第137話:オルタの進化
一、 月下の鼓動と、式神の繭
アガルタの地上口が、復興の宴の温かな熱気に包まれ、人々が深い安堵の眠りにつき始めた深夜。
空は晴れ渡り、巨大な満月が、青き防衛結界のドームを通して地下都市へと静かな光を落としていた。
カルム、アル、エレナの三人が夜空を見上げていた小高い岩山の上で、その『現象』は始まった。
「……キュウゥゥゥゥ…………」
アルの膝の上で丸くなっていた式神のオルタが、これまでにないほど苦しそうな、しかし同時に強烈な熱を帯びた甲高い鳴き声を上げた。
「……オルタ! どうしたの、熱い……!」
アルが慌ててオルタを抱え上げようとしたが、その小さな黒い身体から放たれる熱量は、すでに人間の皮膚で直接触れられる限界を超えていた。
オルタの体毛がバチバチと静電気のような赤い火花を散らし、皮膚に刻まれた魔導の紋様が、まるで脈打つ心臓のように激しく明滅を繰り返している。
「……触るな、アル!」
カルムがアルの手を掴み、オルタから引き離した。
「……カルム、オルタが……燃えちゃうよ!」
「……燃えてるんじゃねぇ。これは『融解』と『再構築』だ。……こいつは今、自分という存在の『スジ(理)』を丸ごと書き換えようとしてやがる」
カルムの左目——黄金色に輝く【解体眼】が、オルタの体内で起きている驚異的なマナの循環を透過して捉えていた。
オルタは元々、教国の魔導技術によって生み出された人工の式神。人間の魔力を吸い、それに従って使役されるだけの「ただの道具」として設計されていた。
しかし、アルと出会い、共に数々の絶望を潜り抜け、忘却の深淵で共に傷つき、そして今。
カルムがアガルタの魔力炉に流し込んだ『命の熱と祈り』、そして浄化された『星の生命力(龍脈)』を限界まで吸い込んだことで、オルタの人工的なシステムは、完全に『自我』へと昇華しようとしていたのだ。
シュゥゥゥゥゥゥゥゥゥ…………ッ!
オルタの身体から、濃密な漆黒と緋色が混じり合ったマナの糸が大量に吹き出し、瞬く間にオルタ自身を包み込む。
それは、数分と経たないうちに、直径一メートルほどの巨大な【黒と緋色の繭】へと変貌を遂げた。
「……繭……。オルタが、この中で……」
アルが、心配そうに両手を胸の前で組む。
「……あぁ。蝶がサナギの中で一度ドロドロに溶けてから生まれ変わるように……こいつも今、殻の中で自分自身を最高の一皿に調理してるとこだ」
カルムは、繭から放たれる凄まじい熱波を感じながら、ニヤリと笑った。
「……待っててやろうぜ。俺たちの仲間が、どんなバケモノになって帰ってくるか」
二、 繭の胎動、魔導と自然の融合
繭から放たれる鼓動は、次第に激しさを増していった。
ドクンッ、ドクンッ。
その鼓動は、単なる生命の脈動というよりも、巨大なエンジンが起動する前の重低音のような、周囲の空気を物理的に震わせるマナの波動であった。
「……凄まじいマナの密度だ。……教国が保有する最上級の召喚獣すらも凌駕している」
エレナが、大盾の陰から繭を警戒するように見つめた。
「……カルム殿。本当に大丈夫なのか? あれは元々、教国の技術で作られた式神。……もし、強力な力を得たことで、かつての教国の支配プログラム(基本命令)が暴走でもしたら……」
「……心配ねぇよ」
カルムは、繭のすぐそばに腰を下ろし、あぐらをかきながら静かに答えた。
「……エレナ、お前は使徒の作った『神の法則』ってヤツを信じてたから、そういう不安になるんだ。……だがな、アルのスープを飲めば分かるだろうが、この世の『理』ってのは、もっとシンプルで温かいもんなんだよ」
カルムは、繭の表面にそっと生身の右手を触れた。
その表面は超高温のはずだが、カルムの皮膚には一切の火傷は生じない。むしろ、カルムの手から放たれる赤蓮の熱と、繭の熱が、互いに溶け合うように同調していた。
「……こいつの核にあるのは、アルへの『恩返し』だ。……ボロボロだった自分を拾ってくれて、何度も危険な目に遭いながら一緒に戦ってくれたアルのために、もっと強くなりたい、役に立ちたいって……そういう純粋な『祈り』が、こいつのマナを一つにまとめてる」
カルムの解体眼には、繭の内部で渦巻く膨大なエネルギーの中心に、細く、しかし絶対に切れることのない【アルへと伸びる絆の糸】がはっきりと見えていた。
「……教国のプログラムだの、人工の魔導だの……そんな冷てぇ鎖なんか、アルの祈り(火力)で、とっくの昔に焼き切れてるさ。……こいつはもう、立派な『俺たちの家族』だ」
「……カルム……」
アルが、嬉しさと感動で胸をいっぱいにしながら、カルムの隣にしゃがみ込み、自分も繭の表面へそっと両手を当てた。
「……オルタ。……ゆっくりでいいよ。焦らなくていいから……僕たち、ずっとここで待ってるからね」
アルの声が、夜風に乗って繭へと吸い込まれていく。
その直後、繭の鼓動が、まるでアルの言葉に応えるかのように、トクン……と優しく、大きく脈打った。
三、 殻を破る漆黒、進化の咆哮
夜明けが近づき、東の空が白み始めた頃。
パキィィィィンッ……!
