人々の笑顔。そして、海竜の残してくれた『海神の涙塩』。
それらはすべて、教国の理不尽な計算式を打ち破るための、最高の『スパイス』となってアルの心に深く刻み込まれていた。
「……さあ、行こう!」
アルは、前を向いた。
どこまでも青く澄み渡る忘却の海の向こう側。
世界の冷たさの根源であり、恩人が待つ絶対聖域――【教国ルミナ】へ向けて。
少年料理人アルと仲間たちの冒険は、第3章の荒れ狂う波涛を乗り越え、いよいよ物語の核心へと迫る新たなる航海へと、力強く船出していくのであった。




