第8話 風邪と看病と有給休暇
記憶が途切れた。
プツン、と糸が切れるような音を聞いた気がする。
国境から帰還した後も、私は止まらなかった。
アズライト王国への請求書作成、関係各所への根回し、そして溜まっていた通常業務の処理。
カミル宰相が「休みましょう」と提案してくれたが、私は首を横に振った。
今ここで手を緩めれば、せっかくの外交的勝利が画餅に帰す。
そう判断し、ペンを握り続けた。
そして、執務室の床が急に近づいてきたのを最後に、私の意識は闇に沈んだ。
「……ん。」
重い瞼を開ける。
見慣れない天井……ではない。
ここは城内で私に貸与されている私室だ。
簡素だが清潔な天蓋付きベッド。
私はその中に埋もれていた。
体が鉛のように重い。
喉が焼けるように渇いている。
思考がまとまらない。
熱があるのだろう。
視界がぼやけて、焦点が定まらない。
「起きたか。」
低い声がした。
ベッドの脇、椅子に座る影がある。
銀色の髪。
不機嫌そうな顔。
ジークフリートだ。
「……へ、いか?」
「喋るな。声が酷い。」
彼は眉を寄せ、私の額に乗っていた何かを取り替えた。
冷たいタオルだ。
氷水で絞ったのだろうか、熱を持った肌に心地よい刺激が走る。
その手つきは驚くほど慎重で、まるで壊れ物を扱うようだった。
「……何時、ですか。」
「三日寝ていた。」
「みっ……!?」
飛び起きようとして、すぐにベッドに沈んだ。
体に力が入らない。
三日。
丸三日も業務に穴を空けたのか。
スケジュールの遅延、契約不履行、機会損失。
脳内で損害額の計算が始まりかけ、強制終了する。
「動くなと言っている。カミルには伝えてある。『筆頭秘書官は有給休暇を取得中。緊急案件以外は持ち込むな』とな。」
「……有給、ですか。」
「ああ。契約書第三条にあっただろう。『十分な休息時間の保証』。今がそれだ。」
ジークフリートは手元の本に視線を落とした。
私が作った業務引継書……ではない。
あれは、以前私が「もしもの時」のために作成し、書棚の隅に置いておいた冊子だ。
『緊急時対応マニュアル(対人トラブル・体調不良編)』
表紙に私の字でそう書かれている。
まさか、それが読まれる日が来るとは。
しかも、よりにもよって竜王本人に。
「……その本、役に立ちますか。」
「まあまあだ。字が細かくて読みにくいがな。」
彼はページをめくった。
付箋が貼られている。
『発熱時の対応:水分補給と消化の良い食事』のページだろうか。
「水だ。飲めるか?」
彼はサイドテーブルからグラスを取り出した。
中には常温の水が入っている。
ストローが挿してあった。
備品庫にあった来客用のものだ。
芸が細かい。
いや、マニュアルに『寝たまま飲めるよう配慮すること』と書いた記憶がある。
私は小さく頷き、ストローを口に含んだ。
水が喉を通り抜ける。
干からびた砂漠に雨が降るようだ。
生き返る心地がした。
「……ありがとうございます。」
「礼には及ばん。俺の資産管理の一環だ。」
彼はぶっきらぼうに言い、空になったグラスを置いた。
そして、どこか落ち着かない様子で立ち上がる。
「飯の時間だ。待ってろ。」
彼は部屋を出て行った。
扉が閉まる音。
静寂が戻る。
私は天井を見上げた。
熱のせいか、涙腺が緩んでいる気がする。
あの竜王が、私の看病をしている。
ゴミの中で寝ていた男が。
自分の食事すらカミル任せだった彼が。
しばらくして、扉が開いた。
トレイを手にしたジークフリートが入ってくる。
部屋の中に、ふわりと出汁の香りが漂った。
「……どうぞ。」
彼が差し出したのは、深めのボウルに入ったお粥だった。
見た目は……正直、美しいとは言えない。
米の粒は不揃いで、一部は溶けすぎ、一部は形が残りすぎている。
具材の卵は固まりすぎてスクランブルエッグ状になり、ネギは太さがバラバラだ。
けれど、湯気は温かく、優しい匂いがした。
「カミルに作らせようとしたが、あいつは泣いてばかりで役に立たん。だから俺が作った。」
「……陛下が?」
「マニュアル通りにやっただけだ。『米と水を一対五で煮る』『塩少々』。……『少々』というのは非論理的な単位だがな。」
彼はブツブツと文句を言いながら、スプーンを私に持たせようとした。
だが、私の手は震えて力が入らない。
スプーンがカチャリと音を立てて落ちそうになる。
「……チッ。貸せ。」
彼はスプーンを奪い取った。
そして、粥をひと匙すくい、フーフーと息を吹きかける。
