第7話 竜王の恫喝(外交交渉)
ペンを走らせた。
羊皮紙の上を、インクが滑らかに滑っていく。
砦の執務室には、乾いた紙の擦れる音だけが響いていた。
「……以上で、現場報告書の作成を完了します。」
私は最後のピリオドを打ち、ふぅと息を吐いた。
インクが乾くのを待つ間、冷めたお茶を一口含む。
砦の備品である粗末なカップだが、中身は持参した茶葉だ。
香りだけは、いつもの執務室を思い出させる。
「終わったか。」
部屋の隅にあるソファから、不満げな声が飛んできた。
ジークフリートだ。
彼は窮屈そうに足を組み、退屈を全身で表現している。
「はい。これでアズライト王国に対する『遺憾の意』と『損害賠償請求』の原案が固まりました。」
私は書類をまとめた。
数時間前、国境で起きた出来事。
アズライト王国の騎士団が撤退した後、私たちは砦に入り、即座に事後処理を開始していた。
勝利の余韻に浸る暇はない。
相手が逃げ帰った今こそ、外交という名の追撃戦を行う好機だからだ。
「面倒くさいな。もう追い払っただろう。」
「物理的には、ですね。ですが、法的に彼らの非を確定させなければ、後々『竜王が暴力を振るった』と捏造されかねません。」
あの男、レイモンドならやりかねない。
被害者面をして国際社会に訴える姿が目に浮かぶ。
だからこそ、先手を打つ。
複数の目撃証言(警備隊員の署名入り)と、魔法的な記録を添付した抗議文を送付するのだ。
「それに、今回の遠征にかかった費用も請求しなければなりません。私の出張手当、陛下の護衛費用、そして精神的苦痛に対する慰謝料。」
「俺の護衛費は高いぞ。」
「ええ、破格のレートで計上しておきました。国家予算が傾くレベルで。」
私が微笑むと、ジークフリートは鼻を鳴らした。
機嫌は悪くないようだ。
むしろ、先ほどからチラチラとこちらを見ている。
何か言いたげな、あるいは何かを待っているような目だ。
「……なんだ。」
「いえ。何かご用でしょうか、ボス。」
「……別に。」
彼はぷいっと顔を背けた。
わかりやすい。
国境での一件、彼が自ら飛び出して私を守ったことに対して、何かリアクションを求めているのだ。
あの時、砂塵の中で彼が言った「代替不可能な重要資産」という言葉。
あれが単なる資産評価なのか、それとも別の意味を含むのか。
それを問うのは、秘書の業務範囲外だろうか。
コンコン、と扉がノックされた。
警備隊長が入ってくる。
「失礼します。宰相閣下との通信が繋がりました。」
「ありがとうございます。」
私は通信室へと移動した。
ジークフリートも無言でついてくる。
私の背中から離れない、という契約(約束)を守っているらしい。
大型犬がついているようで、頼もしい反面、少し歩きにくい。
通信機の前には、ホログラムのようにカミル宰相の顔が浮かび上がっていた。
以前、ゴミ屋敷で死にかけていた頃とは違い、今の彼は顔色も良く、背景の執務室も整然としている。
『おお、レティーシア嬢! 無事ですか!』
「問題ありません。国境付近の脅威は排除しました。」
『報告は受けております。なんでも、竜王陛下が直々に降臨されたとか……。』
カミル宰相の視線が、私の背後にいるジークフリートに向けられた。
彼は気まずそうに目を逸らす。
『陛下……無断での出撃、本来なら小言の一つも申し上げたいところですが。』
「うるさい。散歩だ。」
『国境までの散歩ですか。まあ、結果としてアズライト軍を無血撤退させたのですから、今回は目を瞑りましょう。』
カミル宰相は苦笑した。
そして、真剣な表情に戻る。
『しかし、これでアズライト王国との関係は決定的になりましたね。』
「ええ。ですが、向こうに正義はありません。こちらには確たる証拠と、そして最強の抑止力があります。」
『抑止力、ですか。』
カミル宰相が意味深にジークフリートを見た。
ジークフリートは腕を組み、不遜な態度で言い放つ。
「カミル、アズライトの使者が来たら伝えておけ。」
『はい、何でしょうか。』
「『俺の昼寝の時間を管理できるのは、この女だけだ。邪魔をするなら国ごと焼く』と。」
部屋の空気が止まった。
通信機の向こうで、カミル宰相が絶句している。
私も眼鏡を落としそうになった。
「へ、陛下?」
「事実だろ。お前がいなくなれば、俺はまたあのゴミの中で寝ることになる。それは困る。」
ジークフリートは平然と言った。
まるで、今日の天気の話でもするかのように。
だが、その言葉の重みは計り知れない。
一国の王が、特定の個人への執着を対外的に宣言する。
それは外交上の恫喝であり、同時に……。
『……承知いたしました。そのままお伝えします。原文のまま、一字一句変えずに。』
カミル宰相の声が、どこか楽しげに弾んでいた。
彼は察したのだろう。
この発言が持つ、政治的意味以上のニュアンスを。
「よろしくお願いします。では、これより帰還します。」
私は慌てて通信を切った。
心臓がうるさい。
顔が熱い。
これは吊り橋効果だ。
先ほど、命の危険を感じた直後だから、脳が錯覚しているだけだ。
そう自分に言い聞かせ、私は深呼吸をした。
