第一章46 約束を信じてくれた君へ
「自殺なんかじゃない。絶対に」
際允がこれほどまでに冷徹、かつ断固として言い放つとは思わなかったのか、濡葉は一瞬、呆気に取られたように言葉を失った。
だが、やがて彼女の瞳に小さな希望の光が宿る。濡葉は縋るような笑みを浮かべ、際允を見つめる。
「よかった。あなたなら、何か知っているはずだと思っていたよ」
「え……?」
今度は際允が呆然とする番だった。
なぜ、自分が「何か知っている」と思われていたのか。
「私たちも、ミレカーくん……止湮くんの両親、ミレカー夫婦の反応が不自然だと感じているの。必ず裏があるはず。もし止湮くんが本当は殺されたのだとしたら、それを自殺に偽装する最大の容疑者は、あの二人なんだから」
高校時代からの知人とはいえ、親しい間柄ではなかったせいか、濡葉は未だに止湮を「ミレカーくん」と苗字で呼ぶ癖が抜けていないようだった。
「それに、もし推測通りあの二人が直接的、あるいは間接的に止湮くんを死に追いやったのだとしたら、近いうちに私たちは守秘契約への署名を強要されるはず。……だから今のうちに真実を伝えて、あなたの協力を仰ぎたいの。……本当に、ごめんなさい。具合も悪そうなのに、父親を失った直後、しかもこんなに幼いあなたに、こんな……」
「先輩、この子にあれを見せてやってください」
沈黙を守り続けていた墨然が、ようやく重い口を開いた。
濡葉は躊躇う素振りを見せたが、すぐに意を決したように再び際允へ向き直る。
「止湮くんの遺体から、遺書が見つかったの」
遺書?
――『君が残したとされる遺書や遺言など、何一つ見つからなかった』
脳裏に止湮の声が蘇る。
際允・ランニオンの自殺の件では、現場に遺書など一通も遺されてはいなかった。
同じミレカー夫婦による隠蔽工作だとしても、このような差が生じたというのか。それとも、手を下した犯人が異なっていたせいか。
濡葉はポケットからスマホを取り出し、画面を操作しながら説明を続ける。
「筆跡鑑定の結果はまだだけど、私たちはミレカー夫婦による偽造ではないと考えているの。おそらく止湮くんが実家に帰る前に書き上げて、服の中に隠していた。だからミレカー夫婦に見つからず、処分されずに済んだのかもしれない。これを見つけた時の夫婦の驚きようは、私たちには、とても演技とは思えなかったから……」
つまり、本当に止湮自身が遺したものである可能性が高い、ということだ。
前世の自分の時は遺されず、今回の止湮の時には遺された。この違いがあったのは、止湮が事前に用意し、物陰に隠したからなのか。
止湮は、最初から両親が自分を害そうとしていることを悟っていたのだろうか。実家へ向かう前に自らの死を予期し、真実を暴くための手がかりを、遺書という形で秘匿していたのか。
でも、実の息子を殺す指示を出すような冷酷な人間が、これほど致命的な綻びを見逃すとは、際允には想像しがたい。
たとえ止湮が遺したものであっても、実はミレカー夫婦は警察を呼ぶ前に既に気づき、何らかの意図を持ってあえて放置した可能性はないのか?
だとすれば、濡葉の言葉はどういうことだろう。火の教会の警察機関において、優秀とされる人々の目さえも欺くほどの演技だったというのか。
あの抜群の秀才たちに、微塵の疑念も抱かせないほどの?それはそれで、到底信じられる話ではない。
「問題は、その内容が誰にも理解できないことなのよ。ここ数年、あなたを除いて、誰よりも彼と接していた墨然くんにも。ミレカー夫婦も、知らないと」
内容が、理解できない?
鋭敏な頭脳を持つ墨然にさえ解けず。十数年も共に暮らした両親にさえも知らず。
なぜ止湮は、そのような遺書を遺したのだろうか。誰かに伝えたいことがミレカー夫婦に露見すれば、遺書ごと消されると踏んだからか。
しかし、それでは一体、誰がそれを解読できるというのだ。
「もしこれが止湮くんの最期のメッセージなのだとしたら――、その意味を解き明かすことこそが、真相究明と真犯人逮捕の鍵になるはず。だから、あなたを頼るしかないの」
専門家である警察も、家族であった両親も理解できない内容を、際允なら解けるかもしれない、というのか。
止湮は、際允にしかわからないメッセージを遺したというのか。
際允が約束の相手だから。世界で唯一、止湮が絶対に自殺などしないと確信できる人間だから。
濡葉が手を伸ばし、際允の前にスマホを差し出した。
「お願い。もし何か心当たりがあれば、教えて。どんなに地味で、細かいことでも構わない。何でもいいの」
際允は震える手を上げ、それを受け取った。
画面に映っているのは、一枚の写真。
白い紙が鮮明に写し出された。そこには、際允が見間違えるはずもない筆跡で、黒いインクの一行が記されていた。
二回の人生、合わせて九年の歳月を共にした際允には、一目でわかる。間違いなく、止湮の字だ。
『ごめん、約束を守れなかった』
……。
……。
――嘘つき。
結局、止湮はあの両親のために自殺を選んだのか。
止湮の心の中では、やはりあの両親の方が重要だったのか。
彼らこそが、血の繋がった「本当の家族」だったからなのか。
だから、際允との約束を違えてまで、あの両親のために死ぬことを選んだというのか。
――『君は、死んでも構わないような存在じゃない。君が死んだら、悲しみ、苦しむ人間がいるんだ』
――『僕は悲しい』
――『昨日から、僕らは家族になっている。家族を悲しませるようなことはしないでくれ。いいか?』
――『約束するよ、僕は自殺しない。そのかわり、君も自分の命を大切にしてくれ。』
――嘘つき。




