第115話:筋を見極める眼
一、 静寂の帳と、視界の変質
ズズズズズ……ッ。
巨大キメラが放った多重破壊ブレスが、カルムの構えた『真紅と緋色の概念刃』によって真っ二つに裂け、三十倍重力のクレーターの底を抉り去ってから数秒。
黒曜石の大地には、暴風の余波で舞い上がった土煙と原初マナの粒子が、紫色の雪のように静かに降り注いでいた。
三十倍の重圧が支配する狂気の空間にあって、その一帯だけが、まるで別の次元に切り取られたかのように深い静寂に包まれていた。
「グル……ルルルル……ッ」
全長五十メートルを超える巨大キメラ——古代の闘鬼に敗れ去った無数の魔獣たちの怨念と、星の深淵の原初マナが融合して生まれた絶望の具現。その九つの竜の頭が、低く不気味な唸り声を漏らしていた。
彼らの多重眼に宿っているのは、先ほどまでの圧倒的な強者としての傲慢さではない。
自らが全存在を懸けて放った最大火力の奔流が、両腕を失い、血だるまになった取るに足らないはずの人間によって、力で弾き返されるでもなく、ただ『綺麗に左右に分けられた』という理解不能な現実に対する、本能的な【畏怖】であった。
「……ハァ……ッ……ハァ……ッ……。……どうした、デカブツ」
土煙の向こう側から、血と泥にまみれたカルムが、三十倍重力の大地を踏みしめて立ち上がった。
彼の肉体は、すでに限界を通り越している。
極限覚醒の代償で完全に炭化した右腕は、肩の付け根から黒い灰をポロポロとこぼしている。武神の残滓に叩き折られ、肘から先を吹き飛ばされた左腕からは、赤黒い血が止めどなく流れ落ち、黒曜石の地面を濡らしていた。
内臓は砕け、肋骨は折れ曲がり、三十倍重力に耐え続ける筋肉は断裂の悲鳴を上げ続けている。
マナ回路を喪失した彼には、治癒の魔法も、身体強化の魔法も存在しない。
だが、彼の両肩と左肘の断面から伸びる、【極限まで圧縮された真紅と緋色の炎】。
それは、先ほどまでの「力任せに膨張する暴力の炎」ではなく、厚さ数ミクロンにまで圧縮され、研ぎ澄まされ、空気を切る音すら立てない【極薄の概念刃】として、陽炎のように静かに揺らめいていた。
「……俺は……まだ、一歩も引いちゃいねぇぞ……」
カルムは、掠れた声で嗤った。
その瞬間。
カッ……!!
カルムの左目——三使徒との戦いで負傷し、常に修羅の光を宿していたその瞳孔の奥で、強烈な【黄金色の光】が、脈打つように明滅を始めた。
「……ッ……!」
カルム自身も、その視界の急激な変化に息を呑んだ。
痛いわけではない。むしろ、激痛で濁っていた脳髄が、氷水を浴びたように一瞬でクリアに澄み渡っていく感覚。
視界が、変質する。
ただの岩肌や、空の赤さや、魔物の巨体という「表面上の物質」を見るだけの眼ではない。
物質を構成する分子の結合、重力場が歪ませる空間の波紋、大気中に漂う原初マナの流れ。
そして何より、眼前にそびえ立つ巨大キメラの体内で渦巻いている、何万という魔獣たちの怨念の絡み合い、筋肉の収縮、骨格の摩擦、エネルギーが生成され放出されるまでの【全ての因果の糸】が。
まるで高精細なレントゲン写真か、あるいは宇宙の設計図そのもののように、カルムの左目に圧倒的な情報量となって流れ込んできたのだ。
(……これは……。……アルの野郎が……いつも見てた世界か……?)