その仕草が、あまりにも似合わなくて、おかしくて、胸が詰まった。
「口を開けろ。」
「……はい。」
素直に従う。
口の中に、温かい粥が運ばれた。
味は薄い。
塩加減が慎重すぎたのだろう。
お米の芯が少し残っている。
でも、今まで食べたどの料理よりも、美味しく感じた。
「……どうだ。」
「……美味しいです。」
「嘘をつけ。少し焦げたぞ。」
「本当です。……五つ星の味です。」
私が微笑むと、彼はバツが悪そうに顔を背けた。
耳が赤い。
竜王の威厳など欠片もない。
ただの、心配性の不器用な青年だ。
粥を半分ほど食べたところで、満腹感が訪れた。
胃が受け付けない。
これ以上は無理だ。
「もういいのか?」
「はい。十分いただきました。」
「なら、次はこれだ。」
彼が取り出したのは、小さな薬瓶と、一枚の紙切れだった。
紙切れに見覚えがある。
城下にある薬屋の領収書だ。
宛名は『上様』ではなく、彼の筆跡で『ジークフリート』と書かれている。
但し書きは『滋養強壮薬、最高級品』。
「……これ、高かったのでは?」
「金貨二枚だ。」
「二枚!? 詐欺ですよ、それは!」
「知らん。店主に『一番効くやつを出せ』と言ったらこれが出てきた。俺のポケットマネーだ、文句あるか。」
彼はふんぞり返った。
国庫からの支出ではない。
彼の個人資産、それもなけなしの小遣い(私が管理して渡している少額の金)からの出費だ。
おそらく、全財産をはたいたのではないか。
「……無駄遣いは控えてくださいと申し上げたはずです。」
「お前が早く治れば無駄ではない。投資だ。」
彼は薬瓶の蓋を開け、スプーンに液体を注いだ。
ドロリとした緑色の液体。
匂いは強烈なハーブ臭だ。
確かに効きそうだが、飲み込むには勇気がいる。
「飲め。一気にな。」
「……はい。」
私は覚悟を決めて飲み込んだ。
苦い。
そして辛い。
喉が焼けるようだ。
だが、胃に落ちた瞬間、カッと体が熱くなり、指先に血が巡る感覚があった。
さすがは金貨二枚。
プラシーボ効果以上の薬効があるらしい。
「うっ……。」
「水だ。」
すかさず差し出された水を飲む。
口の中の苦味が和らぐ。
ジークフリートは空になった薬瓶を満足げに眺め、サイドテーブルに置いた。
そして、椅子に座り直す。
帰ろうとはしない。
彼はそこにいることが当然のように、腕を組んで私を見守っていた。
沈黙が降りる。
以前なら、沈黙は業務の停滞を意味し、焦りを生んだ。
だが今は、この静けさが心地よい。
時計の針の音だけが響く。
「……怖かったか。」
唐突に、彼が言った。
視線は私ではなく、窓の外に向けられている。
「……何がでしょうか。」
「あの時。国境で、魔法を向けられた時だ。」
国境での出来事。
レイモンドの殺意。
死の予感。
思い出すだけで、指先が冷たくなる。
「……はい。怖かったです。」
正直に答えた。
強がる必要はないと思った。
この人の前では、完璧な秘書でなくてもいい。
そんな気がした。
「計算外でした。元婚約者とはいえ、一国の王太子が外交交渉の場で攻撃魔法を放つなど……私のリスク管理が甘かったのです。」
「お前のせいじゃない。あいつが愚かなだけだ。」
ジークフリートは吐き捨てるように言った。
そして、視線を私に戻す。
金の瞳が、真剣な光を帯びていた。
「俺がもっと早く出ていれば、お前に怖い思いをさせずに済んだ。……すまん。」
謝罪。
あの傲慢でズボラな竜王が、私に頭を下げようとしている。
その事実に、私は言葉を失った。
「頭を上げてください、陛下。貴方は私を助けてくれました。最高のタイミングで。」
「遅い。……俺は、お前が倒れるまで気づかなかった。お前が無理をして、平気な顔で、限界まで働いていたことに。」
彼の手が伸びてきた。
私の頬に触れる。
大きな手。
以前、馬車の中で触れられた時よりも、さらに優しく、温かい。
「お前は鉄人じゃない。ただの人間だ。脆くて、すぐに壊れる。」
「……そうですね。私は弱いです。」
「ああ。だから、俺が見ていないといけない。」
彼の指が、私の目尻を拭った。
いつの間にか、涙がこぼれていたらしい。
熱のせいだ。
そう思いたかったけれど、心の奥底から溢れてくる感情には名前があった。
安心感。
そして、依存への許容。
一人で生きていくと決めた。
誰にも頼らず、自分のスキルだけで道を切り開くと誓った。
でも、誰かに「見ていてくれる」と言われることが、こんなにも救いになるとは知らなかった。
「……契約外業務ですよ、看病は。」
