第一章54 知っておくべきこと
「墨然くん、本当に子供の面倒なんて見られるんですか? 私に任せたほうがいいのではないかしら? それともミレカー夫婦に頼んでみましょうか――。」
「先輩も、これ以上現場を離れているわけにはいかないでしょう。早く戻ったほうがいいんじゃないですか。あの子は自分が預かります」
「それはそう……。まあ、いいでしょう。もしあの子が何か話す気になったら、一刻も早く私に教えてください」
「わかりました」
朦朧とした意識の底で、二人のやり取りが聞こえた気がした。
「際允」
墨然に名を呼ばれ、ようやく感覚が身体へと戻ってきた。
思考能力を喪失し、感覚さえも麻痺していた空白の時間に、墨然は濡葉を帰らせたようで、室内に彼女の姿はなかった。
際允の正面、ソファに座り直した墨然は、ただ静かにこちらを凝視している。
「際允、君は俺を信じてくれるか?」
――信じる、とは何だろう。
「……わからない」
しばらくの間、墨然は黙ったまま彼を見つめ続けていた。
「止湮先輩は『帯契者』だったんだな?」
「……なぜ、それを知っている?」
「話せるときが来たら話す。今は重要じゃない」
問い詰めたい衝動が脳裏をかすめたが、今の際允にはそれを実行に移すだけの好奇心さえ残っていなかった。
「警察の先輩たちは、止湮先輩が殺害され、自殺に偽装されたと考えている。君の前世の時と同じようにな」
死者の家族を前にしても、あまりに過酷な真実を口にしても、墨然の口調は相変わらず淡々と、乾いていた。
「だが、君はそうは思っていないようだ」
「……わからない」
際允には、話の繋がりがまるで見えなかった。
墨然を信じるかどうか、止湮が帯契者であったか否か、そして止湮が本当に自殺したのかどうか。それらの断片に、一体どんな関連性があるというのか。
だが、もはやそれさえも重要ではなくなった。
何も、わからない。
信じるということが何なのか、わからない。
約束。
家族。
家。
幸せ。
喜び。
――何もかも、わからない。
知りたくもない。知ろうとすることに意味など一つもない。ただ思考を停止させ、問いから逃れ、目を覆い耳を塞ぎ唇を閉ざしてしまいたかった。
「俺個人も、止湮先輩は自殺だったと考えている」
肯定などしていないのに、墨然は当然のように「も」という言葉を重ねた。それに対して異を唱える気力さえ、際允にはなかった。
「だが、君が自分の中で結論を出す前に、一つだけ知っておくべきことがある」
「何を?」
「さっき濡葉先輩は君の気持ちに配慮したのか、あえて伏せていたようだがな。実は、止湮先輩は死の直前、実の両親と親子関係を復籍していただけじゃない」
墨然は非情なまでに明確に告げた。
「君との養子縁組も、解消していたんだ」
「……え?」
十二年前、止湮自身が経験したことの再演。
両親との親子関係を復籍させ、際允との縁組を断ち切った状態で亡くなれば、「火の契約」は百パーセントの確実性をもって両親へと相続される。
死の直前にこれほど完璧な手続きが成立していたのなら、それが偶然であるはずもなかった。
本人の意志に関わらず、これほど迅速に事務処理が進み、効力を持ったのは――火の契約、そして帯契者が絡んでいたからに他ならない。
「意味は、わかっていたんだろう?」
墨然の声には、感情の起伏というものがなかった。
「だから俺はまず、止湮先輩が生前、帯契者であったかを確認したんだ。彼が亡くなった今、契約上の家族は両親だけだ。だから火の契約も帯契者も、どちらか一方に相続されたことになる」
……それが、止湮の目的だったのか。
「どちらに相続されたか――そこまでは、俺にも知る術がない。だが、今はさほど重要なことじゃない。止湮先輩もそれを承知の上で自殺したんだろう。だから君は、帯契者を相続したのは止湮先輩の両親だと考えておけばいい」
両親に帯契者を相続させることが、目的だったというのか?
それが、際允との約束を守ることよりも、何よりも優先すべきことだったというのか?
「もし……止湮が死ぬ前に親子関係を復籍させず、僕との縁組も解消していなかったら、どうなっていた?」
なぜか、墨然ならその答えを、真実を知っている気がした。
そして事実、墨然は確信を持って答える。
「その場合は、仮に止湮先輩が今日同じく死んだら、君が火の契約を相続することになっていたはずだ。だが、君はまだ十二歳。火の教会の高層部のやり方なら、君が成人するのを待たずに、どこかの大人の養子に無理やり押し込んでから、君を殺す、だろうな。そうすれば、その養親が火の契約を難なく相続できるからな」
「……」
そんなこと、止湮が許すはずがなかった。
いかなる代償を払ってでも。
たとえ自らの命を供物に捧げようとも。
たとえ、際允との誓いを無惨に踏みにじることになったとしても。
それだけは。
際允が死ぬという結末だけは、決して――。
止湮なら。あの止湮なら、きっと迷うことなくその絶望的な道を選び取ったのだろう。




