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残業代を回収して国を捨てる!次は竜王の管理職です。  作者: 月雅


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第10話 終身雇用契約(プロポーズ)


風が凪いでいる。

夜空には、宝石箱をひっくり返したような星々が瞬いていた。

ドラゴニア帝国の夜は静かだ。

かつて私がアズライト王国で聞いていた、虚飾と嫉妬が渦巻く夜会の喧騒とは違う。

ここにあるのは、穏やかな静寂と、確かな生活の息吹だけだ。


「……ふぅ。」


私はバルコニーの手すりに寄りかかり、夜風を吸い込んだ。

冷たい空気が、仕事で熱った頭を冷やしてくれる。

アズライト王国から帰還して一週間。

溜まっていた業務の山は、驚異的なペースで消化され、ようやく平常運転に戻りつつあった。


「レティーシア嬢、ここにいましたか。」


背後から声をかけられた。

振り返ると、カミル宰相がワイングラスを二つ持って立っていた。

その表情は晴れやかだ。


「お疲れ様です、カミル様。まだ残業ですか?」

「いえ、今日はもう店仕舞いです。祝杯を挙げようと思いまして。」


彼はグラスの一つを私に差し出した。

中には、深紅の液体が揺れている。

ドラゴニア特産のヴィンテージワイン。

国家資産として保管されていたものだが、式典用として一部が払い下げられたものだ。


「アズライト王国の再建支援、見事でした。向こうの財務大臣から感謝状が届いていますよ。」

「感謝状より、追加報酬の入金確認を急がせてください。彼らの事務処理能力はまだ信用できませんから。」

「ははは、相変わらず厳しい。」


カミル宰相は楽しげに笑い、グラスを掲げた。

私も自分のグラスを軽く合わせる。

チン、と澄んだ音が響いた。


「ですが、本当に助かりました。貴女が来てから、この城は変わりました。陛下も、国も、そして私も。」

「私は契約に基づき、当然の業務を遂行したまでです。」

「契約、ですか。……その契約も、そろそろ更新時期ではありませんか?」


カミル宰相が意味深な視線を投げかけてきた。

更新時期。

確かに、最初の雇用契約を結んでから数ヶ月が経過している。

当初の混乱期を脱し、安定期に入った今、条件の見直しはビジネスとして当然の流れだ。


「そうですね。次回の交渉では、有給休暇の増枠と、専用執務室の空調設備改修を要求するつもりです。」

「……色気のない要求ですねぇ。」

「秘書に色気は不要です。必要なのは効率と、快適な労働環境です。」


私が即答すると、カミル宰相は肩をすくめた。

そして、視線をバルコニーの奥、執務室へと向ける。

そこには、明かりもつけずに窓の外をじっと見つめる、大きな影があった。


「あの方も、随分と変わられましたよ。……貴女がいない一ヶ月間、毎日のようにカレンダーを眺めておられました。」

「……陛下が?」

「ええ。『あと何日で帰ってくる』と、指折り数えて。まるで遠足を待つ子供のように。」


想像して、不覚にも口元が緩んでしまった。

あの最強の竜王が、私の帰りを待って指折り数えていただなんて。

可愛げがあるにも程がある。


「さて、私はお邪魔虫になる前に退散します。……陛下が、お話があるそうですよ。」


カミル宰相は片目を瞑ってみせ、グラスを置いて立ち去った。

残されたのは私と、微かなワインの香り。

そして、執務室からゆっくりと歩いてくる、銀髪の主。


「……カミルは余計なことばかり喋る。」


ジークフリートが現れた。

彼は正装に近い服装をしていた。

いつもは着崩しているシャツのボタンをきっちりと留め、襟を正している。

その姿を見た瞬間、私の胸が小さく跳ねた。


「お疲れ様です、ボス。何か業務命令でしょうか。」

「……業務ではない。個人的な話だ。」


彼は私の隣に立った。

手すりに手を置く。

その距離が、以前よりも近い。

アズライトへの行き帰りの馬車で、あるいは国境の風の中で縮まった距離感が、そのまま維持されている。


「レティーシア。」

「はい。」

「アズライトでの仕事は、楽しかったか?」


唐突な質問だった。

私は少し考え、正直に答えた。


「達成感はありました。過去の負債を清算し、自分のスキルが通用することを再確認できましたから。」