カルムは、黄金に輝く左目を見開きながら、脳裏に一つの情景を思い出していた。
二、 伏線回収:スラムの市場と『真理の目』
あれは、教国ルミナの最下層スラムに、珍しく薄日が差した日のことだった。
カルムは、アルの荷物持ちとして、スラムのはずれにある闇市場へ買い出しに付き合わされていた。
露店には、魔物の肉や、得体の知れない深海魚、形がいびつな野菜などが雑多に並べられ、荒くれ者の店主たちが大声で客引きをしている。
当時のカルムは、食材の良し悪しなど全く分からなかった。
「肉はデカければデカいほどいい」「色は赤い方が強そうだ」といった、ただの見た目と直感だけで物事を判断していた。
『おい、シェフ。あそこの肉、めっちゃデケェぞ。あれ買って焼こうぜ』
カルムが、露店の隅に吊るされていた、巨大な角豚の肉塊を指差して言った。
店主も「坊主、目が高いな! 今日一番の大物だ!」と笑っていた。
だが、アルはその肉塊の前に立つと、少しだけ漆黒の瞳を細め、じっと肉の断面を見つめた。
そして、ふるふると首を横に振ったのだ。
『ううん、ダメだよカルム。あの肉は、見た目は大きいけど……中が全部「死んでる」から』
『はあ? 死んでるって、そりゃ殺して肉になってんだから死んでるに決まってんだろ』
『そうじゃないの。……あの肉はね、殺される時にすごく怖がって、筋肉が変に強張ったまま固まっちゃってるんだ。だから、肉の繊維が全部絡まっちゃってて、どんなに煮込んでも柔らかくならないし、命の美味しいところ(旨味)が外に逃げちゃってる。……あれじゃあ、いくら火を通しても、美味しい料理にはならないよ』
アルはそう言うと、隣の露店にあった、少し小ぶりで見た目も悪い、くすんだ色の肉の塊を指差した。
『こっちのお肉の方が、ずっといいよ。……ほら、お肉の中に走ってる細い「道」が見えるでしょ? あのスジが、まっすぐ綺麗に通ってる。命がちゃんと、美味しいところを残してくれてるんだ』
当時のカルムには、アルが何を言っているのか全く理解できなかった。
『道』だの『スジ』だの、カルムの眼にはただの赤い肉の塊にしか見えなかったからだ。
だが、後になってアルが作った料理を食べた時、カルムはその言葉の意味を痛感した。
見た目は悪かったあの肉が、口の中でホロホロととろけ、信じられないほどの旨味となって全身に染み渡ったのだ。
『すげぇな、お前……。肉の中身が、切る前から視えてんのかよ』
『えへへ。視えるっていうか……食材の方から、「ここを切って」って教えてくれるんだよ』
その時のアルの笑顔。
そして、彼が食材を見つめる時に見せていた、あの吸い込まれるような【黄金色の眼差し】。
それが今、すべてを失った絶望の孤島の底で、カルムの左目に宿っていた。
アルが持っていた【真理の目】。
それは、世界のあらゆる物質と因果を『食材』として解体し、再構築するための究極の眼。
その眼が、なぜマナ回路を持たないカルムに発現したのか。
理由は一つ。
カルムが、武神の残滓との死闘の果てに、ただ力で殴るだけの暴力を捨て、アルの『解体の理』を自らの魂に完全に刻み込み、極限の死の淵で【アルの祈り(緋色の極光)】と一体化したからだ。
相棒の背中を護るという絶対の誓い。その絆の深さが、物理的・霊的な境界を越えて、アルの視ていた世界(真理)をカルムの魂に共有させたのである。
(……スゲェな。……世界ってのは……こんなにハッキリと、『理』で繋がってやがったのか……)
カルムの左目は、巨大キメラの全身を巡るマナの流れを、一本一本の毛細血管のように鮮明に視覚化していた。
そして、その流れが交差し、最も力が集中し、同時に最も脆くなる【結節点(隙間)】が、まるで光の点のように浮かび上がって見えていた。
三、 狂獣の反撃と、三十倍重力の舞
「グルオオオオオオオオオオオオオッ!!!!」
カルムの沈黙と、その左目から放たれる未知のプレッシャーに耐えきれなくなった巨大キメラが、ついに物理的な暴力でカルムを蹂躙すべく、その巨体を動かした。
ズズゥゥゥゥゥゥゥゥンッ!!!!
