第108話:武神の残滓
一、 十倍の軛を超えて
武神の孤島。黒曜石の荒野に、生臭い血の匂いと、焼け焦げた甲殻の異臭が漂っていた。
十倍重力という理不尽な環境下で、この生態系の頂点に君臨していたはずの魔物『大重甲蜘蛛』は、両腕を失った一人の少年によって、見事に解体され、ただの無惨な残骸へと変わり果てていた。
「……ハァ……ハァ……ッ……ハァ……ッ」
カルムは、魔物の死骸から立ち上る原初マナの蒸気を背に受けながら、荒い息を吐き出していた。
右腕は炭化して黒焦げの肉塊となり、左腕は複雑骨折を起こして皮膚を破り、白い骨がむき出しになっている。もはや彼に、物を握るための『手』は存在しない。
両足の太ももには魔物の牙に貫かれた大穴が開き、背骨は先ほどの激突で深刻なダメージを負い、体内の臓器は十倍重力によって常に下へと引きずり下ろされるような圧迫感に苛まれている。
(……痛ぇ……。……だが、身体の芯は……信じられねぇくらい軽いぜ……)
カルムは、血に染まった歯を見せて、微かに笑った。
肉体は限界をとっくに超え、崩壊の淵にある。
しかし、彼の精神は、これまでの人生で最も澄み切っていた。
力任せの暴力に依存していた過去の自分を捨て去り、相棒であるアルの『料理(解体)の理』を取り入れたことで、カルムの闘争は新たな次元へと足を踏み入れていた。
相手の『理』を見極め、自身の魂の熱をそこに滑り込ませる。無駄な筋力は使わず、無駄な感情の爆発も抑え、ただ一点の急所に向かって、極限まで圧縮した『概念の炎』を刃として突き立てる。
それは、マナという外部システムに頼らない、純度一〇〇パーセントの【魂の武術】であった。
「……行くか。……アルが待ってんだ。……こんな入り口で、立ち止まってる暇はねぇ……」
カルムは、両腕をだらりと垂らしたまま、再び黒曜石の大地を踏みしめた。
十倍の重力は相変わらず彼を押し潰そうとするが、カルムはもはやその重圧に抗おうとはしなかった。
アルが硬い肉を切る時、無理に力を込めるのではなく、包丁の重みと食材の繊維を利用して自然に刃を落としたように。
カルムは、自らにかかる十倍の重力すらも『身体を運ぶための重心移動の力』として受け入れ、同化し、利用することで、無駄な体力を消費することなく前へと進み始めたのだ。
ズルッ……、ズンッ……。
血の足跡を残しながら、カルムは孤島のさらなる奥深く——異常重力の中心地へと向かって歩みを進めた。
視界の先には、マグマの赤い光と原初マナの青白い蒸気が入り混じる、狂気に満ちた極彩色の空が広がっている。
ここは、神が世界を管理する以前の、剥き出しの力と命がぶつかり合った【星の闘技場】。
その静寂の中に、これからカルムが立ち向かわねばならない、途方もない絶望が息を潜めていることを、彼の研ぎ澄まされた左目は確実に捉え始めていた。
二、 闘争の墓標と剣の丘
数時間の歩行の末、カルムの前に広がったのは、異様という言葉すら生ぬるい、狂気的な光景であった。
「……なんだ……ここは……」
カルムは足を止め、かすむ視界を必死に凝らした。
十倍重力の荒野を抜けた先に現れたのは、巨大な【剣の墓標】とでも呼ぶべき丘だった。
黒曜石の岩山を削って作られた巨大なクレーター。その直径は数キロメートルにも及び、クレーターの中心に向かってすり鉢状に沈み込んでいる。
そして、そのすり鉢の斜面には、何万、何十万という数の【錆びた武器】が、無数に突き刺さっていたのだ。
巨大な大剣、刃のこぼれた戦斧、折れ曲がった長槍、形を失った鉄塊。
それらは、教国の聖騎士が使うような洗練された武具ではない。血と泥に塗れ、幾度となく敵の肉を断ち、骨を砕き、そして最終的に持ち主と共に朽ち果てていった『闘争の残骸』であった。
武器の材質は様々だ。古代神聖金属、深海の竜の骨、星の核から精製された隕鉄。
だが、そのどれもが、気の遠くなるような時間を経て原初マナに晒され、赤黒い錆に覆われている。
(……この島で……かつて、どれだけの殺し合いがあったってんだ……)
カルムは、突き刺さった巨大な大剣の一振りに目を向けた。
その大剣の刀身には、魔物の爪痕とも、何者かの拳の跡ともつかない、凄まじい破壊の痕跡が残されていた。
持ち主の絶望と執念が、錆びた鉄塊から未だに放たれている。
伝説によれば、この島は『武神の孤島』と呼ばれ、主神アルファが世界を統べる以前の時代……己の肉体と魂のみを武器とし、神とすら対等に渡り合った【古代の闘鬼】たちが修行し、そして命を散らした場所だという。
彼らはマナの魔法に頼らず、純粋な武の極致を求めてこの異常重力の島に集い、互いの命を懸けて闘争を繰り広げた。
その果てに何が残ったのか。
勝者は誰だったのか。
それは歴史の闇に葬られ、教国すらも不可侵のタブーとして封印した。
「……へっ。……趣味の悪いオブジェだな……」
カルムは、血を吐き捨て、その『剣の丘』へと足を踏み入れた。
一歩、クレーターの斜面に足を踏み入れた瞬間。
ズゥゥゥゥゥゥゥゥンッ!!!!
