第一章8 ミレカーさんは知りたい
反射的に「もしよくないと言ったら?」と問い返しそうになったが、それではあまりに普通の子供らしくないと理性がブレーキをかけて、際允は言葉を飲み込んだ。
――なぜ、一番最初に僕に話に来たんだろう?やはりさっき驚いた反応が目立ちすぎたか?
内心でため息をつきながら、彼は顔を隠していた絵本を隣の床に置いて、目の前に立つ止湮を見上げる。
「うん。何?」
愛想笑いを見せる。
「名前を教えてもらえてもいいかな?」
止湮は優しさに満ちた笑顔で、際允の目の前で片膝をつた。子供の目線に合わせる、丁寧な所作だった。
「僕は——」
止湮の顔を見て、際允は危うく思わずに「僕は際允という」と口走りそうになってしまった。気づいた瞬間、言いかけた言葉を飲み込んだ。
「うん。それと、もし好きな呼び方があれば教えてほしい」
口を閉ざして名前を話さないようにした際允に、止湮の口調は非常に優しく包み込むように、際允に急かされていると感じさせなかった。
「ぼ、僕は、目暁、っていうんだ……」
止湮の顔を見ながら、自分の名を「目暁」と紹介することに後ろめたさを感じて、声も段々と小さくなってきた。
「目暁くん、だね。こんにちは。少しだけ、君と話ししてもいいか?」
止湮がどんな人に対しても礼儀正しい男であること、際允は知っていたが、自分のような「可愛げのない子供」にまでこれほど真摯に接する姿には、感心せざるを得ない。
六年という歳月が流れても、止湮は相変わらず誰に対しても親切で友好的で、どこへ行っても羨まれるほど好かれるあの止湮のままなのだ。
「いいよ」
疑いを避けるため、これ以上の躊躇は無用と判断して、際允は承諾した。
「一つ、君に聞きたいことがあってさ」
止湮は際允の瞳を真っ直ぐに射抜く。
「何?」
「僕が紹介された時、君だけすごく大きな反応をしてくれたんだけど、どうして? 僕のことを知っている? それとも、僕の名前や姿に、何か変なところでもあったか?」
やはり、反応が大きすぎて気づかれてしまったか。止湮なら、逃してはいなかったのは目に見えたことなのだが。
――止湮が孤児院にくるなんて予想できるはずがないだろうが。不可抗力だ。仕方がないじゃないか!
心の中で毒づいた。
「そ、そうかな……? 覚えてないんだけど……」
余計なことを口にして墓穴を掘らぬよう、しらを切り通すしかない。
「それと、君の表情——というより、正確には顔の筋肉の使い方だけど、なんだか馴染み深さを感じるんだ」
しかし、止湮はあの時の反応については深追いを深追いせず、さらに踏み込んだ観察を問ってきた。
「顔の筋肉?」
まさか、こんな自分でも制御しきれないような微細な癖から尻尾を出してしまったとは。転生以来、前世の知人に会ったことが一度もなかったため、際允も全く自覚していなかった。
とはいえ、前世の知人の中で、顔の筋肉の使い方までわかるほど際允を熟知しているのは止湮しかいないだろう。しかも、止湮ほどの記憶力と観察力がなければ、決して気づくことができなかったのだろう。
恐ろしい男だ。際允は苛立ちながらもそう思ってしまった。この男の前でボロを出さないことは、至難の業だ。
止湮は静かに際允を見つめて、その反応を観察していた。だが、際允もこのような時、どう振る舞うべきか思いつかず、ただ気まずい微笑みを浮かべて止湮の視線を返し続けた。
すると。
「君は、際允・ランニオンという人を知ってる?」
止湮が、直球を投げ込んできた。
――早すぎるだろ……!
二度の人生ともに孤児である上に友達も一人しか作っていない彼とは違って、止湮はあれほど多くの人に好かれて、きっと友人や親戚などの知り合いが相当いるはずだ。際允は疑いなくそう信じている。
――それなのに、なぜこれほど速く、僕の正体に辿り着けるんだよ?どんな観察力と記憶力を持ってるんだよ、この人は!人間の範疇を超えてないか?