「……そうか。なら、向こうに残るという選択肢もあったんじゃないか?」


彼の声が僅かに揺れた。

不安。

それを隠そうとする強がり。

彼はまだ気にしているのだ。

私が「元」婚約者のいた国へ行き、そこを立て直したことで、心が向こうに戻ってしまうのではないかと。


私はグラスを置き、彼に向き直った。

眼鏡の位置を直す。

これは重要なプレゼンの時間だ。


「陛下。私は効率を愛する女です。」

「知ってる。」

「アズライト王国は、一度破綻した組織です。再建はしましたが、将来的なリスクは依然として高い。対してドラゴニア帝国は、資源も人材も豊富で、何よりトップが……。」


言葉を切る。

トップが、私のことを「代替不可能な重要資産」と呼んでくれる。

私の淹れた紅茶を愛し、私の作ったマニュアルを守ろうと努力してくれる。

そんな職場を捨てる理由が、どこにあるというのか。


「トップが、私の好みの労働環境を提供してくれますから。」

「……好み?」

「はい。適度な手のかかり具合と、正当な評価。それに、居心地の良さ。」


私が微笑むと、ジークフリートは瞬きをし、それから安堵したように息を吐いた。

肩の力が抜ける。


「……勝てないな、お前には。」

「当然です。私は貴方のスケジュールを全て把握している秘書ですから。」


彼は苦笑し、それから懐に手を入れた。

何かを取り出そうとして、躊躇い、また手を入れる。

その挙動不審な様子に、私は首を傾げた。


「何かお探しですか? 紛失物なら、私が探しましょうか?」

「違う。……これだ。」


彼が意を決して差し出したのは、一枚の紙だった。

羊皮紙ではない。

上質な便箋でもない。

執務室の裏紙だ。

そこに、慣れない筆跡で、びっしりと文字が書かれている。

インクが滲み、所々書き直された跡がある。


「これは?」

「……新しい契約書の、草案だ。」


彼が顔を背けたまま言った。

耳が赤い。

私はその紙を受け取り、街灯の明かりにかざして読み始めた。


『契約更新に関する覚書』


タイトルはまともだ。

だが、中身が独創的すぎた。


『第一条 ジークフリートは、レティーシアに対し、甲の保有する全個人資産の管理権および使用権を無期限で譲渡する。』

『第二条 甲は、乙の生涯における衣食住、および安全を、命に代えて保証する。』

『第三条 乙は、甲のそばに常駐すること。勤務時間は二十四時間三百六十五日。休暇なし。』

『第四条 契約期間は、双方の命が尽きるまでとする。』


読み進めるうちに、目が点になった。

そして、最後の一文で思考が停止した。


『特記事項:この契約は、婚姻届の提出をもって発効するものとする。』


紙を持つ手が震えた。

これは契約書ではない。

人生を賭けた、あまりにも不器用で、重たくて、愛おしいプロポーズだ。


「……陛下。」

「なんだ。」

「この第三条、労働基準法違反です。二十四時間勤務、休暇なしなんて、ブラック企業も真っ青ですよ。」


私が指摘すると、彼はバツが悪そうに唇を尖らせた。


「……一緒に寝れば、睡眠時間は確保できる。」

「そういう問題ではありません。プライベートな時間がゼロです。」

「俺と一緒にいる時間はプライベートじゃないのか?」

「公私混同です。」


私が溜め息をつくと、彼は焦ったように私の方を向いた。

金の瞳が、必死に私を捉える。


「なら、書き直す。条件を言え。お前が望むなら、国ごとやる。俺の命もやる。だから……。」


彼は言葉を詰まらせ、一歩踏み出した。

私の手を握る。

熱い掌。

あの国境で私を守ってくれた時と同じ、頼もしい熱。


「どこにも行くな。俺の秘書は、お前じゃなきゃダメだ。……俺の隣は、お前がいい。」


直球な言葉。

計算も駆け引きもない、純粋な感情の吐露。

かつてアズライト王国で、レイモンドから聞いた甘い言葉とは比べ物にならない。

あちらは砂糖でコーティングされた空虚な音だったが、こちらは無骨な岩の中に隠されたダイヤモンドだ。


私は手元の「契約書」を見た。

書き直された跡。

滲んだインク。

彼が一人で、慣れないペンを握り、悩みながらこれを書いた時間を思うと、胸が締め付けられるように熱くなった。


これが、私の求めていた「評価」だ。

能力だけでなく、私という存在そのものを必要としてくれる場所。