三十倍重力の大地が悲鳴を上げる。
キメラの重甲蜘蛛の脚が、黒曜石の岩盤を抉りながら、カルムを串刺しにすべく、音速を超える速度で上空から降り注いできた。
一本、二本、三本。
巨大な槍のような脚が、雨霰のようにカルムの頭上から襲いかかる。
これまでのカルムであれば、炎の出力を全開にして、その脚を力任せに殴り折りに行き、結果としてキメラの異常な硬度に己の骨を砕かれていただろう。
だが。
「……見え見えなんだよ。……お前の力任せの『スジ』はよッ!」
カルムは、三十倍の重圧に逆らうことなく、自らの身体の力を完全に抜いた。
まるで重力に身を委ねる落ち葉のように、カルムの肉体がふわりと斜めにスライドする。
ズドォォォォォォォォンッ!!!!
キメラの第一の脚が、カルムの鼻先数ミリをかすめ、黒曜石の地面に深く突き刺さる。
その瞬間。
カルムは、自らの左肩の断面から伸びる【緋色の極薄刃】を、突き刺さったキメラの脚の『関節の隙間』へ向けて、そっと滑り込ませた。
腕力で振るのではない。
相手の脚が地面に突き刺さった際の【衝撃の反動】と、カルム自身の【三十倍重力による落下の体重】。
それらのベクトルを完全に計算し、刃の角度をピタリと合わせただけ。
スゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ…………ッ!!!!
硬質な金属音すら鳴らない。
キメラの鋼鉄以上の硬度を誇る脚の関節が、まるで豆腐を切るように、一切の抵抗なく斜めに綺麗に両断されたのだ。
「ギ……ッ!?」
キメラが、自らの脚が切断されたことに気づくよりも早く。
「次だッ!」
カルムは、切断した脚の断面を軸にして、コマのように身体を旋回させた。
第二の脚、第三の脚が迫る。
カルムは、今度は右肩から伸びる【真紅の極薄刃】を使い、相手の攻撃が最も加速し、力のベクトルが一直線に伸びきった瞬間の『スジ(張力)』を狙う。
力が入っている糸ほど、カミソリを当てれば簡単に切れる。
それと同じ理屈だ。
シャァァァァァァァァンッ!!!!
シャァァァァァァァァンッ!!!!
閃光のような二つの刃の軌跡が宙を舞い、キメラの二本の脚が、空中で空回りするように綺麗に切断され、三十倍重力の大地へとドスリと落ちた。
「……ハァ……ッ。……どうだ。……力任せにぶっ壊されるのと違って……綺麗な断面だろ?」
カルムは、旋回の勢いを殺し、血まみれの足で着地しながら、キメラを見上げて嗤った。
その動きは、もはや闘争や喧嘩の類ではなかった。
三十倍重力という極限の負荷を利用し、自らの身体を刃とする、完成された【解体の舞】。
痛みを忘れ、絶望を忘れ、ただ目の前の巨大な食材を完璧に捌くことだけに特化した、究極の修羅の演武であった。
四、 伏線回収:神の法則と、切断の真理
「グルアァァァァァァァァァッ!!!!」
三本の脚を切り落とされたキメラが、激痛と屈辱に狂乱し、九つの竜の頭を振り乱してカルムへと噛みかかってきた。
だが、カルムの黄金の左目は、その九つの首の軌道も完全に読み切っていた。
(……右から来る炎の頭、左から来る氷の頭。……それぞれの軌道が交差する瞬間、マナの波長が反発し合って、首の根元に一瞬の『力の空白』ができる……!)
カルムは、三十倍重力の大地を滑るように前進し、迫り来る竜の顎をミリ単位の体捌きで回避しながら、次々とその首の根元へ向けて極薄の概念刃を滑り込ませていく。
ズバァァァァンッ! スパァァァァンッ!