「……がはぁッ!?」
カルムの身体は、見えない巨大な鉄槌で上空から殴りつけられたように、地面へと激しく膝を突いた。
(……なんだ……この重圧は……!?)
カルムは、折れた腕を庇いながら、歯を食いしばって顔を上げた。
十倍重力ではない。
先ほどまで彼が必死に順応した十倍の軛など、児戯に等しいと思えるほどの、絶対的で暴力的な圧殺の領域。
三十倍。いや、あるいはそれ以上。
カルムの体感重量は、ついに一トンを優に超え、二トンに迫ろうとしていた。
ただ呼吸をするだけで、肋骨が内側にへし折れ、肺が破裂しそうになる。眼球が重力に引かれて眼窩からこぼれ落ちそうになり、血流は完全に足元へと滞留して、脳が急激な酸欠で悲鳴を上げる。
「……ハァ……ッ……ハァ……ッ……。……いきなり……ハードルを上げやがる……」
カルムは、地面に顎を押し付けられながらも、決して目を閉じなかった。
このクレーターの中心部。
そこが、この島の最も強力な重力源であり、闘争の記憶が最も色濃く残る【武神の玉座】なのだ。
(アル……。お前が待ってんだ。……こんな重力ごときで、俺が潰されるわけにはいかねぇんだよッ!)
カルムは、自らの血と魂を燃やし、その熱を全身の血管と骨格に巡らせた。
筋肉の力で立ち上がるのではない。己の『命の燃焼』によって生み出される内圧を極限まで高め、外から押し潰そうとする異常重力と拮抗させるのだ。
バキバキバキッ……!
骨がミシミシと鳴り、全身の毛穴から血が噴き出す。
カルムは、血ダルマになりながらも、三十倍重力のクレーターの斜面を、まるで地獄の階段を登る亡者のように、一歩、また一歩と下り始めた。
三、 異常重力の深淵、三十倍の世界
ズンッ……! ズンッ……!
カルムの足音が、無数の錆びた武器が突き刺さるクレーターの中に響き渡る。
空間そのものが重力によって歪み、光の屈折率がおかしくなっているため、視界は蜃気楼のように揺らめいていた。
(……スジだ……。重力の流れにも、必ず『理』があるはずだ……)
カルムは、十倍重力で開眼した『解体の理』を、敵の肉体だけでなく、この【空間の重力場】そのものに応用しようと試みていた。
重力は、均等に上から下へと降り注いでいるわけではない。
岩の形状、地下のマグマの脈動、原初マナの気流。それらが複雑に絡み合い、重力の強い場所と弱い場所、流れの速い場所と遅い場所を生み出している。
カルムの左目は、その目に見えない『重力の因果の糸』を、極限の集中力で視覚化しようとしていた。
(……右前方、三メートル。あそこは重力の圧が少し乱れてる。……その隙間を縫うように、重心を左にずらしながら……足を踏み出す……ッ!)
ズルッ……!
