第3話 雇用契約と衣食住
カップを置いた。
ことり、とソーサーと触れ合う音が静寂に響く。
琥珀色の液体から、華やかな湯気が立ち昇った。
「どうぞ。一仕事終えた後の水分補給です。」
私はジークフリートの前に、淹れたての紅茶を差し出した。
先ほどまでゴミ山の一部だったローテーブルは、今や本来の艶を取り戻し、優雅なティータイムの舞台となっていた。
ジークフリートは、ソファに深々と身を沈めたまま、怪訝そうな顔でカップを見下ろしている。
その隣では、カミル宰相が涙を流しながら自分のカップを両手で包み込んでいた。
「……いい香りだ。信じられない、あの給湯室の茶葉がこんな……。」
「蒸らし時間と湯の温度が重要です。カミル様、砂糖は?」
「い、一つだけ……ありがとう、レティーシア嬢……。」
カミル宰相は一口啜り、ほう、と至福の溜息を漏らした。
顔色が少し良くなっている。
私の応急処置――適切な休息と糖分の補給――が功を奏したようだ。
一方、竜王陛下はまだ手をつけていない。
金の瞳が、私と紅茶を行ったり来たりしている。
「毒なぞ入っておりません。契約前の相手を殺害しても、私に利益はありませんから。」
「……ふん。」
ジークフリートは不服そうに鼻を鳴らし、ようやくカップを手に取った。
優雅な動作だ。
生活能力は皆無だが、所作の一つ一つには王族らしい気品が滲む。
彼は液体を口に含み、少しの間、動きを止めた。
「……悪くない。」
「光栄です。」
素っ気ない言葉だが、彼の纏う空気が柔らかくなったのを私は見逃さない。
眉間の皺が消え、肩の力が抜けている。
単純な人だ。
いえ、竜だ。
「さて。」
私は自分のカップを手に取り、本題に入った。
ビジネスの時間だ。
「環境整備という名の一次試験、結果はいかがでしょうか。」
部屋を見渡す。
数時間前までの魔窟は消滅した。
床は磨き上げられ、書類は重要度順にファイリングされ、ゴミは全て城外の廃棄場へと搬出済みだ。
窓からは夕陽が差し込み、埃一つない空間を黄金色に染めている。
ジークフリートはカップを置き、面倒くさそうに私を見た。
「ああ、綺麗になったな。ご苦労。報酬はカミルに払わせるから、帰っていいぞ。」
「……はい?」
「だから、帰れと言っている。俺は静かに寝たいんだ。お前がいると落ち着かん。」
彼は長い足を組み替え、ふいっと顔を背けた。
まさかの採用拒否。
これだけ働かせておいて、単発バイト扱いとは。
カミル宰相が慌てて口を開く。
「へ、陛下! 何を仰いますか! レティーシア嬢ほどの手腕を持つ方はおりません! 彼女を逃せば、明日からまたあの地獄が……!」
「俺は気にしない。ゴミの中で寝るのも、あれはあれで落ち着く。」
「私が気にします! 過労死します!」
カミル宰相の悲痛な叫び。
だが、竜王は聞く耳を持たないらしい。
変化を嫌う、というのは長命種の特性だろうか。
あるいは単に、他人が自分のテリトリーに常駐するのが嫌なのか。
私はカップを置き、眼鏡の位置を直した。
想定内だ。
交渉とは、相手の『No』から始まるものである。
「陛下。一つ、重要な事実を提示させていただきます。」
「なんだ。」
「私が今ここで去れば、この部屋は三日で元のゴミ屋敷に戻ります。」
私は断言した。
予言ではない。
確信に基づいた予測だ。
「カミル様は激務により清掃に時間を割けません。陛下は、ご自分で片付けるつもりは?」
「ない。」
「でしょうね。となれば、エントロピーの増大は必然。再び書類は紛失し、食べ残しは腐敗し、カミル様は過労で倒れる。その時、誰が陛下のスケジュールを管理し、誰が美味しい紅茶を淹れるのですか?」
ジークフリートの視線が、空になったティーカップに向く。
そして、心地よさそうに整えられたソファのクッションを見る。
「……他の奴を雇う。」
「この惨状を見て、逃げ出さなかった人間が過去に何人いましたか?」
カミル宰相が首を横に振った。
「ゼロです。先月雇ったメイドは、扉を開けた瞬間に悲鳴を上げて辞表を出しました。」
「だそうです。私には耐性があります。前職で、理不尽な要求と終わりのない業務には慣れきっておりますので。」
かつてアズライト王国の王宮でこなした業務量は、この部屋の掃除よりも精神的に過酷だった。
あれに比べれば、物理的に片付いていくゴミ掃除など、達成感がある分だけマシな遊びだ。
ジークフリートは黙り込んだ。
金の瞳が揺れている。
快適さを取るか、他人がいる煩わしさを取るか。
天秤にかけているのだろう。
私は畳み掛ける。
鞄から、とある書類を取り出した。
以前、私が個人的に作成しておいたものだ。
「これは『雇用契約書および業務委託契約書(案)』です。」
「……用意周到だな。」
「秘書の嗜みです。内容をご確認ください。」
私は書類をテーブルに広げた。
インクの匂いが微かに漂う。
「第一条。私、レティーシアはドラゴニア帝国竜王陛下の筆頭秘書官として、スケジュール管理、執務室の環境維持、および来客対応を行います。」
「ふむ。」
「第二条。報酬は月額金貨五十枚。ボーナスは年二回。財源は国庫より支出すること。」
「高いな。」
「私のスキルに見合った額です。それに、私が業務を効率化することで削減できる国家予算――無駄な遅延損害金や再発行手数料など――を考えれば、十分にお釣りが来ます。」
