第2話 魔窟という名の王城
埃の臭いが鼻をつく。
窓は閉め切られている。
淀んだ空気が、肺に張り付くようだった。
「……ここが、王城?」
私は足を踏み入れた場所を見渡し、絶句した。
アズライト王国を出て、馬車に揺られること数日。
国境を越え、峻険な山脈を抜けた先にあるドラゴニア帝国。
その中枢であるはずの「竜王の城」は、私の想像を絶する状態にあった。
案内人はいない。
門番は「勝手に入ってくれ」とあくびをしていた。
そして、通された大広間へと続く廊下には、得体の知れない荷物が積み上げられている。
コツ、コツ。
ヒールの音が、吸音される。
床に敷かれた絨毯が見えないほど、紙屑が散乱しているからだ。
「失礼いたします。本日、面接に伺いましたレティーシアです。」
声を張り上げる。
返事はない。
あるのは、どこかで何かが崩れる音だけ。
私は地図と案内状を確認した。
これは私の私物だが、そこに記された場所は間違いなくここ、「執務室」兼「謁見の間」だ。
重厚な扉が半開きになっている。
隙間から、禍々しいほどの生活感と荒廃が漏れ出していた。
意を決して、扉を開ける。
ギィィ、と錆びついた蝶番が鳴いた。
視界に飛び込んできたのは、地層だった。
書類の山、脱ぎ捨てられた衣服、空のワインボトル、そして枯れた観葉植物。
それらが複雑に絡み合い、部屋の床面積を完全に埋め尽くしている。
「……これは。」
汚い。
あまりにも汚い。
潔癖症でなくとも眩暈がする光景だ。
私は眼鏡の位置を直し、冷静に分析を試みる。
これは職場ではない。
巨大なゴミ箱だ。
その時、足元で何かが動いた気がした。
書類の山の一部が盛り上がっている。
「う、うぅ……。」
呻き声。
私は警戒しつつ、その山に近づいた。
革靴の先で、慎重に書類をどける。
そこには、人間が倒れていた。
いや、人間ではない。
側頭部から伸びた角。
竜人族だ。
仕立ての良い服を着ているが、ボロボロに皺が寄っている。
顔色は青白く、目の下には深い隈があった。
「もし。大丈夫ですか?」
私はしゃがみ込み、彼の脈を確認した。
弱い。
だが、生きている。
「過労……いえ、栄養失調でしょうか。」
彼の懐から、手帳がこぼれ落ちていた。
『宰相カミル』という名と、狂気的なスケジュールが書き殴られている。
どうやら、この国のナンバーツーらしい。
倒れている彼を放置するわけにはいかないが、抱え上げる腕力は私にはない。
「水……。」
カミル宰相が乾いた唇で呟く。
私は鞄から自分用の水筒を取り出した。
これは私の個人資産だが、緊急避難的な人道支援として提供する。
蓋を開け、少しずつ口に含ませる。
「ごくり……あ、ありがとうございます……。」
「落ち着いて。まずは呼吸を整えてください。」
「は、はい……面接の、方ですね……申し訳ない、お出迎えもできず……。」
彼は涙目で私を見上げた。
その瞳には、深い絶望と疲労が宿っている。
「竜王陛下は……その奥に……いらっしゃるはずです……。」
「奥?」
私は部屋の最深部に目を凝らした。
そこには、一際巨大なゴミの山が鎮座している。
玉座があるはずの場所だ。
あれの中に、この国の王がいるというのか。
「わかりました。まずは環境を整えましょう。」
「え……?」
「このままでは面接どころではありません。労働環境安全衛生法、いえ、生物としての尊厳に関わります。」
私は立ち上がった。
腕まくりをする。
ジャケットを脱ぎ、丁寧に畳んで鞄の上に置いた。
スイッチが入る音が、自分の中で聞こえた気がした。
「掃除用具はどこに?」
「あ、あの扉の中に……あるはず、です……。」
カミル宰相が指差した物置を開ける。
期待はしていなかったが、予想通りの惨状だった。
毛の抜けた箒。
黒ずんだ雑巾。
バケツには干からびた何かがこびりついている。
これらは全て、国家管理委託物あるいは備品に分類されるだろう。
状態は最悪だが、使うしかない。
「お借りします。」
私はハンカチで口元を覆い、髪を一つに束ねた。