カルムは、三十倍の重圧を真正面から受け止めるのではなく、波乗りのように重力の流れを読み、その隙間に自らの身体を滑り込ませることで、歩みを進めていった。
それは、傍から見れば、血まみれの両腕のない少年が、奇妙な舞を踊っているように見えたかもしれない。
だが、その一歩一歩には、無駄な力みが一切なく、極限まで研ぎ澄まされた武術の『歩法』の神髄が隠されていた。
クレーターの底が近づいてくる。
無数の武器の残骸は、奥へ進むほどにより古く、より巨大で、そして凄惨な破壊の痕跡を残すものへと変わっていく。
かつてここで戦った者たちは、どれほど強大な力を持っていたのか。
そして、その強者たちを打ち倒し、この島の頂点に立った存在とは、一体何者だったのか。
(……どんなバケモノがいようと、関係ねぇ。……俺の炎で、全部解体してやる……)
カルムの左目に、真紅の概念炎がチロチロと漏れ出す。
魂の熱は、極限の重圧によってさらに圧縮され、より鋭く、より強力な『見えない刃』へと鍛え上げられていた。
そして。
カルムがついに、すり鉢状のクレーターの最深部——直径百メートルほどの平坦な円形闘技場のような場所へと辿り着いた、その時だった。
「…………っ!?」
カルムの全身の産毛が、音を立てて逆立った。
三十倍重力の重圧とは全く違う。
ただそこに『在る』だけで、カルムの魂の芯を氷のように凍りつかせ、同時に沸騰させるような、圧倒的で、純粋で、底知れぬ【武のプレッシャー】。
殺気ではない。
憎しみも、怒りも、魔物のような捕食の意志もない。
ただ、ひたすらに『強い』。
あらゆる無駄を削ぎ落とし、存在そのものが「相手を打ち倒す」という一点においてのみ完成された、極限の暴力の結晶。
カルムは、両腕を垂らしたまま、そのプレッシャーの発生源へとゆっくりと視線を向けた。
四、 武神の残滓、圧倒の影
円形闘技場の中央。
赤黒い原初マナの蒸気が晴れたそこに、一つの【影】が佇んでいた。
それは、生きた人間ではなかった。
魔物でもなく、使徒のような神聖な存在でもない。
身の丈は二メートルほど。人間の男性のような骨格を持っているが、肉体はすでに朽ち果てており、黒曜石のように黒く硬質化した【骨格】と、そこに絡みつく【原初マナの高密度結晶】によって構成されていた。
頭部には二本の折れた角が生え、両手には、己の血肉が変質したと思われる、黒く禍々しい【巨大な手甲】が融合している。
目も、口も、表情もない。
ただ、その黒い骸骨のような姿から放たれる気迫は、三使徒の放っていた神威すらも凌駕するほどの、絶対的な「重み」を持っていた。
(……こいつが……この島で戦い抜いた、古代の闘鬼……。……【武神】の成れの果てか……!)
カルムの左目が、驚愕に見開かれた。
目の前にいるのは、かつての武神の本体ではない。
数万年前に肉体を滅ぼした武神の『絶対に戦いをやめない』という凄まじい魂の残留思念が、この島の高濃度の原初マナを寄り代にして、亡霊のように形を成した存在——【武神の残滓】であった。
自我はない。言葉を交わすこともない。
ただ、このクレーターの底に足を踏み入れた者を、己の武を証明するための『敵』として認識し、自動的に排除するだけの、完全なる戦闘機械(修羅)。
スゥ……ッ。
武神の残滓が、ゆっくりとカルムの方へ振り向いた。
眼窩の奥で、青白い霊火がチロリと灯る。
その瞬間。
カルムの視界が、完全にブレた。
(……なっ!?)
音がない。風の揺らぎもない。
三十倍重力という、一歩動くことすら絶望的な空間において。
武神の残滓は、文字通り【空間を跳躍したかのように】、カルムの眼前わずか数センチの距離にまで一瞬にして距離を詰めていたのだ。
「……シッ……!」
武神の残滓の右の手甲が、カルムの腹部に向かって、何の溜めも、予備動作もなく、無造作に突き出される。
速い。
いや、速いという表現すら適切ではない。
それは、筋肉の収縮や重心の移動といった「過程」を完全に省略し、ただ「当てる」という結果だけを空間に叩き込むような、理不尽極まりない【極地の正拳突き】であった。
(……見え……ねぇ……ッ!!)