静寂を破り、巨大な繭の表面に、幾筋もの亀裂が走った。
「……来るぞ」
カルムが立ち上がり、アルを背後へ庇うように半歩前に出た。エレナも、警戒しつつも期待を込めた眼差しで繭を見つめる。
ピキッ、パキンッ! ズシャァァァァァァァァァンッ!!!!
内部から凄まじいマナの爆風が噴き出し、漆黒と緋色の繭が完全に粉砕された。
飛び散った繭の破片は、空中で光の塵となって朝日に溶けていく。
そして、その光の渦の中心から姿を現したのは——。
「……オ……オルタ……なのか……?」
アルが、息を呑んでその姿を見上げた。
かつては、アルの膝に乗るほどの小さな黒い獣だった。
だが、今のオルタは、体長が三メートル近くにも及ぶ、しなやかで巨大な【漆黒の魔狼】へと驚異的な進化を遂げていたのだ。
その毛並みは、闇そのものを織り込んだように深く艶やかで、四肢には力強い筋肉が隆起している。
額から背中にかけては、カルムの炎と同じ【緋色の魔導紋様】が美しく浮かび上がり、その尾は、まるで炎そのものが燃え盛っているかのように、赤紅のマナの揺らめきを纏っていた。
『……グルゥゥゥゥ…………』
進化したオルタが、低く、しかし大気を震わせるような重厚な唸り声を上げた。
その眼光は、教国の神造魔獣が持つ機械的な冷たさとは対極にある、高い知性と、確かな【野生の威厳】に満ち満ちている。
「……すげぇ。……単なる魔獣じゃねぇ、これは……『霊獣』の領域だ」
カルムが、感嘆の息を漏らした。
武神の孤島で数え切れないほどの怪物を見てきた彼にとっても、今のオルタが放つ気配は、全く次元の違う『完成された生命体(スジの通った存在)』であった。
「……オルタ……」
アルが、恐れることなく、巨大な魔狼へと一歩近づいた。
オルタは、アルの気配に気づくと、威厳に満ちた眼差しを一瞬で和らげ。
かつての小さな子犬だった頃と全く同じように、「キュ~ン」と甘えるような高い声を出しながら、巨大な頭をアルの胸元へとスリスリと擦り寄せてきたのだ。
「……わっ! オルタ、重い、重いよ!」
アルが、オルタの巨大な頭の重さに耐えきれずに尻餅をつくが、その顔には満面の笑みが溢れていた。
オルタは、アルの顔を大きな舌でベロベロと舐め回し、再会の喜びを全身で表現している。
「……ふふっ。……やっぱり、オルタはオルタだね」
「……ハッ。図体ばっかりデカくなりやがって、中身は昔のまんまじゃねぇか」
カルムが苦笑いしながら、オルタの背中の毛並みを乱暴に撫でた。
オルタは、カルムに対しても「ガルッ」と短く吠え、嬉しそうにその太い尾を振り回した。
四、 新たなる力、影渡りと炎牙
「……だが、こいつが得たのはデカい体だけじゃねぇぞ」
カルムが、オルタの四肢に絡みつく微小なマナの流動に目を細めた。
「……おい、オルタ。ちょっとお前の新しい力、見せてみろ」
カルムの言葉に、オルタはピクリと耳を動かし、アルから離れて数歩後ずさった。
そして、その漆黒の瞳を鋭く細めると、全身の緋色の紋様を一斉に発光させた。
シュンッ!!
次の瞬間、オルタの巨大な姿が、まるで空間に溶け込むようにフッと『影』となって消失したのだ。
「……え!? オルタが消えた!」
アルが慌てて周囲を見回す。
「……違う、消えたんじゃない。……アル、自分の足元を見てみろ」
エレナが、驚愕の色を隠せない声で指差した。
アルが自分の足元の影を見ると、その影の中から、オルタの巨大な頭がヌゥッと突き出し、アルを見上げていた。
「……影の中を……移動しているのか……!?」
「……『影渡り』だな。光とマナが届く範囲なら、どんな物陰にも一瞬で転移できる。……完全な隠密と、奇襲の極致だ」
カルムが、解体眼でオルタの能力を分析する。
シュンッ!
