第一章49 「いい人」ではない君が笑う Fin.
「もし……あなたに、過去に戻って未来を変える能力があると言ったら、どうする?」
「えっ」
際允の記憶にある墨然は、場違いな冗談を口にするような男ではなかった。
だが、その言葉があまりにも淡々と放たれたがゆえに、かえって真偽を測りかねてしまう。
「なぜあなたが前世の記憶と人格を保ったまま転生できたのか。それについては、どう考えている?」
疑念を孕んだ視線を向けた際允に、墨然が問いを投げ返した。
「わからない。何かの能力とかのおかげだろう」
「ああ。あなたにはその能力がある。死んだ後に前世の記憶を保持し、未来に転生できるその力は――過去に戻ることさえ可能にする」
「そうか」
前世の記憶を持って転生できるのなら、過去に戻ることも不可能ではないのかもしれない。際允は、感情の起伏もなくそう受け入れた。
もし、止湮の死を知る前であれば、衝撃を受け、戸惑い、真偽を激しく疑い、なぜ墨然がそんなことを知っているのかと困惑していただろう。
だが、あらゆる感情は、止湮の死の真相を知ったあの瞬間に、壊死した。今の際允には悲しみも怒りもなく、ただただ虚しくて、心は空白に支配されていた。
「それで? あなたはどうする?」
墨然が再び問うた。
「もし、墨然くんの言葉を信じて、過去に戻ってこの未来を変えると決めたら?」
際允が試すようにそう尋ねると、
「手伝う」
と墨然が即答した。
「何もせず、ただ生きていくと決めたら?」
「手伝う」
「止湮の死の真相を追うと決めたら?」
「手伝う」
「止湮のために復讐をすると決めたら?」
「それでも、手伝う」
「……君、これでも警察機関の人間だろう」
「元々、刑事や警察官になりたくてこの道を選んだわけじゃない。理想や興味でこの仕事をしているわけでもない」
墨然は目を閉じ、淡々と告げた。
「じゃあ、何のために? なんで警察機関に入ったのか?」
「そんなことはどうでもいい。今は、本当に大事なことを考えてくれ」
墨然のまぶたは、閉じられたまま。
「どうしたい?」
際允は、心に宿る唯一の答えを口にする。
「もし本当にそんな能力があるのなら、使わないという選択肢は、初めから存在しない」
考える必要も、迷う必要も、一切なかった。
墨然はため息を漏らし、目を開けた。その瞳には一片の驚きもない。際允の選択を、最初から予見していたかのように。
「だから、教えたくなかったんだ」
「過去に戻って未来を変えてほしくないのか?」
墨然がそう思っているはずがない。そんなことはわかっている。そうでなければ、そもそもこんなことを教えたりはしないだろう。
だが、なぜ墨然がそんな反応をするのか、際允にはわからなかった。
「そういう意味じゃない。そんな単純な話じゃないんだ」
墨然はやりきれなそうに言葉を継ぐ。
「『自分には世界を変える能力がある』と知ってしまった以上、もう後戻りはできない。これから先は何があろうと、あなたは自分にそれを変える力があることを意識し続けるだろう。変えることを諦めても、変えようとして失敗しても、――あなたは不必要な罪悪感を背負い続けることになるだろう」
――そんなの、墨然くんにとっても同じじゃないのか?
――僕にの能力の真相を教えれば、そう意識させてしまう、という。墨然くんはずっと、そういう「不必要な罪悪感」を背負い続けてきたというのか?
「そうか」
今の際允には、それが止湮の死を回避するための代償だというのなら、あまりにも些細なものにしか思えなかった。
――そんなの、どうでもいい。
――止湮が死んだ事実さえ変えられるのなら、それ以外のことすべてなんて、どうでもいいんだ。
「なぜ俺がこんなことを知っているのか。あなたは一言も聞こうとしないな」
その言葉で、未明の車中での会話を思い出した。あの時も墨然は、際允だと知っている理由を聞かないのかと問い、際允は興味がないと一蹴した。
暗闇の中、墨然の表情は見えなかった。あの時の墨然も、今と同じように自嘲気味で、どこか寂しげな微笑を浮かべていたのだろうか。
その表情を前にして、際允はこれ以上、薄情な本音をぶつけることはできない。
「なぜ今教えてくれたのか? どうして今?」
「あなたがあの時、『わからない』と答えたからだ」
「あの時?」
一瞬の考えを経て、際允はその意味を理解した。
六年前、今世で墨然と初めて会ったあの日。墨然がメッセージで問いかけた、「今、幸せ?」という質問。
「もし僕が、幸せじゃないと答えていたら?」
「あの時に教えていただろうな」
否定しなかったから、今まで隠し続けてきた。止湮が死ななければ、墨然はずっと隠し続けるつもりだったのか。
「あなたのことを本当に想っているなら、最初から教えていただろう」
墨然の顔には、まだ複雑な微笑みが残っていた。
「あいにく、俺はそういういい人じゃないんだ」
際允はその言葉を否定できなかった。
もし止湮なら、最初から全てを話し、完全な選択権を与えた上で決断させただろう。
止湮とはそういう人間だった。際允にとっての「いい人」の基準なのだから。
墨然は視線を逸らし、顔を背ける。
際允を凝視していたのが表情を観察するためだったのなら、今の動きはまるで、際允がどんな顔をしているかを見たくないと言っているようだった。
「俺は、これほど身勝手な人間なんだ」
淡々としたその口調には、僅かに震えているようにも、昂った感情を押し殺しているように聞こえた。
「だから、あなたにも身勝手にその能力を使ってほしいと思っている。あなた自身が幸せになれる道だけを考えればいい」
幸せ。
また、「幸せ」だ。
考えるまでもなく、彼は言う。
「止湮が幸せなら、それでいい」
止湮は、二度の人生の中で、初めての「家族」だったからだ。
唯一の、家族。
「そうか」
墨然が小さく呟いた。
そして再び際允に向き直ると、その黄金色の瞳が射抜くように注がれる。
「際允、俺を信じてくれるか?」
墨然はもう一度、同じ問いを繰り返した。
「止湮先輩があなたを守るために自殺したという俺の推測を。過去に戻って未来を変えられるという能力の話を。そして、過去へ戻るあなたを助けるという俺の言葉を……。信じてくれるか?」
信じるかどうか、ではない。
――信じたい。
「信じるよ」
墨然は、笑った。
【選択肢Ⅰ 抹消】
Fin.




