第110話:無慈悲な拳
一、 圧殺の足音と、這いずる血路
ズシンッ……。
三十倍重力のクレーターの底。
黒曜石の大地を踏みしめる武神の残滓の足音が、カルムの鼓膜を静かに、しかし絶望的な重みを持って叩いた。
先ほどの浸透勁——相手の表面を傷つけず、内臓と骨格の『理』へ直接破壊のエネルギーを流し込む極限の打撃。
その直撃を胸の中央に受けたカルムの肉体は、文字通り内部から破裂し、原型を留めないほどの致命傷を負っていた。
肺は破れ、呼吸をするたびに血の泡が口から溢れ出す。肋骨は内側に折れ曲がり、心臓の拍動すらも弱々しく、不規則なリズムへと変わっている。
「……ガハッ……! ゲボッ……ッ……」
カルムは、自分の血の海に倒れ伏したまま、霞む左目で近づいてくる黒い骸骨の足元を睨みつけた。
(……動け……。動けよ、俺の身体……ッ!)
脳からの命令は、完全に断線した神経によって肉体へと伝わらない。
右腕は炭化し、左腕は骨が砕け、両足の筋肉は完全に千切れている。
先ほどまで彼を支えていた『我流・神殺しの概念炎』も、内臓を破壊されたショックで霧散し、今はチロチロと消えかけの火種が残るのみであった。
武神の残滓が、カルムの頭部を見下ろし、ゆっくりとその黒曜石の足を振り上げた。
次の一撃。
三十倍重力の質量と、古代の闘鬼の完璧な武の理が乗った【踏みつけ】。
それがカルムの頭蓋骨に直撃すれば、今度こそ彼の命は一瞬にして物理的に消滅する。
(……ここで……終わりかよ……。……俺は……アルの背中を護る火になるって……誓ったのに……)
カルムの視界が、ゆっくりと暗転していく。
恐怖はない。ただ、己の不甲斐なさに対する途方もない悔しさが、血の涙となって左目からこぼれ落ちた。
振り上げられた武神の足が、無慈悲にカルムの頭部へ向かって落下してくる。
その瞬間。
『――――カルム殿。君が己の炎を極限まで鍛え直すために、孤独な修羅の道を選んだように……私もまた、己の魂を鋳直し、真の盾を手に入れた』
脳裏に、かつて共に背中を預け合った気高き騎士、エレナ・ルミナスの声が響いた。
あの忘却の深淵で、彼女もまた己の弱さを噛み締め、不滅の盾として生まれ変わるために過酷な試練へ向かったのだ。
『……君が戻るまでの間……いや、君が戻ってきてからも。……アル殿の背中は、このエレナ・ルミナスが絶対に誰にも触れさせん』
(……エレナ……。……お前は……アルを護ってくれてるんだな……)
ドクンッ!!
カルムの停止しかけた心臓が、最後の生命力を振り絞るように、激しく脈打った。
(……だったら……俺がこんな所でくたばってたら……あいつの隣に立つ資格がねぇだろうがッ!!)
カルムは、動かないはずの肉体に、自らの【残りの寿命すべて】を燃やし尽くすつもりで、魂の熱を叩き込んだ。
ズガァァァァァァァァンッ!!!!
武神の残滓の踏みつけが、黒曜石の地面を粉砕する。
三十倍重力の岩盤が深々と陥没し、クレーターの底に新たなクレーターが穿たれる。
だが、そこにカルムの頭部はなかった。
「……ハァ……ッ……ハァ……ッ……。……当たらなきゃ……どうってことねぇんだよ……」
カルムは、踏み潰される直前。
両手両足の筋肉ではなく、自らの【首の筋肉】と【背筋】だけを使い、尺取り虫のように地面を滑ることで、間一髪、頭部を横へとずらして致命傷を回避していたのだ。
二、 闘鬼の無慈悲と、砕かれる希望
「……シッ……!」
武神の残滓の眼窩で、青白い霊火が微かに揺らいだ。
完全に破壊したはずの肉体が、まだ己の意志で動き、死を回避したことへの僅かな驚愕。
だが、その驚愕は一瞬で殺意へと変換される。
武神は、踏み抜いた右足を軸にし、そのまま流れるような動作で、左の蹴りをカルムの脇腹へ向けて放った。
速い。
回避など不可能な、三十倍重力を切り裂く閃光の蹴り。
(……来るッ!)