再び影に沈んだオルタは、今度は数十メートル離れた瓦礫の山の頂に姿を現した。
そして、オルタは大きく口を開き、その顎の奥に、灼熱の【緋色の炎】をチャージし始めた。
それは、カルムの赤蓮の炎と、アガルタの龍脈の力が完全に融合した、極大の炎弾。
『ガァァァァァァァァァァァッ!!!!』
オルタが放った炎弾は、夜明けの空を引き裂くような速度で、廃墟の彼方にあった巨大な岩壁へと直撃した。
ズガァァァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!
すさまじい爆発。
だが、その爆発は周囲に被害を撒き散らす無秩序なものではない。
岩壁の一点だけをピンポイントでドロドロに溶かし、貫通させるという、極限まで『指向性』が絞り込まれた、まるで狙撃銃のような精密な破壊力であった。
「……俺の『解体の理』まで、少しコピーしてやがるな。……ただ燃やすんじゃなく、対象の『スジ(急所)』にだけ全火力を叩き込む炎。……見事なもんだ」
カルムが、感心したように腕を組んで頷いた。
影の中を自在に渡り歩く機動力。
そして、巨大な体躯から放たれる、ピンポイントの解体炎弾。
これまでのオルタは、アルを守るための盾になることしかできなかった。
だが、進化したオルタは、カルムやエレナと共に最前線を駆けることができる、真の『戦闘獣』へと変貌を遂げたのだ。
五、 家族の集結と、戦力の確立
オルタが満足げに尻尾を振りながら、再びアルの足元の影へとスゥッと沈み込み、気配を完全に消した。
「……すごいよ、オルタ! これなら、どんな敵が来ても絶対に負けないね!」
アルが、自分の影に向かって嬉しそうに語りかける。
影の中から、「クゥン」という頼もしい返事が聞こえた。
「……これで、俺たちのパーティーの戦力は完全に揃ったな」
カルムは、朝日が昇り始めたアガルタの空を見上げながら、静かに宣言した。
俺という、どんな神の理不尽も切り裂く【最高の火力(包丁)】。
アルという、すべての食材(敵)の命の形を見極め、味方へ癒しを与える【真理の目(料理人)】。
エレナという、どんな攻撃からも俺たちの背中を護り抜く【不滅の盾】。
そして、進化したオルタという、敵の死角を突き、戦場を自在に支配する【漆黒の影牙】。
四つの全く異なるピースが、互いを補い合い、完璧に噛み合った状態。
それは、かつて教国が誇ったいかなる聖騎士団の陣形よりも強固で、隙のない、真の『最強パーティー』の完成であった。
「……フッ。……スラムの少年たちと、教国を追われた騎士、そして人工の式神。……世界から弾き出された者たちの寄せ集めが、神を討つ最強の剣になるとはな」
エレナが、朝日に照らされる仲間たちの顔を見渡し、誇らしげに微笑んだ。
「……寄せ集めじゃねぇよ。俺たちは『家族』だ」
カルムが、エレナの言葉を訂正するように、力強く言った。
「……神様の作った窮屈な箱庭の中で、血筋だの才能だので選ばれた奴らなんかより……同じ釜の飯を食って、一緒に泣いて、一緒に笑って、一緒に地獄を乗り越えた俺たちの方が……絶対に、強い」
六、 朝日に誓う反撃の意志
アガルタの地下都市から、復興作業の続きを始める人々の活気ある声が聞こえ始めていた。
朝の光が、半壊した地上口の防壁を照らし、カルムたちの足元に長く、力強い影を落とす。
「……さて。……仲間も揃ったことだし、そろそろ『次の仕込み』に入るとするか」
カルムが、アガルタの遥か上空……三使徒たちが退避した、見えない空の彼方(天門)を睨み据えた。
「……神様どもが空の上で縮み上がってる間に、地上を完全に俺たちの『厨房』に変えてやる。……世界中の腹をすかせてる連中を全部集めて……全員で、あいつらの居城へ向けてのデッケェ反撃の狼煙を上げるぞ」
「……うんッ! 最高の料理を作って、みんなにたくさん食べてもらおう! 僕たちのスープがあれば、どんなに遠い場所でも、みんなの心は一つに繋がるはずだから!」
アルが、黒鉄の包丁を高く掲げ、朝日に向かって元気よく叫んだ。
オルタの進化は、彼らにとって単なる戦力の増強ではない。
それは、カルムの炎とアルの祈りが生み出した、生命の可能性の証明。
神が定めた『限界』など、人間の意志と絆の前には存在しないという、絶対的な確信であった。