一閃、二閃。
カルムが通り抜けた後には、綺麗に切断された竜の首が、噴水のように原初マナを吹き出しながら地面に転がっていく。
(……俺は、気づくのが遅すぎたんだ……)
カルムは、キメラの巨体を解体しながら、自らの愚かさを脳内で回顧していた。
あの時。
聖都ルミナの地下で、三使徒エノクやメリエルと対峙した時。
彼らは、『十万』『百万』という絶対的な数値を誇る神の装甲(法則)を展開し、カルムの極光炎を完全に防ぎ切った。
当時のカルムは、「俺の火力が足りないからだ」「もっと強い炎を出せば壁を壊せるはずだ」と思い込み、限界を超えてマナ回路を焼き切るまで出力を上げ続けた。
そして、結果として全てを失った。
だが、アルはどうだった?
アルは、マナを持たないただの人間でありながら、折れた包丁一本で、使徒の『絶対の法則』を解体しようとしていたではないか。
あの時、使徒エノクはアルの包丁の刃先を見て、確かに『法則が削り取られている』と戦慄していた。
(……力で壁を叩き割ろうとするから、弾き返されるんだ)
カルムの刃が、キメラの放った猛毒の酸の塊を、その【マナの結合の隙間】を突いて真っ二つに切り裂く。
(……どんなに分厚い壁でも、どんなに絶対的な法則でも……。それが『神によって作られた形』である以上、そこには必ず、設計図通りの『繋ぎ目』が存在する)
アルが食材の命の形を見たように。
神が世界を管理するために編み出した法則も、結局はマナというエネルギーを複雑に編み込んだ『構造物』に過ぎない。
その構造物の、最も力が集中し、同時に最も脆い『理の結節点』を見極め、そこに極限まで薄く研ぎ澄ました刃を滑り込ませれば。
力(数値)の大小など関係ない。
『百万』の装甲であろうと、『一』の刃で綺麗に解体することができるのだ。
(……これが……。……お前が俺に見せてくれた、料理人の……世界の解体なんだな、アル……!)
カルムの全身を巡る、真紅と緋色の炎。
それは、ただの物理的な熱エネルギーから、因果を断ち切る『概念』そのものへと、完全なる昇華を果たしつつあった。
五、 絶望の再生機能、その呪縛を解く
「シャアァァァァァァァァァッ!!!!」
キメラが、六つの頭を失い、脚を失いながらも、全く怯むことなくカルムへと突進を続けてくる。
それもそのはずだ。
先ほど、カルムが力任せに炎の拳で頭を吹き飛ばした時、キメラはわずか数秒で完全に首を再生させてみせたのだから。
ドロドロの原初マナが、切断されたキメラの首の断面から溢れ出し、再び新しい竜の頭を形成しようと蠢き始める。
(……やっぱり、また再生しようとしやがるな……)
カルムは、その様子を冷静に見つめていた。
これまでの彼なら、「何度でもぶっ壊してやる!」と焦って力任せの打撃を繰り返していただろう。
だが、今のカルムの【解体眼】は、キメラの再生のメカニズム(スジ)の正体を、はっきりと捉えていた。
(……こいつの再生能力は、ただ肉体が復元してるわけじゃねぇ。……この島に染み付いた『敗北した魔獣たちの怨念』が、原初マナを接着剤にして、無理やり肉の形を繋ぎ止めてるだけだ……)
だからこそ、力任せに殴って肉体を吹き飛ばしても意味がなかったのだ。
肉が消し飛んでも、その空間に残った【怨念という見えない糸】が断ち切られていない限り、無限にマナを集めて何度でも蘇る。
それが、古代の闘鬼に敗れ去った者たちの、底知れぬ呪縛の正体。
「……アルが言ってたぜ。……『死んだ食材は、ちゃんと成仏させて(美味しく料理して)あげないと、変に固まって不味くなる』ってな」
