第一章52 世界中に、唯一知っている者
「止湮・ランニオンは、死んだ」
室内に残響などあるはずもないのに、その言葉だけが、幾度も、幾度も、際允の鼓動をなぞるように耳の奥で反響し続けた。
ただ、呆然と墨然を見返すことしかできない。脳内は空虚な空白に塗り潰され、思考という思考が完全に停止していた。
「さすがに直接的すぎますよ、墨然くん。加減というものがあるでしょう」
墨然に告げさせたことを後悔するように、濡葉が力なく、咎めるような声を上げた。
「あとは先輩から説明をお願いします」
覆いかぶさるように腰をかがめていた墨然が、身体を起こし、際允が沈み込んでいるソファーの傍らへと退いた。
彼という影が退いたことで、リビングの無機質な光が際允の視界に突き刺さる。上を向いたままだった彼は、反射的にまぶたを閉じ、深く項垂れた。
光がそんなに眩しかったわけではない。だが、瞳からは意志を裏切って涙が溢れ出し、際允は無意識のうちにその熱を指で拭った。
再び目を開けると、眼前に座る濡葉が、今にも壊れ物を扱うかのような痛々しい眼差しで自分を見つめている。
それでも、際允は何を口にすべきか判然とせず、ただ静かに彼女を見返すことしかできなかった。
濡葉は、傍らに黙然と佇む墨然に一度視線を走らせてから、再び際允と向き合う。
そして、語り始める。
「ミレカーくん――止湮くんの死亡推定時刻は、今日の午前八時から十時の間よ」
今日の、午前八時から十時。
その時、自分は墨然の住所の、このソファで眠りに落ちていた。
もしあの時、眠っていなかったら。もし、目を覚ましていたら。止湮はまだ――。
――ありえない。連絡さえ取れなかったのに、起きていたところで何ができたというんだ。
もう一つの自分が、脳内で冷酷な反論を突きつけてくる。
際允の精神は、今や真っ二つに引き裂かれていた。
感性の部分は完全に機能を停止し、止湮の死という現実を拒絶し続けている。
一方で、理性の部分だけが肉体から切り離されたかのように冷徹で、客観的だった。濡葉の言葉を記号として理解し、止湮が死んだという事実をデータとして処理していく。
正反対の二つの感覚が、脳内で激しく衝突し合っている。
「遺体は、自室で発見されたの。現場の状況から見て、そこが死亡現場であることに間違いはない」
「自室?」
際允はようやく言葉を絞り出し、困惑と驚愕を露わにした。
止湮は、あの家で死んだのか?
あの時、墨然について行かずに家に残っていれば、まだ生きていた彼に会えたのだろうか。そうしていれば、結末を変える機会があったのではないか――。
だが、理性が追いつくよりも早く、濡葉の次の一言が思考を断ち切った。
「ええ。遺体を発見して通報したのは、彼の実の両親なのよ」
「……あ?」
自室。
それは、自分たち二人が暮らしていたあの家の、あの部屋のことではない。
そうだ。前世も今世も孤児である際允とは違う。止湮には生まれた時から家族がいた。実家という帰るべき場所があり、そこにもう一つの自室があったのだ。止湮との部屋しか居場所がない自分とは、根本的に違っていたのだ。
――いや、今はそんな瑣末な感傷に浸っている場合じゃない。
理性が自分を叱咤した。
止湮は昨日、実家に帰っていたのか?
そして今朝、そこで殺された?
その後、実の親に発見され、通報されたのか?
だが、犯人は誰だ?あの止湮を殺せる人間など、この世にいるのか。そもそも、死因は何だ――。
「死因の初期判断は、首吊りによる自殺|――とのことよ」
「……」
ありえない。
信じられるはずがない。
止湮は自分と約束したのだ。六年前、あの時、際允と誓い合ったのだ。止湮は絶対に、自殺などしないと。
絶対に、ありえない。
「検死報告は出たのか?」
自分の声に、濡葉が息を呑んだ。驚愕したのは彼女だけではない。その徹底した冷静さに、際允自身も驚きを覚えた。
濡葉はすぐに表情を引き締め、遺憾の色を隠しきれずに告げる。
「解剖はされていないよ。そのまま火葬に回されたから」
「えっ……?」
なぜだ。どうしてそうなったのか。どうしてそんなことが許されるのか。
そんな道理が通っていいはずがない。それでは、止湮の本当の死因を究明する術が失われてしまうではないか。
法律上、止湮の唯一の家族である自分が同意していないのに。今世の自分がまだ未成年で署名ができないとしても、死の知らせすら届かないうちに荼毘に付されるなど、到底許されることではない――。
「家族の強い要望があったのよ。必要な許可書もすべて揃っていた」
「家族? でも、止湮の法律上の家族は、僕だけのはずだ――」
際允の言葉が、凍りついたように止まった。
その瞬間、彼は全てを悟ったのだ。
「止湮くんは死ぬ直前、実の両親との親子関係を復籍させていたの。両親側からの申し出によってね」
「……」
こみ上げるような吐き気が、喉元までせり上がる。
空っぽの胃からは、何も出るはずがないというのに。
際允・ランニオンの死と同じだ。
前世の自分は他人に殺され、死後にそれを自殺へと偽装され、そのまま闇に葬られた。あの事件において、最大の受益者であった止湮の両親こそが、黒幕の最有力候補だった。
今、それがまた繰り返されたのか。
彼らは自らの手で、あるいは他人の手を借りて止湮を殺し、自殺を偽装した。何らかの手段を用い、成人した止湮に死の直前、親子関係の復籍を承諾させた。そして、その「家族」という特権を利用して火葬の同意書に署名し、真実を永遠に灰へと変えようとしている。
かつて際允・ランニオンにしたことを、実の息子である止湮にさえ行ったというのか。
止湮が彼らの意に従わなかったどころか。
彼らが隠蔽しようとした際允・ランニオンの死の真相を執拗に追い続け、彼らにとっての脅威となったからか。
だから「役立たない」になったと切り捨てたのか。
利用価値がないのなら、死んでも構わない――とでも言うかのように。
十八年間、共に暮らした家族であっても。
……。
――もういい。
――今、自分に何ができるかを考えろ。
もし推測が事実なら、あの二人の目論見は明白だ。止湮の死を、かつての際允・ランニオンと同じ結末にすること。
火の教会の高層部に君臨する彼らなら、真実に繋がるすべての証拠を抹消する力がある。唯一の家族である彼らが「自殺」だと受け入れるなら、他人が口を挟む余地など残されない。真実は永遠に失われる。
だが、彼らは知らないのだ。
止湮は、際允と誓った。
自殺しない、と。
自分の命を、大切にする、と。
そう、固く約束したのだ。
今、この世界でその事実を知っているのは、自分だけだ。
止湮が絶対に自殺などしないと確信できるのは、際允だけなのだ。
止湮は自分と、あの約束を交わしたのだから。
――『君が言ってた通り、火の教会は——君が孤児だから、他殺の事実を隠蔽しても、殺人犯を庇っても構わないと考えているんだろう。誰も君の死を気に留めず、追及もしないかもしれないが――、』
――『俺はする』
――僕も、する。