「帰るぞ。腹が減った。」
ジークフリートは何食わぬ顔で出口へと向かう。
その背中を見つめながら、私は胸の奥にある動悸を鎮めるのに必死だった。
帰路は馬車だった。
さすがに往路のように、竜の背に乗ってひとっ飛びというわけにはいかない。
隠密行動の必要性がなくなったため、ドラゴニア王家の紋章が入った豪奢な馬車を手配させた。
これも外交的パフォーマンスの一環だ。
「我々は余裕である」と見せつけるために。
ガタゴトと車輪が回る音。
密閉された空間。
向かいの席には、ジークフリートが座っている。
彼は窓の外を流れる荒野の景色を眺めていたが、不意に視線をこちらに戻した。
「……さっきの。」
「はい?」
「言いすぎたか?」
彼は少しバツが悪そうに頬をかいた。
「国ごと焼く」という発言のことだろうか。
「外交表現としては過激ですね。ですが、効果は絶大かと。相手を恐怖で縛るのも、交渉術の一つですから。」
「そうじゃない。」
彼は眉を寄せた。
そして、真っ直ぐに私の目を見る。
「お前が、だ。迷惑だったか?」
「……迷惑?」
「俺が勝手に……お前を俺だけのものだと宣言したことだ。」
ドキリとした。
所有権の主張。
契約書には「雇用関係」としか記されていない。
彼の発言は、それを超えた領域に踏み込んでいた。
私は膝の上で手を組んだ。
指先が少し震えている。
冷静になれ、レティーシア。
これはビジネスパートナーとしての確認事項だ。
「迷惑ではありません。むしろ、光栄です。」
「……そうか。」
「それに、事実ですから。私のスケジュール管理能力を提供しているのは、現在、陛下だけです。独占契約と言っても過言ではありません。」
私はあえて、事務的な言葉を選んだ。
甘い空気に流されてはいけない。
まだ、私たちは「王と秘書」なのだから。
だが、ジークフリートは納得していないようだった。
彼は身を乗り出した。
馬車の中、距離が縮まる。
彼の纏う匂い――砂と風、そして微かな残り香のような竜の気配――が鼻をくすぐる。
「レティーシア。」
「はい。」
「俺は、お前が淹れる茶以外は飲みたくない。」
「……カミル様が泣きますよ。」
「お前が選んだクッション以外では眠れない。」
「同じメーカーのものを買えば解決します。」
「お前がいない城は、ただの石の塊だ。」
言葉が詰まった。
それは反論できない。
かつて私が初めてあの城に入った時、そこは死んだ場所だった。
私が風を入れ、光を入れ、秩序をもたらしたことで、城は生き返った。
そして、彼も。
「……それは、私の職務能力への評価として受け取ってよろしいですか?」
「鈍いな。」
彼は呆れたように笑った。
そして、大きな手が伸びてくる。
私の頬に、指先が触れた。
熱い。
火傷しそうだ。
「俺は欲張りな竜だ。気に入ったものは離さない。石ころ一つでもな。」
「私は石ころではありません。」
「ああ。もっと価値がある。……この世の何よりも。」
彼の瞳に、私が映っていた。
そこには、宝物庫で宝石を眺める時以上の、熱烈な色が宿っていた。
所有欲。
独占欲。
そして、おそらくは……愛着。
私は視線を逸らせなかった。
逸らしたくなかった。
心臓の音が、馬車の音よりも大きく響いている。
「……契約更新の際は、条件を見直す必要がありますね。」
「いくらでも払ってやる。俺の全財産でも。」
「それは困ります。国が破綻しますから。」
軽口を叩くのが精一杯だった。
彼は満足げに目を細め、ゆっくりと手を引いた。
触れられていた場所が、まだ熱を持っている。
「城に着くまで寝る。……着いたら起こせ。」
「はい、ボス。」
彼は腕を組み、目を閉じた。
すぐに寝息が聞こえ始める。
無防備だ。
私の前では、彼は最強の竜王ではなく、ただの安心しきった一人の男になる。
私は窓の外を見た。
夕焼けが荒野を赤く染めている。
アズライト王国の方角は、もう見えない。
過去は遠ざかった。
隣には、手のかかる、けれど愛すべき現在がある。
「……調子がいいんですから。」
小さく呟く。
その声は、自分でも驚くほど優しかった。
私は鞄からブランケットを取り出し、彼の膝にかけた。
これは私の私物だが、特別に貸与してあげよう。
城に戻れば、また忙しい日々が待っている。
溜まった書類、カミル宰相との打ち合わせ、そしてレイモンドへの追い打ち外交。
けれど、今は。
この狭い箱の中で、彼の寝顔を見守る時間だけは、私だけの特権だ。
「おやすみなさい、ジークフリート。」
私はそっと囁いた。
彼は寝言のように、微かに喉を鳴らした。
城に着くまで、あと数時間。
この甘く、こそばゆい空気は、契約書には書かれていない「報酬」なのかもしれない。
私は手帳を開くことなく、ただ揺れる馬車のリズムに身を委ねた。
計算も効率も、今だけは必要なかった。
だが、この時の私はまだ知らなかった。
国境での緊張と、このあとの激務、そして慣れない長距離移動が、私の体にどれほどの負担をかけていたかを。
最強の秘書といえど、生身の人間であることを、数日後に思い知らされることになるのだ。