カルムは、炎の双腕をゆっくりと交差させた。
「……お前らも、武神に負けて、死にきれずに何万年もこの島で固まってたんだろ。……可哀想にな。……俺が、その呪いの糸ごと……綺麗に解体(料理)してやるよ」
再生しようと蠢く原初マナの泥の塊。
カルムは、そこに物理的な刃を叩き込むのではなく。
黄金の左目で見極めた、マナの泥の中心で黒く絡み合っている【怨念の結節点】へ向けて、極薄の概念刃を静かに突き入れた。
スッ……。
「……ッ!?」
その瞬間。
キメラの全身を覆っていた狂気的なプレッシャーが、嘘のように霧散した。
シュゥゥゥゥゥゥゥ…………。
再生しようと盛り上がっていた原初マナの泥が、まるで風船がしぼむように、ボロボロと崩れ落ちていく。
それだけではない。
先ほどカルムが『スジ』を狙って切断した竜の首や、重甲蜘蛛の脚の断面からも、怨念の黒い糸がプツリプツリと切れ、浄化されるように光の粒子となって空へと昇り始めたのだ。
「……ギ……ォ……ォォォ……」
キメラの残された三つの頭が、信じられないものを見たように、力なくうなだれた。
再生しない。
無限に蘇るはずだった彼らの肉体が、カルムの刃に触れた部分から、完全に『死(機能停止)』を迎え始めたのだ。
(……切れたぜ。……肉体だけじゃねぇ。……こいつらを繋ぎ止めてた、呪いの理そのものを……!)
カルムは、自身の刃がもたらした結果に、確かな手応えを感じていた。
これこそが、アルの料理の神髄。
ただ食材を壊すのではなく、命の構造を正しく解きほぐし、新たな理(料理)へと昇華させること。
カルムの放った概念刃は、武神の孤島という呪われた地獄の法則すらも、根本から断ち切り始めていたのだ。
六、 極限の解体演武、三十倍重力の厨房
「……さぁ、仕上げだ……。……お前の一番硬くて、一番旨ぇところを……捌いてやるよ」
カルムは、完全に無力化しつつある巨大キメラに向かって、ゆっくりと歩みを進めた。
三十倍重力の大地を歩く彼の足取りは、もはや重力を全く感じさせないほどに軽やかで、静謐だった。
キメラに残されたのは、巨大な胴体と、三つの竜の頭、そして最後の一撃を放つための原初溶岩蛇の太い尻尾だけ。
だが、その生命力は未だに巨大であり、絶体絶命の窮地に立たされたことで、キメラの体内のすべてのマナが【心臓部】へと一極集中を始めていた。
ドクンッ……! ドクンッ……!
巨大な鼓動が、クレーターの底を揺らす。
キメラの胸の中央、黒曜石の甲殻に守られた最深部で、この島のすべての怨念とマナが圧縮された、超高密度の『絶望の核』が生成されようとしている。
もしそれが自爆するように解放されれば、三十倍重力の空間ごと、この島すべてが宇宙のチリとなって消え去るだろう。
「……グルルルォォォォォォォォォォッ!!!!」
キメラが、最後の力を振り絞り、その巨大な尻尾を大上段からカルムへと振り下ろした。
同時に、三つの頭がカルムの退路を塞ぐように、マグマと氷と雷のブレスを吐き散らす。
絶望の波状攻撃。
だが、今のカルムの眼には、それらすべてが『ゆっくりと動く料理の素材』にしか見えていなかった。
(……右から来るブレスは、氷と雷の交差点。……そこを、真紅の刃で斜めに滑らせる)
カルムは、右肩の概念刃をスッと振るい、迫り来る二つのブレスの結節点を完璧に両断した。
(……上から落ちてくる尻尾は、重力に任せて真っ直ぐに。……だったら、俺は少しだけ軸を左にずらして、関節の隙間を下から掬い上げる)
ズドォォォォンッ!!