ジークフリートは眉をひそめたが、否定はしなかった。
実際、この部屋に埋もれていた未処理案件の中には、放置することで損失を生んでいるものが多々あった。
それらを私が処理した時点で、すでに私の給与数ヶ月分の利益は確定している。
「そして第三条。ここが重要です。」
私はペン先で条文を示した。
「勤務時間は午前八時から午後六時まで。緊急時を除き、時間外労働には割増賃金を支払うこと。また、週休二日制を導入し、十分な休息時間を保証すること。」
「……竜に休みなどいらん。」
「私に要るのです。人間は脆弱ですから、休まなければ死にます。私が死ねば、陛下はまたゴミの中で寝ることになりますよ?」
「む……。」
ジークフリートは腕を組み、唸った。
痛いところを突かれた、という顔だ。
快適な生活という餌は、強大な竜王にとっても魅力的らしい。
特に、一度その味を知ってしまった後では。
「さらに第四条。衣食住の保証です。私は城内の空き部屋を使用権として貸与されること。また、食事は賄い付きとすること。」
「……好きにしろ。部屋ならいくらでも余っている。」
「ありがとうございます。では、こちらに署名を。この契約は、ドラゴニア帝国の法に基づき、魔力的な拘束力を持ちます。」
私はペンを差し出した。
ドラゴニア帝国の契約魔法は強力だ。
口約束とは違う。
署名した瞬間、その契約は魂に刻まれる。
互いに裏切りが許されない、絶対的な約束となるのだ。
ジークフリートはペンを受け取ったが、まだ迷っているようだった。
ペン先が空中で止まる。
「……一つ、条件がある。」
「何でしょう。」
「飯だ。」
彼は私を睨むように見た。
いや、その目は期待に飢えているようにも見える。
「さっきの茶。あれと同じレベルのものを、毎日出せるか?」
「お茶だけでなく、食事もですか?」
「そうだ。カミルが用意する飯は、栄養バランスばかり考えていて味気ない。俺は美味いものが食いたい。」
横でカミル宰相が「す、すみません……健康第一かと……」と縮こまっている。
確かに、竜人族は魔力消費が激しい分、食事からの摂取も重要だと聞く。
そして何より、美味しい食事は労働意欲(と私の操縦のしやすさ)に直結する。
「可能です。ただし、食材費は別途請求します。国庫からの経費か、陛下のポケットマネーかは、その都度相談ということで。」
「構わん。美味いなら金は出す。」
「交渉成立ですね。」
私はにっこりと微笑んだ。
ビジネススマイルではない。
心からの笑みだ。
これで、私の生活基盤が確保された。
しかも、かなりの好条件で。
ジークフリートは、さらさらと羊皮紙にサインをした。
瞬間、紙面が淡く発光する。
契約成立の証だ。
魔力が揺らぎ、私と彼の間に見えないパスが繋がった感覚がした。
「……これで文句はないな。」
「はい、ボス。これより、全力を尽くしてお仕えします。」
私は契約書を回収し、大切に鞄へしまった。
これは私の権利書であり、この国での身分証明書でもある。
「さて、カミル様。陛下も署名されました。カミル様も証人としてサインをお願いします。」
「は、はい! 喜んで!」
カミル宰相は泣きながらサインをした。
これで彼の激務も少しは緩和されるだろう。
彼は私の手を握り締め、拝むように上下に振った。
「ありがとうございます、レティーシア嬢……! 貴女は救世主だ……!」
「仕事ですから。さて、契約が成立した以上、早速業務に取り掛かります。」
私は立ち上がり、パン、と手を叩いた。
「まずは夕食の手配です。陛下、何かリクエストは?」
「……肉。」
「具体的にお願いします。」
「焼いた肉だ。あと、甘いもの。」
「了解しました。厨房の使用権限を確認したいのですが。」
「カミル、鍵を渡してやれ。」
ジークフリートは投げやりに言ったが、その表情は先ほどまでの不機嫌さが消え、どこか安堵しているように見えた。
やはり、誰かに管理されることを無意識に求めていたのかもしれない。
強大な力を持つがゆえの孤独、あるいは単なる生活無能者としての依存心か。
どちらにせよ、私にとっては好都合だ。
厨房へと向かう廊下を歩きながら、私は思考を巡らせた。
今夜のメニューは、竜王の胃袋を完全に掴むための重要なプレゼンだ。
アズライト王国で食べた宮廷料理のような気取ったものではなく、もっと本能に訴えかけるものがいいだろう。
かつて実家で、趣味で作っていた家庭料理。
あるいは、深夜に残業していた時に差し入れで作った軽食。
そういう「温かみ」のある味が、今の彼には必要な気がした。
「……ふふ。」
笑みがこぼれる。
楽しい。
誰かの顔色を窺って、理不尽に耐えるだけの仕事ではない。
私のスキルが、明確な結果と対価として返ってくる。
そして何より、あの無愛想な竜王が、私の料理でどんな顔をするのか楽しみだ。
「まずは冷蔵庫の在庫確認からですね。」
厨房の扉を開ける。
そこには、また別の戦場(乱雑な食材庫)が広がっているかもしれないが、今の私には恐れるものなどなかった。
最強の契約書と、期待してくれる顧客(竜王)がいるのだから。
窓の外では一番星が輝き始めていた。
私の新しい生活が、今、本格的に幕を開ける。