カルムは、地面に這いつくばったまま、残された魂の熱を、自らの【左腕】——先ほど大重甲蜘蛛に砕かれ、骨がむき出しになっていた、使い物にならないはずの左腕へと極限まで圧縮して送り込んだ。
「オラァァァァァッ!!」
カルムは、折れ曲がった左腕を、まるでただの丸太を振り回すかのように強引に振り上げ、武神の蹴りの軌道へと叩きつけたのだ。
ガキィィィィィィィィィンッ!!!!
「ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
左腕の骨が、さらに細かく粉砕される凄惨な音が響く。
だが、カルムは自らの左腕を『犠牲の盾』として使うことで、脇腹への直撃を防ぎ、衝撃を分散させることに成功した。
「……ハァ……ハァ……ッ。……腕の一本や二本……くれてやるよ……ッ」
カルムは、完全に使い物にならなくなった左腕をだらりとさせながら、血の海から身体を半ば起こした。
その顔には、狂気的な笑みが張り付いている。
(……見えたぜ。……こいつの攻撃には、無駄がねぇ。……だからこそ……)
カルムの解体眼が、限界を超えた集中力の中で、武神の動きの『絶対の法則』を読み取り始めていた。
武神の攻撃は、常に最短距離、最高効率で放たれる。
隙間がないため、包丁を差し込むことはできない。
ならば。
相手が『最高効率の攻撃』を放つ、その【予備動作】そのものを、自らの肉体を犠牲にして『誘発』し、そこから生じる極小の硬直を狙うしかない。
「……来いよ、バケモノ。……俺の肉が、そんなに美味そうに見えるか?」
カルムは、自らの血だらけの首筋を、わざと武神の残滓に向けて晒した。
完璧な急所。
武の極致にある者なら、迷わずそこを穿つだろう。
スッ……。
武神の残滓が、カルムの狙い通り、漆黒の右の手甲を槍のように構え、カルムの喉元へ向けて無慈悲な貫手を放った。
(今だッ!!)
カルムは、貫手が喉を貫く直前。
首を横に逸らすのではなく、自ら【首を前へと突き出し】、武神の手甲を自らの『右肩の炭化した肉』に強引に突き刺させたのだ!
ズブシャァァァァァァンッ!!!!
「がはぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
武神の手甲が、カルムの右肩を深々と貫く。
激痛が脳を焼くが、カルムの狙いは成功した。
相手の腕が自分の肉に食い込んだことで、ほんの一瞬、武神の動きが【固定】されたのだ。
「……捕まえたぜ……。……お前の『理』ごと……焼き尽くしてやる……ッ!」
カルムの全身から、これまでで最大出力の【真紅の概念炎】が爆発的に噴き上がり、自らの肉に食い込んでいる武神の右腕を、炎の触手となって幾重にも拘束した。
三、 炎の反撃と、絶望の浸透
ゴォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
真紅の業火が、武神の右腕を包み込む。
カルムの命を削って生み出される概念の炎。それは、武神の黒曜石の骨格と原初マナの結合を、内側から激しく焼き切ろうと凄まじい熱波を放った。
「……シィィィィィィッ……!!」
武神の残滓が、初めて苦痛のような低い摩擦音を立てた。
右腕の関節部分から、青白い原初マナの蒸気が激しく噴き出し、骨格の結合がミシミシと悲鳴を上げる。
(……いける……ッ! このまま、こいつの右腕を解体して……ッ!)
カルムは、己の全存在を炎に注ぎ込み、さらに圧縮を強めた。
勝てるかもしれない。この一撃で、相手の四肢のバランスを崩せれば。
だが、武神の残滓は、古代の闘鬼の名の通り、底知れぬ武の深淵を持っていた。
ドォォォォォンッ!!
突然、武神の拘束されていない【左手】が、カルムの頭部を鷲掴みにしたのだ。
「……なっ!?」
武神の残滓は、自らの右腕が焼かれていることなど意に介さず、左手でカルムの顔面を掴んだまま、彼を三十倍重力の空間へと軽々と持ち上げた。
「……ガ……ッ……ァ……!」
カルムの足が地から離れる。
頭蓋骨が、武神の圧倒的な握力によってギリギリと音を立てて軋む。
そして。
「……シッ……!」
武神の残滓は、カルムの頭部を掴んだまま、自身の【右膝】を、カルムの無防備な腹部へ向かって、恐ろしいほどの速度で突き上げた。
ドゴォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
「あ……がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
それは、先ほどの浸透勁とは違う。
純粋な、極限の物理破壊。
武神の膝蹴りが、カルムの腹部を完全に粉砕し、背骨を断ち割り、内臓をドロドロの肉塊へと変えた。
真紅の概念炎が、瞬時に霧散する。
カルムの意識が、完全にブラックアウトした。
四、 ただの肉塊と、終わらぬ蹂躙
ズサァァァァンッ……!
