第1話 決別の請求書
「婚約を破棄する。」
王太子の声が響いた。
音楽が止まる。
視線が集まる。
アズライト王国の王城、煌びやかな夜会の中央。
王太子レイモンドは、私の顔を指差してそう宣言した。
その隣には、派手なドレスを纏った男爵令嬢ミランダが寄り添っている。
「レティーシア、君には可愛げがない。」
レイモンドは美しく整えられた金髪を払った。
まるで舞台役者のような仕草だ。
周囲の貴族たちがざわめく。
可哀想に、と私を見る目。
あるいは、ざまぁみろと嘲笑う目。
私は無表情のまま、懐中時計を確認した。
午後八時十五分。
本来なら、この時間は決算書の最終確認をしているはずだった。
呼び出しを受けたから来たものの、要件がこれとは。
「聞いていますか、レティーシア嬢。」
「ええ、聞いております。殿下。」
私は淡々と答えた。
声のトーンは落とす。
感情を乗せるのは非効率だ。
「理由を伺っても?」
「君はいつも仕事、仕事だ。僕への愛情が感じられない。その点、ミランダは違う。僕を癒やし、支えてくれる。」
「そうですの! レイモンド様は王としての重圧と戦っておられるのです。レティーシア様のように、書類の数字ばかり見ている冷たい方には務まりませんわ!」
ミランダが甲高い声を上げる。
レイモンドは満足げに頷いた。
「そういうことだ。よって、この婚約は破棄とする。君は実家へ戻りなさい。」
一方的な通告。
通常なら、ここで泣き崩れるのが令嬢の作法だろう。
あるいは、足元に縋り付いて慈悲を乞うか。
だが、私は鞄を開けた。
革製の、実用一点張りの鞄だ。
中から分厚い紙の束を取り出す。
「承知いたしました。」
「……は?」
「婚約破棄の件、合意いたします。つきましては、こちらの処理をお願いできますか。」
私は紙束をレイモンドの前に差し出した。
一番上の紙には、大きな文字でこう書かれている。
『未払い時間外労働手当 兼 慰謝料請求書』
「なんだ、これは。」
「読んで字のごとくです。」
私は眼鏡の位置を直した。
ここからはビジネスの時間だ。
「私は五年前、殿下と婚約を結びました。同時に、王太子補佐官としての業務委託契約も締結しております。」
「そ、それがどうした。」
「契約書第十二条に基づき、所定労働時間を超えた業務には追加報酬が発生します。ですが、殿下は『未来の王妃なのだから当然』と仰って、一度も支払われておりません。」
紙を一枚めくる。
そこには、過去五年間の労働記録がびっしりと記されていた。
「予算編成会議の代行、外交文書の添削、地方視察の手配、さらには殿下の個人的な不始末の尻拭い……全て記録しております。」
「な……ッ!」
「合計で、金貨三千五百枚になります。本日付での婚約破棄に伴い、即時一括払いを求めます。」
会場が静まり返った。
金貨三千五百枚。
小さな屋敷が五軒は建つ金額だ。
「ば、馬鹿な! そんな金、払えるわけがないだろう!」
「払えないのであれば、国法に則り、しかるべき対応を取らせていただきます。」
私は視線を巡らせた。
人垣の中に、見慣れた顔を見つける。
「法務大臣、いらっしゃいますね?」
名を呼ばれた老紳士が、びくりと肩を震わせた。
彼は咳払いを一つして、おずおずと進み出る。
「……ここにおります、レティーシア嬢。」
「この請求書と労働記録簿、法的に有効であるか確認を。」
「ええ、まあ……拝見します。」
大臣は震える手で書類を受け取った。
パラパラと中身を確認するにつれ、彼の顔色が青ざめていく。
日付、時間、業務内容。
全てに王太子の署名か、あるいは公的な印章が押されていた。
私が都度、承認させておいたものだ。
管理とは、証拠を残すことである。
「……形式に不備はございません。契約に基づき、王太子殿下には支払い義務が生じます。」
「そんな!」