カルムは、解体眼を極限まで見開いていたにも関わらず、相手の『理』を全く読み取ることができなかった。
無駄がないのだ。
力の通り道が、あまりにも完璧に一本の線に収束しすぎていて、包丁を差し込む隙間がミクロン単位で存在しない。
ドガァァァァァァァァァンッ!!!!
「がはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
カルムの身体は、武神の残滓の正拳突きを腹部にまともに受け、三十倍重力の空間を、まるで大砲の弾のように吹き飛ばされた。
空中で鮮血を撒き散らし、円形闘技場の端に突き刺さっていた巨大な大剣の刀身に背中から激突し、その鋼の刃をへし折りながら地面に叩き落とされる。
「……ガッ……ァ……! ゲボォォォォッ……!」
カルムは、白目を剥き、口から臓器の破片が混じった大量の血を吐き出した。
痛い、という感覚すら超越していた。
腹部の骨は完全に粉砕され、内臓はドロドロにすり潰されている。
もし彼が先ほど『魂の熱』を体内に巡らせていなければ、この一撃で肉体は文字通り上半身と下半身に真っ二つに引きちぎられていたはずだ。
(……なんだ……今の一撃は……)
カルムは、霞む意識の中で、戦慄に打ち震えた。
大重甲蜘蛛の突進とは、次元が違う。
力任せの暴力ではない。
あれは、武術というものを極限まで研ぎ澄まし、神の法則すらも拳一つで打ち砕くために鍛え上げられた、純粋で完璧な【技術の結晶】だ。
「……ハァ……ッ……ハァ……ッ……」
カルムは、大剣の残骸に寄りかかりながら、必死に顔を上げた。
視線の先。
武神の残滓は、正拳突きを放った姿勢のまま、ピタリと静止していた。
追撃してこない。
それは情けではない。「今の一撃で獲物は完全に破壊された」と、その武の理が判定を下したからこその、残心(静止)であった。
「……ナメ……んじゃ……ねぇぞ……」
カルムの歪んだ唇から、血の泡と共に、呪詛のような言葉が漏れた。
五、 激突する理と理
「オオオオオオオオオオオオオオッ!!!!」
カルムは、折れた大剣の残骸を背中で擦りながら、三十倍重力の泥土の中から、再び立ち上がった。
両腕は完全に垂れ下がったままだ。しかし、彼の左目に宿る真紅の修羅の光は、先ほどの一撃を受けてなお、全く衰えることなく、むしろさらに狂暴に燃え上がっていた。
「……へっ。……いい拳じゃねぇか……。……だが、俺はまだ死んでねぇぞ……ッ!」
カルムの全身から、先ほど魔物を焼き尽くした【真紅の概念炎】が、チリチリと音を立てて噴き出し始めた。
マナ回路のない彼が、己の命の残量を直接燃やして生み出す、我流の魂の火。
武神の残滓が、再び青白い眼窩をカルムに向けた。
その首が、かすかに傾ぐ。
完全に破壊したはずの肉体が立ち上がり、未知の熱を放っていることに対する、戦闘機械としての純粋な疑問の動作。
スゥ……ッ。
武神の残滓が、再び『無の歩法』で空間を滑るように距離を詰めてくる。
(……来る……! 読め……! アルが教えてくれた『理』を……どんな完璧な攻撃にも、必ず隙間はあるはずだッ!)
カルムは、極限まで圧縮した真紅の概念炎を、自身の【左足の爪先】と【右足の踵】に集中させた。
相手は拳。こちらは足のみ。
リーチも、威力も、速度も、すべてにおいて相手が圧倒的に上回っている。
だが、カルムは退かない。
「シッ!」
武神の残滓の、漆黒の手甲による回し蹴りがカルムの側頭部へ向けて放たれた。
三十倍重力を切り裂く真空刃が発生し、軌道上の空気が赤熱する。
カルムは、その回し蹴りの軌道に対して、正面から迎撃するのではなく。
十倍重力で編み出した『沈み込み』の動作をさらに洗練させ、三十倍の重圧に身を任せて、コマのように身体を低く捻って回避した。
シュゴォォォォンッ!!
頭上を、武神の蹴りが通過する。
完全な回避。カルムの『解体眼』が、辛うじて相手の攻撃の軌道を読み切ったのだ。
(今だッ!!)