尻尾が地面を叩き割る直前、カルムの左肩の緋色の概念刃が、尻尾の関節を滑らかに通り抜け、その巨体を根元から完全に切り離した。
(……残るは、正面のマグマのブレスと……その奥にある、分厚い胸の甲殻)
カルムは、迫るマグマのブレスに対して、刃を立てなかった。
彼は、三十倍重力に身を委ね、自らの身体を極限まで低く沈み込ませると、ブレスの熱波の『底』——地面との間に生じるわずかな気流の隙間を滑るようにして、キメラの巨大な懐へと一気に潜り込んだのだ。
「……貰ったぜ……お前の『一番の急所』……!」
カルムの左目(黄金の解体眼)が、キメラの分厚い胸の甲殻の奥で脈打つ、超高密度の【怨念の核】を完全に捉えた。
その核を覆う甲殻は、三十倍重力で圧縮され、鋼鉄の何百倍もの硬度を誇る。
だが、どんなに硬くとも。
そこには必ず、九つの頭と多節の脚、そして尻尾へと力を分配するための【複雑なスジの交差点】が存在するのだ。
(……視える。……力の流れが交わり、最も複雑に絡み合っている……そのド真ん中。……針の穴を通すような、極小の隙間が……!)
カルムは、キメラの胸部へ向けて、自らの右足を踏み込んだ。
三十倍の重力が、カルムの踏み込みに絶大な質量を乗せる。
そして。
カルムは、両肩から伸びる極薄の『真紅と緋色の概念刃』を、自らの胸の前でピタリと【交差】させた。
七、 終の太刀——『我流・神殺しの解体刃』
「……これが……俺とアルの……新しい『火(刃)』だ……ッ!」
カルムの魂の底から、絞り出すような咆哮が響き渡った。
交差させた二つの概念刃。
カルム自身の命を燃やす『真紅の熱』と、アルの祈りが形となった『緋色の極光』。
相反し、時に反発し合うはずの二つの熱が、カルムの極限の集中力と解体眼の導きによって、ミクロン単位で完璧に重なり合い、融合した。
シュゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ…………ッ!!!!
世界が、白く染まった。
熱ではない。
音すらない。
ただ、物理法則も、マナの概念も、怨念の呪縛も、すべてを【切断し、解きほぐす】という究極の理だけが、カルムの交差させた刃の先端に絶対的な光となって収束した。
「……オラァァァァァァァァァァッ!!!!」
カルムは、交差させた刃を、キメラの胸の甲殻の奥に潜む『スジの交差点(核)』へ向けて、三十倍重力の加速に乗せて一気に解き放った(クロス・スラッシュ)!
ガキィィィィィィィィィィィィィィィンッ!!!!!!!!
響き渡ったのは、この孤島が誕生して以来、かつて一度も鳴ったことのないような、世界そのもののガラスが割れるような凄まじい音だった。
カルムの放った『我流・神殺しの解体刃』は。
キメラの絶対的な防御を誇る胸の甲殻を、一切の抵抗なくすり抜け。
その奥で渦巻いていた、超高密度の原初マナと何万もの怨念の結び目(核)を、寸分違わぬ精度で、完璧に【十字に両断】したのだ。
「……グル……オ……ォォォォォォ…………」
巨大キメラの動きが、完全に、そして永遠に静止した。
内部で圧縮されていた絶望の核が、解体されたことによって、爆発することなく、まるでほどけた毛糸玉のようにパラパラと光の粒子となって解け始めた。
シュゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ…………。
三十倍重力のクレーターの底で。
全長五十メートルを超える古代の怨念の塊が、カルムの放った究極の解体刃によって、音もなく、光の塵となって四散していく。
それは、暴力による破壊ではなく。
料理人が、素晴らしい食材に最高の包丁を入れ、その命の役目を全うさせてあげたかのような……美しく、荘厳な【最期(解体)】であった。
八、 修羅の到達点と、静かなる勝利
サラサラサラ……。