そう心の中で様々な文句を言いながら、際允はフル回転で頭を働かせて、止湮にも納得できるような、合理的な説明を捻り出そうとする。
しかし、止湮が彼が答えるのを待たず、
「君の反応は、その名前を知っているようだね」
恐ろしいほどに冷静な、確信に満ちた口調で告げた。
「……」
確かに、普通なら、その名前を知らない人であれば、まずは戸惑うはずだ。が、彼の自己認識は際允という名前の持ち主であるので、一瞬でそれに気付くことができなかった。今回は、一時の動揺による自身のミスだと、際允自身にも認めざるを得ない。
さて、どうすべきだろうか。言い訳をするしかないのか。
止湮が来ることを事前に知っていれば、誤魔化すこと自体は不可能ではないが、こんな短時間で止湮を欺けるような言い訳が思いつくには、流石の際允にも自信がなかった。
もう、とぼけ通すしかないだろう。彼はそう考えた。
そこで、際允は言い訳を言おうとする。
「あの、ミレカーさん——」
「……ミレカー、か」
が、声に出した途端、言葉を遮られた。
「え?」
止湮の苗字で呼ぶには何か問題があったのか、際允は全く理解できず、思わず愕然とした表情を浮かべる。
すると、止湮の笑みが消えた。眉をひそめ、ごく真剣で、しかしどこか嬉しさと悲しさが入り混じったような複雑な表情で、止湮は際允を見つめる。
「どうして、僕をミレカーと?」
声も微かに低くなっていると、際允は感じた。
「どうしてって……」
際允の頭はさらに混乱した。
止湮の苗字はミレカーで間違いないはずだ。
先ほど先生が止湮を紹介した時、フルネームを紹介しなかったようだったと、際允は思い出した。当時あまりにも動揺していて紹介の内容を気にして聞いていなかった。もしかして、それで決定的なミスを犯してしまったのだろうか。
しかし、たとえ最後に止湮にバレるとしても、今「他のところで聞いた」と言い張れば、少なくとも止湮に「その可能性も否定できない」と一時の疑念を抱かせて、誤魔化せるのではないか、と思った。
「誰かから聞いたのかも? ここに来る前に先生が言ってたとか」
できるだけ平静を装って紡いだ言葉だったが、
「それはありえないことだ」
止湮にはっきりと否定された。
なぜ、そんなにも言い切れるのだろうか。
超人的な記憶力を誇る止湮であっても、一瞬の躊躇もなく否定したその態度に、際允は違和感を覚えた。
まるで際允が嘘をつくと疑っているように、どんな些細な表情変化も見逃さぬよう、止湮は獲物を射すくめるように際允をきつく凝視する。
「際允、だろう?」
周囲には聞こえぬように小さな声。だが、際允にはその一言一句が、楔のように打ち込まれた。
このような状況に至り、際允は正体を隠し通すことを完全に諦めた。
だが、心の中は疑問と不条理への文句でいっぱいだ。止湮が苗字で呼ばれただけで目暁の中の正体を特定できたとは。あまりにも理不尽ではないか。
観念したようにため息をついて、際允は仕方なく止湮に目を向ける。
なぜか、その真剣な顔の下に、隠されきれない僅かな緊張が滲んでいるのに気づく。
高校時代の友人と予想外の再会をして、緊張しているのか?
それとも、際允がこれでも否定し続けることを心配しているのか?
その顔を見て、少し不憫に覚えた。際允はもう言い逃れを一切考えず、素直に認めることにする。
「ああ、そうだ」
今度は止湮が無言となった。
彼が何を考えて、いつまで黙っているつもりなのか、際允には見当もつかない。仕方なく、際允が話の口を切ることにする。
「それで、僕は際允だってわかってて、どうする?」
その言葉で我に返ったように、止湮は再び真剣な目を際允に向ける。
「君を養子に迎えるよ」
「えっ、」
冗談だろ、と、際允は一瞬思考が真っ白になった。
「際允だってわかってる上で、僕を養子にするつもり?」
「わかっているからこそなんだ」
止湮の表情には、冗談めいた様子は微塵もない。
「知ってしまった以上、このまま君を放っておくなんて、できるわけないだろ?」
「だからといって、養子までにする必要はないだろ? 会いたければ、たまにここに来れば済む話なんじゃないか?」
「君は今、幼く弱い子供に過ぎないんだから、近くで守っていないと安心できないだろ」
止湮は眉をひそめる。
「僕に養子にされるのが恥ずかしいとでも感じてるのか? だったら、僕と一緒に暮らすルームメイトとでも考えればいいんじゃないか。僕も君を、自分の子供のように扱うつもりはないさ」
感情的には、前世の友人の養子になるという提案を承諾したくはない。が、どう断れば止湮に諦めさせるのができるか思いつく隙も与えられず、止湮の説得は続く。
「それとも、僕の迷惑になるとでも思っているのか? でも、僕が今日ここに来たのも、ある理由で子供を一人、養子にしなければならないからな。他の知らない子供を引き取るより、中身が際允である目暁を養子にするほうが、むしろ負担が減るよ」
際允が思いついたがまだ声に出していない拒絶理由を、止湮はことごとく先回りして潰した。
それだけではない。
「ここでは、ずっと『普通の子供』を演じ続けなきゃいけないんだろ? そんなの疲れるんだろ? 僕と一緒に暮らす場合、そんなことに気を遣う必要がなくなるよ。際允としていればいいさ。そのほうが、君にとっても楽じゃないか?」
「……」
あまりにも理路整然とした提案だった。
止湮の視点から見て際允を養子にしないほうがいい理由も、または際允の視点から見て止湮の養子にならないほうがいい理由も、際允は全く見つからなかった。
考えれば考えるほど、むしろそれが最も正しい選択肢なのではないかとさえ思えてきた。
流石は止湮だ。際允は、本日二度目の敗北を認めるしかなかった。
「わかった」
結局説得されたが、自分が簡単に言いなりになったと思われるのも癪に障る。
「でも、成人になったら、養子縁組契約を解除するかもしれないよ?」
「成人……」
その言葉を噛みしめているように呟いて、なぜか数秒間ぼんやりとした後、止湮はようやく返事をする。
「わかった。じゃあ、話は決まったね」
「うん」
「行こう。家に帰ろう」
彼の前で片膝をついたまま、止湮は手を差し出し、微笑みを見せる。