そして、私もまた、この場所を愛している。


「……書き直す必要はありません。」

「え?」

「ただし、解釈の変更を求めます。」


私は眼鏡を外し、ポケットにしまった。

ビジネスの時間は終わりだ。

ここからは、一人の女性としての回答になる。


「第三条の『常駐』について。これは物理的な拘束ではなく、精神的なパートナーシップと解釈します。」

「……精神的?」

「はい。心が繋がっていれば、多少離れていても問題ありません。トイレに行く時間くらいはください。」

「……む。それくらいは許可する。」

「そして第一条。全資産の譲渡は税務上問題がありますので、共有財産としての管理に変更します。私が無駄遣いを監視しますので、覚悟してください。」

「……望むところだ。」


彼は私の意図を理解し始めたようだ。

表情が明るくなっていく。


「最後に、第四条。契約期間について。」

「……長いか?」

「いいえ。短すぎます。」


私は首を横に振った。

竜人族は長命だ。

人間である私よりも、ずっと長く生きる。

「命が尽きるまで」では、彼の方が残されてしまう。


「私が死んだ後も、貴方は私のことを覚えている義務を負います。それが、私という資産を独占する対価です。」

「……強欲だな。」

「ええ。優秀な秘書ですから。」


私たちは見つめ合った。

星明かりの下、彼の瞳の中に私がいる。

私の瞳の中に、彼がいる。

契約条件は合意に至った。

あとは、締結の手続きだけだ。


「レティーシア。」

「はい、ジークフリート。」


彼がそっと私の腰を引き寄せた。

抵抗はしない。

自然と体が近づく。

彼の心音が聞こえるほど近く。


「……特例措置だ。受理してくれるか?」

「労働法上は完全にアウトですが……今回は特別に、承認いたします。」


私が囁くと、彼は嬉しそうに目を細めた。

そして、顔を近づけてくる。

唇が触れ合う直前、彼はもう一度だけ確認するように止まった。


「後悔しないな?」

「私の辞書に後悔という文字はありません。あるのは反省と改善だけです。」

「……なら、これからの人生、俺が全力で改善させてやる。幸せになれるようにな。」


重なる唇。

契約の印。

それは書類に押す印章よりも熱く、魔法の契約よりも強く、魂を結びつける感触がした。

ワインの味がしたかもしれない。

あるいは、夜風の香りか。

思考が溶けていく。

ただ、幸福感だけが全身を駆け巡った。


長い口づけの後、私たちは額を合わせた。

互いの呼吸を感じる。

カミル宰相が見ていたら、冷やかしの口笛を吹くところだろう。

だが、今は二人だけの世界だ。


「……さて、契約は成立しました。」


私は少し息を弾ませながら、彼の胸元を整えた。

乱れた襟を直す。

これはもう、秘書の仕事ではない。

妻としての、最初の仕事だ。


「明日からは忙しくなりますよ。結婚式の準備に、各国の招待客リスト作成、予算編成……。」

「カミルにやらせろ。」

「ダメです。私たちの式ですから、私たちが主導します。完璧な式にしましょう。」


私がスケジュール帳(脳内)を開くと、ジークフリートは「やれやれ」といった顔で、しかし満更でもなさそうに笑った。


「わかった。お前の指揮に従う。……だが、今夜だけは。」

「はい?」

「仕事の話はなしだ。……まだ、足りない。」


彼は再び私を抱きしめた。

その腕の強さに、私は身を委ねる。

これからの人生、きっと平穏無事とはいかないだろう。

このズボラで不器用な竜王の世話を焼き、国を動かし、時には喧嘩もしながら生きていく。

それはかつて私が描いていた「静かな余生」とは程遠い。


けれど。

その騒がしい未来が、今は何よりも輝いて見えた。


「承知いたしました、あなた。」


私は彼の背中に手を回した。

かつて捨てられた場所から這い上がり、自分の足で歩き、そして見つけた私の居場所。

ここが、私の本当の職場であり、家庭だ。


夜空の星が、一つ流れた。

願い事をする必要はなかった。

私の願いは、もうこの腕の中に全てあるのだから。


終身雇用契約、締結完了。

これより業務開始。

ただし、退職予定日は永遠に来ない。


私は彼の胸の中で、最高に幸せな笑顔を浮かべた。


(完)


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