キメラが消え去った後には、原初マナの浄化された粒子が、雪のように舞い散るばかりだった。
三十倍の異常重力も、キメラの核が消滅したことで急激に弱まり、クレーターの底には、かつてないほどの穏やかな静寂が訪れていた。
「……ハァ……ッ……ハァ……ッ……ハァ……っ……」
カルムは、交差させた刃の構えを解き、その場に力なく膝を突いた。
限界だった。
限界という言葉すら、もう何十回通り越したか分からない。
両肩の『炎の概念刃』が、役目を終えたようにシュゥゥッと音を立てて霧散し、カルムの身体から完全に消え去った。
残されたのは、炭化して崩れ落ちた右肩と、肘から先を失い、ボロボロになった左腕。
全身の骨は砕け、血は流れ尽くし、意識は深い闇の底へと沈もうとしている。
マナ回路のない生身の人間が、己の命の熱と相棒の祈りだけで、武神の残滓と巨大キメラという二つの古代の絶望を打ち破った。
その代償は、カルム自身の命が今ここで尽きようとしていることだ。
だが。
「……へっ……。……どうだ……シェフ……」
カルムは、血の海に倒れ込みながらも、真っ赤に染まった空を見上げて、満足げに笑っていた。
「……俺の……包丁さばき……。……なかなか……綺麗だったろ……?」
力任せの暴力を捨て、理を見極め、解体する術を手に入れた。
神の絶対の法則すらも切り裂ける、俺たちだけの『刃』を完成させた。
これなら、絶対に、使徒どもをぶち殺せる。
アルの背中を、最高の火力(刃)で護ってやることができる。
カルムの魂は、深い絶望の地獄を乗り越え、ついに彼が求めていた【最強の武の完成形】へと到達したのだ。
(……あぁ……。……でも、わりぃ……。……俺の命……ここまでみたいだ……)
視界が、急速に暗転していく。
心臓の鼓動が、静かに、本当に静かに停止に向かっている。
目的は果たした。力は手に入れた。
だが、それをアルの元へ持ち帰るための肉体が、もう一ミリも残されていない。
カルムは、死を受け入れようと、静かに左目を閉じた。
その、時だった。
九、 地の底に差し込む一筋の光
『――――まったく。手のかかる患者だ』
静寂のクレーターの底に。
冷たく、しかしどこまでも透き通った、凛とした女性の声が響き渡った。
「……あ……?」
カルムの閉ざしかけた意識が、その声にわずかに反応する。
幻聴か?
こんな絶海の地獄の底に、人間の声が響くわけがない。
だが。
ザクッ、ザクッ。
黒曜石の地面を踏みしめる、確かな足音。
そして、カルムの閉じかけた視界の端に、三十倍重力のクレーターの斜面を、全く意に介さずにゆっくりと下りてくる【一つの影】が映り込んだ。
それは、白衣のような薄汚れたコートを羽織り、乱れた長い銀髪を揺らす、一人の女性だった。
彼女の周囲には、原初マナの毒も、残存する異常重力も、まるで「彼女の存在を避けるように」して空間が歪み、道を空けている。
(……誰だ……? ……使徒……か……? いや……違う……)
カルムの薄れゆく解体眼が、その女性の姿を捉える。
神聖なマナの光はない。
だが、彼女の放つプレッシャーは、先ほどの武神の残滓やキメラすらも遥かに凌駕する、底知れぬ深淵を感じさせた。
女性は、血の海に沈むカルムの傍まで歩み寄ると、呆れたようにため息をついた。
『マナ回路を自ら焼き切り、両腕を失い、全身の骨を粉砕し、さらに己の命を燃やして魂を顕現させる……。自殺志願者でも、もう少しマシな死に方を選ぶぞ』
「……てめぇ……誰……だ……。……俺は……まだ……」
カルムは、掠れた声で威嚇しようとしたが、言葉にならなかった。
女性は、カルムの言葉を無視して、その細く白い指先を、カルムの炭化した右肩と、砕けた左腕の断面にそっと触れた。
『……だが。力任せの暴力を捨て、極限の死の淵で【解体の理】に到達したその執念。……それに免じて、特別に「修復」してやろう』
「……なに……?」
その瞬間。
シュゥゥゥゥゥゥゥゥゥ…………ッ!!!!