カルムは、沈み込んだ体勢から、右足の踵に圧縮した真紅の概念炎を纏わせ、武神の残滓の軸足(左膝)の関節の隙間へ向かって、下から鋭く蹴り上げた!
「俺の火で……解体いてやるよッ!」
ガキィィィィィィィィィンッ!!!!
カルムの踵と、武神の残滓の黒曜石の骨格が激突する。
真紅の概念炎が、相手の関節の『理』に滑り込み、その完璧な結合を内側から焼き切る——はずだった。
「…………なっ!?」
カルムの左目が、驚愕に見開かれた。
彼の放った真紅の概念刃は、武神の残滓の関節に確かに突き刺さった。
しかし、切断できなかった。
刃が、甲殻の表面からわずか数ミリ入り込んだところで、見えない【鉄壁の概念】によって完全に弾き返されたのだ。
ズバァァァァァァンッ!!!!
「がはぁッ!?」
弾き返されたのは、カルムの右足の方だった。
概念炎が相殺され、純粋な物理的衝撃がカルムの右足に跳ね返る。
右足の骨がピキィッと悲鳴を上げ、カルムの身体は回転のバランスを崩して地面に倒れ込んだ。
(……馬鹿な……! 俺の火が……弾かれた……!?)
魔物の鋼鉄の甲殻すらも紙のように切り裂いた、我流の概念炎。
それが、なぜ通用しないのか。
理由は、すぐにカルムの解体眼を通して理解させられた。
(……スジが……ねぇ……ッ!?)
アルの包丁の理。それは、相手の肉と骨、力と力の繋ぎ目である『隙間』に刃を入れる技術だ。
だが、目の前の武神の残滓には、その【隙間】が存在しなかったのだ。
黒曜石の骨格と原初マナの結合は、ミクロン単位の狂いもなく完全に一体化しており、筋肉の収縮による力のブレや、重心移動によるエネルギーの分散が一切発生していない。
全身が、完全無欠の『一つの塊』として連動している。
隙間がない。理がない。
これでは、包丁を入れる場所そのものが存在しない。アルの解体技術すらも通じない、純度一〇〇パーセントの【武の完成形】。
「……シッ……!」
倒れ込んだカルムの無防備な背中へ向けて、武神の残滓が無慈悲な踵落としを振り下ろしてきた。
(……避けられねぇ……ッ!)
六、 届かぬ修羅、果てなき闘神の壁
ドガァァァァァァァァァンッ!!!!
「あ……がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
三十倍重力の質量に、武神の完璧な武術の威力が乗った踵落とし。
それが、カルムの背中を完全に捉え、彼を黒曜石の地面のさらに数メートル下まで叩き埋めた。
岩盤がクレーター状に吹き飛び、土煙と血煙が舞い上がる。
「……ゲッ……ボハァッ……!」
カルムの意識が、ついに完全に千切れかけた。
全身の骨という骨が粉々に砕け、内臓は原型を留めないほどに破壊された。
口からは血が噴水のように溢れ出し、眼球は焦点すら結べない。
絶対的な敗北。
三使徒との戦いとは違う。あいつらは、神の与えた「法則」というチートを使ってカルムを圧倒した。
だが、この武神の残滓は違う。
魔法も、神の力も使っていない。ただ純粋に、武術という技術と、肉体という器の使い方が、カルムとは次元が違うのだ。
「極め抜かれた武」という、言い訳の仕様がない完全なる実力差。
(……強ぇ……。……なんだよ、このバケモノは……)
カルムは、クレーターの底で、自分の血の海に沈みながら、微かに笑った。
(……俺の炎も……アルの解体の理も……全く通じねぇ。……これじゃあ……神様どころか……この島から生きて帰ることすら……)
視界が真っ暗に染まっていく。
生命の炎が、完全に燃え尽きようとしている。
右腕を失い、左腕も砕かれ、ついに全身を粉砕された。
マナを失った生身の少年の足掻きは、ここでついに限界を迎えたのだ。
武神の残滓が、クレーターの底に沈むカルムを見下ろし、ゆっくりと右の手甲を振り上げた。
次の一撃で、カルムの頭部を完全に粉砕し、この闘争を終わらせるために。
(……アル……。……ごめんな……。俺……最高の火力には……なれそうにねぇわ……)
カルムの心臓の鼓動が、ゆっくりと停止に向かっていく。
死の静寂が、彼の魂を優しく包み込もうとした。
その、瞬間だった。
七、 次なる扉の予感
『――――力任せじゃダメだよ、カルム。どんなに硬い食材でも、ちゃんとスジを見つけてあげれば……』
脳裏で、再びアルの声が響いた。
(……うるせぇよ、シェフ。……こいつには、そのスジがねぇんだよ……。隙間がねぇんだ。お前の包丁でも、こいつは捌けねぇよ……)
カルムは、心の中でアルに反論した。
だが、アルの笑顔は、カルムの意識の奥底で、困ったように首を振っていた。
『隙間がないなら、作ればいいじゃない』
(……は……?)