武神の残滓が手を離し、カルムの身体は、ゴミくずのように黒曜石の地面へと投げ出された。
ピクリとも動かない。
右腕は炭化し、左腕は砕け、腹部は完全に陥没している。
全身の骨格は原型を留めず、流れ出る血の量も、もはや致命傷の限界を遥かに超えていた。
「……シィィ……」
武神の残滓が、自らの右腕に僅かに残った火傷の跡を一瞥し、そして完全に沈黙したカルムの肉体へと向き直った。
古代の闘鬼の理は、「敵が完全に機能停止するまで破壊する」こと。
まだ、カルムの心臓は、かろうじて、本当にごく僅かに、かすかな鼓動を残していた。
武神は、ゆっくりと歩み寄り、再びその右の拳を、カルムの心臓の位置へ向けて振り上げた。
次の一撃で、本当にすべてが終わる。
カルムの意識の暗闇の中で、走馬灯すらも流れなかった。
ただ、果てしなく広がる、静かで冷たい絶望の海。
(……俺は……負けたんだな……)
力でも、技でも、すべてにおいて相手が上だった。
己の命を燃やした炎すらも、結局は相手の無慈悲な拳の前に、あっけなく打ち砕かれた。
これが、神の理不尽と戦うということの現実。
(……アル……。……俺の火は……ここまでみたいだ……)
意識の最後の欠片が、ゆっくりと消え去ろうとしていた。
五、 折れた左腕と、最後の残火
だが。
武神の拳が、カルムの心臓へ向けて振り下ろされた、その瞬間。
バキィィィィィィィィンッ!!!!
「…………え?」
カルムの消えかけた意識が、一瞬だけ現実に引き戻された。
自分の心臓は、まだ動いている。
そして、目の前には、信じられない光景が広がっていた。
武神の残滓の、必殺の正拳突き。
それを、カルム自身の【完全に砕け散ったはずの左腕】が、まるで別の生き物のように、自らの意志で跳ね上がり、武神の拳を受け止めていたのだ!
「……な……に……?」
カルム自身が、一番驚愕していた。
脳からの命令ではない。神経は完全に切断されている。
左腕の骨は粉々に砕け、筋肉はズタズタに引き裂かれている。
物理的に、その腕が動くはずがないのだ。
だが、その左腕は、確実に武神の拳の軌道をそらし、カルムの心臓への直撃を防いでいた。
そして、その左腕の表面から。
これまでの無秩序な『真紅の炎』とは違う。
極限まで圧縮され、研ぎ澄まされ、そして……どこか『温かさ』を帯びた、【緋色の極光】が、静かに立ち上り始めていた。
(……これは……。……俺の火じゃ……ない……?)
カルムの左目が、驚愕に見開かれる。
この緋色の極光は、カルム自身の命を削る炎ではない。
それは、彼がかつてアルから貰い受け、共に旅をする中で何度も彼を温めてくれた……【相棒の、祈りの温度】だった。
『僕も……強くなる。だから……絶対に生きて帰ってきてねッ!』
アルの言葉が、ただの記憶ではなく、物理的な熱としてカルムの左腕に宿っていたのだ。
「……シッ!?」
武神の残滓が、初めて明らかな『動揺』を見せ、左腕を振り払おうと後方へ跳び退いた。
だが、遅い。
「……へっ……。……そうかよ……」
カルムの口元に、再び、凶暴で、しかしどこか優しさを孕んだ笑みが浮かんだ。
「……俺は……一人で戦ってるわけじゃ……ねぇんだな……」
動かないはずの身体が。
粉々に砕けたはずの骨が。
アルの祈りの熱を宿した左腕に引っ張られるようにして、再び三十倍重力の大地から、ゆっくりと、修羅の亡霊のように立ち上がり始めた。
両腕を失い、内臓を破壊された少年。
だが、彼の中に眠る本当の【極限覚醒(我流の武)】は、この絶対の絶望の中で、相棒の祈りという最後のピースを得て、ついにその真の姿を現そうとしていた。
無慈悲な拳に叩き潰された絶望の底から。
第111話「叩き折られた腕」における、カルムの想像を絶する大逆転の反撃が、いま静かに、しかし圧倒的な熱量を伴って幕を開けようとしていた。