「残業代を請求しろ。いくらでも払う。」
「もう払ってもらいました。」
「あ?」
「お粥と、高いお薬と……この安心感で。相殺処理完了です。」
私が濡れた目で笑うと、彼は呆れたように、けれどどこか嬉しそうに口角を上げた。
「安い女だな。」
「優秀な経理担当と言ってください。」
彼は私の頭を撫でた。
子供をあやすような、不器用な手つき。
その重みが、心地よい眠気を誘う。
薬が効いてきたのだろうか。
意識がトロトロと溶けていく。
「寝ろ。目が覚めたら、また何か作ってやる。」
「……リクエストは……卵酒……。」
「わかった。マニュアルに載ってるか?」
「……三十二ページ……。」
私の意識はそこで途切れた。
最後に見たのは、必死にマニュアルのページをめくる竜王の背中だった。
その背中は、どんな城壁よりも頼もしく、私を守ってくれていた。
次に目を覚ましたのは、翌朝だった。
熱は下がっていた。
体のだるさは残っているが、頭はクリアだ。
窓から差し込む朝日が、部屋の中を明るく照らしている。
サイドテーブルには、空になった粥の器と薬瓶。
そして、読み込まれて少しヨレた私のマニュアルが置かれていた。
ジークフリートの姿はない。
「……おはようございます、私。」
声に出してみる。
昨日より声が出る。
生きている。
そして、今日も仕事がある。
私はゆっくりとベッドから降りた。
着替えを済ませ、鏡を見る。
顔色は悪くない。
病み上がりのやつれはあるが、瞳には力が戻っていた。
「よし。」
気合を入れる。
有給休暇は終わりだ。
今日からまた、完璧な秘書官として復帰する。
ただし、これからは少しだけ、あの不器用なボスに甘えてもいいかもしれない。
そんな甘い考えを抱きつつ、私は部屋の扉を開けた。
廊下に出ると、カミル宰相が全速力で走ってくるのが見えた。
血相を変えている。
手には新聞らしき紙束。
「レ、レティーシア嬢! 起きて大丈夫なのですか!?」
「ええ、おかげさまで。何かトラブルですか?」
「トラブルどころではありません! これを見てください!」
彼が突き出したのは、アズライト王国から届いた号外新聞だった。
紙面には、黒く太い見出しが踊っている。
『アズライト王国、経済崩壊の危機! 王太子レイモンド、廃嫡か!?』
私は眼鏡を押し上げた。
予想よりも早い。
そして、規模が大きい。
「……詳細を。」
「はい。国境での敗走後、王太子の求心力が失墜。さらに、これまで貴女が抑えていた行政の不備が一気に噴出し、国内で暴動が発生しているそうです。国王陛下が倒れられたとの情報も……。」
カミル宰相の声が震えている。
一国の崩壊。
それは隣国であるドラゴニア帝国にとっても、対岸の火事ではない。
難民の流入、経済圏の混乱、治安の悪化。
あらゆるリスクが想定される。
「執務室へ行きます。対策会議を。」
「しかし、病み上がりで……!」
「寝ている場合ではありません。これは私の『過去』の清算でもありますから。」
私は歩き出した。
ヒールの音が響く。
そのリズムは、以前よりも強く、確かなものになっていた。
執務室の扉を開ける。
そこには、すでにジークフリートが座っていた。
彼は私を見ると、少し驚き、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「早かったな。寝ていろと言ったのに。」
「有給は消化しました。これより業務に復帰します、ボス。」
私は彼の前の席に座った。
机の上には、同じ新聞が置かれている。
彼もまた、状況を理解しているのだ。
「どうする。見捨てるか?」
彼が試すように聞いてきた。
アズライト王国を見捨てるか。
それは最も簡単な選択肢だ。
だが、それでは終わらない。
真の解決とは、根本を断ち、新たな秩序を作ることだ。
「いいえ。ビジネスチャンスです。」
「……ほう?」
「コンサルティング契約を結びましょう。高額な報酬と引き換えに、国を立て直すノウハウを提供するのです。もちろん、主導権はこちらが握った状態で。」
私はニヤリと笑った。
ジークフリートもまた、獰猛な笑みを返す。
「悪党だな、お前は。」
「優秀な秘書と言ってください。」
私たちの視線が交差する。
言葉はいらない。
最後の戦いが始まる。
それは剣と魔法の戦いではなく、知恵と契約による、国の再生という大事業だ。
風邪の熱は引いたが、胸の奥には別の熱が灯っていた。
さあ、行こう。
私の人生を賭けた、最後の大仕事へ。