『どんなに硬い岩塩でも、叩いてヒビを入れれば、そこからスジができるでしょ?……包丁を入れる場所がないなら、カルムの『火』で炙って、相手の身体に無理やり隙間を作ってあげればいいんだよ』
アルのその無邪気な言葉が、カルムの停止しかけた心臓に、強烈な電気ショックを与えた。
ドクンッ!!!!
(……隙間がねぇなら……作ればいい……?)
カルムの意識が、泥の底から急激に浮上する。
そうだ。
相手が完全無欠の『一つの塊』で、力の隙間が存在しないというのなら。
俺の攻撃で、相手の姿勢を崩し、筋肉の連動を狂わせ、強引に【力の空白】をこじ開けてやればいい。
(……でも、俺の攻撃は弾かれた。どうやって……)
カルムは、相手の理を崩すための手段を思考した。
腕は使えない。足の打撃は弾かれる。
打撃(点)の力では、相手の完璧な防御は崩せない。
ならば。
点ではなく、線で。
いや、相手の力そのものに「絡みつく」ようにして。
カルムの脳裏に、ある【一つの動き】が閃いた。
それは、彼がスラムの喧嘩の中で無意識に使っていた、相手の腕を絡め取り、関節を極める泥臭い『寝技』や『組み技』の記憶。
だが、今のカルムには腕がない。
ならば、どうやって組む?
(……決まってんだろ……! この『血塗れの炎』があるじゃねぇかッ!!)
カルムの左目が、暗闇の底でカッと見開かれた。
武神の残滓の右拳が、カルムの頭部へ向けて無慈悲に振り下ろされる。
死の拳。
カルムは、動かない身体のまま、自らの全身から溢れ出している【血の海】に、残された魂の熱のすべてを叩き込んだ。
「……オラァァァァァァァァァァァァッ!!!!」
ズバァァァァァァァァァァンッ!!!!
カルムの頭部が砕かれる直前。
彼の周囲の地面に広がっていた血の海が、突如として真紅の炎となって爆発的に噴き上がり、まるで【何本もの巨大な赤い触手(腕)】のように形を変えて、武神の残滓の振り下ろされた右腕と全身へ、蛇のように絡みついたのだ!
「……ッ!?」
武神の残滓の動きが、空中でピタリと停止した。
カルムの放ったのは、打撃としての概念炎ではない。
自らの血を媒体とし、相手の四肢に絡みつき、その力の軌道を強引に捻じ曲げ、姿勢を崩すための【炎の拘束衣】。
相手が完全無欠の塊であるなら、その外側から強引に力を加え、バランスを崩させる。
腕がないなら、己の血と炎で【新しい腕】を創り出せばいい。
「……隙間がねぇなら……俺がこじ開けてやるよッ!」
カルムの身体が、三十倍重力のクレーターの底から、炎の触手に引っ張り上げられるようにして、再びゆらりと立ち上がった。
彼の両肩から、マナではない、純粋な血と魂の熱で構成された【真紅の炎の双腕】が、陽炎のように立ち上っていた。
武神の残滓の完璧な姿勢が、カルムの炎の腕に絡みつかれたことで、ほんの数ミリ、わずかに崩れる。
そこに生じた、ミクロン単位の『力の空白』。
カルムの解体眼は、その一点を絶対に見逃さなかった。
限界を超え、さらにその先の扉をこじ開けた修羅の少年。
彼と古代の闘鬼との、真の意味での『武と理の激突』が、いま、この絶海の孤島の最深部において、最も熱く、最も凄絶な炎を上げて始まろうとしていた。