戦闘準備完了。
相手は魔物ではない。
無秩序という名の怪物だ。
まずは換気だ。
窓際へ向かうが、書類の山がバリケードのように阻む。
私は崩れそうな書類の束を、慎重かつ迅速に移動させた。
重要なのは「分類」だ。
内容を読んでいる暇はない。
だが、紙質、印章の有無、インクの古さでおおよその重要度は判別できる。
・保存期限切れの会議資料(廃棄候補)
・未決裁の申請書(重要・緊急)
・食べ物の包み紙
これらを瞬時に見極め、三つの山に分けていく。
私の手は止まらない。
アズライト王国の王宮で、膨大な事務処理をこなしてきた経験が活きる。
あの頃、理不尽な量の仕事を押し付けられたことが、こんな形で役に立つとは皮肉なものだ。
窓に到達した。
鍵を開け、重いサッシを押し上げる。
ガガガ、と音を立てて窓が開いた。
ヒュウゥゥ……。
新鮮な風が吹き込む。
室内の淀んだ空気が、悲鳴を上げて逃げ出していくようだった。
光が差し込む。
舞い上がる埃がキラキラと輝いて見えるが、現実はただのダストだ。
「よし。」
次は床だ。
カミル宰相の周りを優先的に確保する。
彼を安全地帯へ移動させなければならない。
私は箒を手に取り、床を掃き清めた。
数年分の埃と思われるグレーの塊が、次々と生成されていく。
カミル宰相は、その様子を呆然と見ていた。
水筒を抱きしめたまま、まるで神の御業を見るような目で。
「す、すごい……手が、見えない……。」
「感心している場合ではありません。宰相様、動けますか? あちらのソファ……いえ、ソファらしき物体の上へ。」
私は部屋の隅にあった物体を掘り出した。
衣服の山の下から、高級そうな革張りの長椅子が現れる。
国家資産だろう。
扱いには注意が必要だが、今は緊急時だ。
雑巾で表面を拭い、カミル宰相を誘導する。
「あ、ありがとう……ふかふかだ……ソファって、こんなに柔らかかったんだ……。」
彼は涙を流してソファに沈んだ。
どれだけ過酷な環境にいたのだろうか。
同情を禁じ得ないが、感傷に浸る時間はない。
本丸は、あの「玉座の山」だ。
私は部屋の中央へと進軍した。
敵は手強い。
ワインの空き瓶が転がり、足場を奪う。
食べかけのパンが化石化している。
これらは衛生上の観点から、即座に廃棄処分とする。
所有権云々以前に、バイオハザードだ。
ゴミ袋がないので、使い古された麻袋(これも備品だろう)に詰め込んでいく。
一つ、二つ、三つ。
袋の山が築かれていく。
それに反比例して、床の面積が広がっていく。
本来の美しい大理石の床が、何年ぶりかに光を浴びて輝き出した。
気持ちがいい。
混沌が秩序へと変わる瞬間。
数字がピタリと合った時の決算書にも似た、快感。
これが私のカタルシスだ。
三時間ほど経過しただろうか。
部屋の半分が片付いた頃、私は「玉座の山」の前に立っていた。
ここは特に酷い。
金銀財宝らしきものと、ガラクタが混ざり合っている。
そして、その中心に誰かが埋もれている気配がする。
「失礼します。」
私は声をかけつつ、山を崩しにかかった。
高価そうな織物を剥ぐ。
魔導書らしき書物を脇に避ける。
そして、巨大なクッションのような何かを引っ張り出した。
ドサッ。
その何かが床に落ちる。
長い銀髪。
鍛え上げられた長身の男。
整った顔立ちだが、覇気がない。
気だるげなオーラを全身から放つその人物こそ、肖像画で見たことのある顔だった。
ジークフリート・ドラゴニア。
この国の皇帝にして、最強の竜王。
彼は床に転がったまま、ゆっくりと瞼を開けた。
金の瞳が、焦点の合わない様子で私を映す。
「……んあ?」
低い、寝起きの声。
威厳のかけらもない。
「……眩しい。カーテン、閉めろ……。」
「閉めません。今は午後二時です、陛下。」
私は冷淡に返した。
手には箒、顔には煤。
およそ面接に来た人間の姿ではないが、背筋だけは伸ばす。
ジークフリートは不快そうに顔をしかめ、上半身を起こした。
そして、周囲を見渡す。
彼の視線が、片付いた床、整理された書類の山、そしてゴミの入った麻袋の山を行き来する。