女性の指先から、カルムの体内に、信じられないほどの【圧倒的な生命力の奔流】が流れ込んできたのだ。
それは、教国の治癒魔法のような神聖な光ではない。
原初マナの根源、星の命そのものを直接カルムの細胞に流し込むような、荒々しくも絶対的な再生のエネルギー。
バキバキバキッ! メキメキメキッ!
カルムの砕けた全身の骨が、凄まじい音を立てて正しい位置へと戻り、結合していく。
破裂していた内臓が再生し、千切れた筋肉が太く強靭に編み直される。
そして何より。
「……が……ぁぁぁっ!?」
カルムの炭化していた右腕の肉が剥がれ落ち、そこから、原初マナの結晶を取り込んだ、鋼のように強靭な【新しい生身の右腕】が再生し始めたのだ。
吹き飛ばされた左腕も同様に、真っ白な骨格が形成され、筋肉が覆い、指先までが完全に復元されていく。
『……勘違いするなよ、小僧。私はお前を助けに来たわけではない。……お前が掴み取ったその「理」が、私の研究の対象として少しだけ興味深かったから、サンプルとして生かしておくだけだ』
女性は、冷たい眼差しでカルムを見下ろしながら、淡々と告げた。
カルムの視界が、急速にクリアになっていく。
激痛が消え去り、代わりに、かつてないほどの力強い生命力が全身を駆け巡っている。
両腕が、動く。
マナ回路は失われたままだが、炎の腕として覚醒させた『命の熱』を、この新しい生身の肉体に完璧に宿すことができる確かな感覚があった。
「……てめぇ……。……助けてもらった恩は……返すぜ。……名前……なんて言うんだ……?」
カルムは、再生したばかりの右腕で地面を押し、ゆっくりと立ち上がりながら、その謎の女性に尋ねた。
女性は、銀髪をかき上げ、カルムの背後——遥か上方の、星の地殻の天井を見上げた。
『……名乗るほどの者ではない。……強いて言うなら、かつてこの星の理を解き明かそうとし、神に反逆して地下へ追放された……【最初の魔女(探求者)】の成れの果てだ』
魔女。
神に反逆した者。
その言葉の真意をカルムが問い質すより早く。
『さぁ、立て、修羅の小僧。お前の「最高の厨房」での仕事は、ここからが本番だろう。……お前を待っている料理人の元へ、その新しい腕と刃を持って帰るがいい』
女性の姿が、原初マナの霧の中に、幻のように溶け込んで消えていった。
残されたのは、完全に再生し、より強靭な肉体と『我流・神殺しの刃』を手に入れた、最強の片腕……いや、完全なる修羅の戦士、カルム。
「……へっ。……最高の厨房、か」
カルムは、再生した両手の拳を強く握り合わせた。
バチィッ!!
生身の拳の表面に、真紅と緋色の概念刃が、彼の意志に完璧に呼応して陽炎のように揺らめく。
もはや、激痛はない。命を削る反動も、再生した肉体が完全にコントロールしている。
「……待ってろよ、アル。……エレナ。……俺は……お前らの最高の火力として、今度こそ帰るぜッ!」
武神の孤島での地獄の修練を乗り越え。
筋を見極める解体眼と、神の理すらも両断する概念刃を手に入れたカルム。
彼がいよいよ、絶海の孤島から反撃の狼煙を上げ、相棒たちの待つ場所へと帰還の途につく。
壮絶なる修練編は、ここから最大のカタルシス(第116話「力の流れを解体する」以降)へと向かって、爆発的な加速を見せていくのであった。