ミランダが叫んだ。
レイモンドは顔を真っ赤にして叫ぶ。
「こんなものは無効だ! 私が王太子だぞ!」
「王太子だからこそ、法を守っていただかねばなりません。」
私は冷徹に告げた。
ここで引くつもりはない。
これは私の人生という時間の対価だ。
所有権は私にある。
「それに、慰謝料も含んでおります。一方的な婚約破棄は、私の社会的評価を著しく損なうものですから。」
「くっ……!」
「支払いが確認できなければ、この記録簿の写しを隣国および主要な商会に公開いたします。アズライト王国の信用問題に関わりますが、よろしいですか?」
脅しではない。
正当な権利行使の予告だ。
国の恥を晒すか、金を払うか。
天秤にかければ、答えは明白だった。
国王陛下が現れたのは、その直後だった。
騒ぎを聞きつけたのだろう。
厳しい顔で書類を確認し、息子を睨みつけた。
「……払え。」
「ち、父上!?」
「恥を知れ。レティーシア嬢の働きなくして、今の国政は回っておらぬ。それを理解せず、このような愚行を……。」
国王は深いため息をついた。
そして、私に向き直る。
「レティーシア嬢。息子の非礼を詫びる。金は国庫からではなく、王家の私財より捻出しよう。」
「感謝いたします、陛下。」
「だが、婚約破棄を撤回する気はないか? これほどの才女を失うのは惜しい。」
国王の言葉に、周囲が頷く。
だが、私の心は決まっていた。
もう十分だ。
この国での私の役割は終わった。
これ以上の労働は、消耗でしかない。
「お言葉ですが、辞退いたします。私には可愛げがありませんので。」
「……そうか。」
国王は寂しげに頷いた。
その場で支払い手続きが行われる。
王家の資産管理担当者が呼ばれ、小切手が発行された。
アズライト王国中央銀行の発行。
確実に換金できる。
私は小切手を受け取り、懐にしまった。
これで、この金は私の個人資産となった。
誰にも文句は言わせない。
「では、これにて失礼いたします。」
私は完璧なカーテシーを披露した。
レイモンドを見ることはない。
彼は顔面蒼白で立ち尽くしていた。
ミランダは状況が飲み込めず、呆然としている。
背を向け、会場の扉へと歩き出す。
カツ、カツ、とヒールの音が響く。
誰も私を止めなかった。
会場を出て、夜風に当たる。
冷たい風が頬を撫でた。
不思議と、寒くはなかった。
「終わった……。」
小さく呟く。
肩の荷が下りた音がした気がした。
五年間。
休みなく働き、尽くしてきた。
それが評価されなかったことへの悲しみよりも、これ以上無駄な時間を費やさなくて済むという安堵が勝っていた。
効率的な判断だ。
私は待たせていた馬車に向かった。
御者に告げる。
「国境まで。」
「へ? お嬢様、屋敷ではなく?」
「ええ。この国を出ます。」
荷物はすでにまとめてある。
トランク二つ分。
私の私物はそれだけだ。
屋敷にある家具やドレスは実家の所有物だから置いてきた。
身軽さが、今の私には心地よかった。
馬車が動き出す。
石畳を車輪が叩く音。
遠ざかる王城の灯り。
私は窓の外を眺めた。
行く当てはある。
隣国、ドラゴニア帝国。
亜人が多く暮らす、実力主義の国だと聞く。
あそこなら、私のスキルを高く買ってくれるかもしれない。
「まずは宿を探さないと。」
手帳を開き、予定を書き込む。
今までは他人のスケジュールばかり管理していた。
これからは、私のための人生だ。
新しい就職先。
新しい生活。
そして、未払いのない労働環境。
夜空を見上げると、月が輝いていた。
まるで私の前途を祝うかのように。
口元に自然と笑みが浮かぶ。
さあ、行こう。
私の新しい職場へ。
馬車は闇を切り裂き、国境へとひた走る。
その先に待ち受けるのが、まさか管理能力ゼロの竜王だとは、今の私はまだ知る由もなかった。