「……なんだ、これは。」
「掃除です。」
「掃除?」
彼は単語の意味を咀嚼するように首を傾げた。
そして、私を見る。
じろりと、値踏みするような視線。
竜としての本能的な圧力が肌を刺すが、私は動じない。
未払いの残業代を請求した時の緊張感に比べれば、寝起きの竜など恐るるに足らない。
「誰だ、お前。勝手に俺の寝床を荒らすな。」
「荒らしてはおりません。整えたのです。私はレティーシア。本日、秘書官の面接に伺いました。」
「秘書……? ああ、カミルが言っていたような……。」
ジークフリートは頭を掻きむしった。
銀髪が乱れる。
「帰れ。俺は秘書などいらん。カミルがいればそれでいい。」
「そのカミル様は、あちらでダウンしております。」
私が指差すと、ジークフリートはソファを見た。
幸せそうな顔で眠る宰相の姿を確認し、少しだけ表情を緩める。
「……チッ。あいつも貧弱だな。」
「貧弱なのではありません。環境が劣悪すぎるのです。陛下、この部屋の空気中の粉塵濃度をご存知ですか? 健康被害が出るレベルです。」
私は一歩踏み出した。
この男、顔はいいが生活能力は皆無だ。
そして、部下を使い潰すタイプの無自覚な暴君かもしれない。
前職の上司(元婚約者)を思い出し、少しイラッとする。
「うるさい女だ。俺は竜だぞ。埃ごときで死なん。」
「ですが、効率は落ちます。公務の停滞は国益を損ないます。」
「知ったことか。俺は眠いんだ。」
ジークフリートは再び床に寝転がろうとした。
だが、その背中が止まる。
彼の手が、床の感触を確かめるように動いた。
「……冷たい。」
「ええ、大理石ですから。」
「いつもはもっと、ごわごわして……暖かいのに。」
それは書類とゴミの層が保温材になっていただけだ。
私は呆れを通り越して感心した。
この男、ゴミを布団代わりにしていたのか。
「片付いてしまったので、もう以前の寝心地は望めません。ベッドでお休みになってはいかがですか?」
「寝室まで行くのが面倒だ。」
究極のズボラ発言。
最強の竜王の正体がこれとは。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。
私には金が必要だし、何より、中途半端に片付いた部屋を放置するのは私の美学に反する。
「では、交渉といきましょう。」
「あ?」
「私がここを、最高に快適な空間にします。陛下が指一本動かさずとも、必要な書類が出てきて、美味しいお茶が飲めて、ふかふかの場所で昼寝ができる環境を。」
ジークフリートの耳がピクリと動いた。
竜人族は聴覚が鋭いらしい。
あるいは、単に「楽ができる」というワードに反応しただけか。
「……本当か?」
「はい。私の実務能力は、アズライト王国で実証済みです。ただし、対価はいただきます。」
私は鞄から、あらかじめ用意していた「雇用契約書(案)」を取り出した。
まだ署名はない。
だが、この状況なら有利な条件を引き出せる。
「とりあえず、今はこの部屋の惨状を何とかすることを優先しましょう。面接の合否は、私の働きを見てから判断してください。」
「……ふん。勝手にしろ。」
ジークフリートは興味なさげに欠伸をした。
だが、拒絶はしなかった。
それはつまり、黙示の許可だ。
「承知いたしました。では、失礼して。」
私は再び箒を握り直した。
残るは玉座周りの仕上げと、謎の粘着物質の除去。
そして、書類の最終分類だ。
私の戦いはまだ始まったばかりだ。
背後で、竜王がぼんやりとこちらの動きを目で追っている気配を感じる。
その視線が、獲物を見る捕食者のものではなく、珍しいおもちゃを見る子供のようなものであることに、私はまだ気づいていなかった。
窓の外では、ドラゴニアの空が紫に暮れようとしていた。
新しい職場は前途多難だが、少なくとも、退屈することはなさそうだ。
私は小さく息を吐き、目の前のゴミ袋を結んだ。
その結び目は、私の決意のように固く、解けることはないだろう。




