第一章51 黄昏、静寂の中で伝える
「適当に座ればいい」
そのマンションの三階には、五つの部屋があった。そのうちの一つが墨然の「住所」だ。広さは十坪ほどだろうか。独身男性の一人暮らしには妥当なサイズと言える。
そこは、墨然自身が言った通り、ただ食事を摂り、眠るだけのためにしつらえられた場所に見えた。私物らしきものはほとんど見当たらず、家具も家電も最低限のものしか置かれていない。
リビングと思しき空間には、向かい合わせに配置された二人掛けのソファが二つと、その間に置かれたリビングテーブルが一つあるだけだ。
六年前、今世の際允が止湮に引き取られ、初めてあの家を訪れた時のことを思い出す。もともと、止湮も私物はかなり少ない方だった。
だが、際允との同居が始まってからは家具も思い出も少しずつ増えていき、今や温かな生活感の漂う「家」と化している。
墨然の場合はさらにあれ以上だ。私生活という概念そのものが欠落しているのではないかと錯覚するほど、この空間は極端に空虚で。
際允の知る限り、これに匹敵するほどの無機質さを保てるのは、前世の自分くらいのものだろう。
墨然の言葉に甘え、際允はソファの一つに深く身を沈めた。墨然はキッチンから水の入ったグラスを二つ携えて戻り、そのうちの一つを彼に差し出す。
「ありがとう」
礼を言って受け取り、数口ほど水を啜る。乾ききっていた喉がようやく潤いを取り戻すと、際允はグラスをテーブルに置いた。
正面のソファに座った墨然も、同じように水を飲んでからグラスを置いた。
「昨日の夜、何か食べたか?」
眉をひそめて、墨然が問いかけた。際允の様子が、よほど酷く見えたのだろう。
「食べてない。食欲がなくて」
嘘をつくつもりもなく、事実だけを伝えた。
墨然は小さくため息をつく。
「ここには食材も備蓄もない。聞いても意味はなかったか」
今から外へ食料を買いに行くという選択肢は、今の墨然の中にはないようだった。際允自身もそれを望んではいないが、もしそれが「墨然くんもここから動かない」ということを意味するのだとしたら――。
……止湮は、どうなる……。
これほどまでに、この無力で脆弱な子供の身体を呪わしく思ったことはなかった。
「君の安全を確保したら止湮先輩を捜しに行く、と約束したが……ここがそれほど安全だとは思えない。今は離れるわけにはいかない」
彼の考えを見透かしたように、墨然はどこかやりきれない表情を浮かべた。
「そうか……」
本来なら、助けてくれた彼に対して「気にしないで」と返すのが礼儀なのだろう。だが、今の際允には、心にもない気休めを口にする余力は残されていなかった。
柔らかなソファに身を預け、適度な明るさに保たれた室内で、際允の心身は無意識のうちに弛緩していく。もともと体力など残っておらず、ただ意志の力だけで無理やり身体を引きずってきたのだ。
張り詰めていた糸が切れたかのように、猛烈な眠気と疲労が押し寄せてくる。もはや、落胆するだけの気力さえ、闇に呑み込まれていった。
「信頼できる同僚の数人に、止湮先輩の情報がないか注意するよう頼んである。何かあればすぐに連絡が入るはずだ」
「……ありがとう」
かろうじて、それだけを絞り出した。
「疲れたなら少し眠れ。知らせが入ったら起こしてやる」
重いまぶたを閉じながら、際允の意識の端で思い出した。
昨夜の九時からずっと、墨然は際允の頼みで止湮を捜し続けていたのだ。ここから決して近いと言えない聖堂まで足を運んだ。
この数時間、際允だけでなく、墨然も一睡もしていないはず、ということを。
そして、その後、際允の危急を知って彼らの家まで走り、彼を守るために階段を駆け上がってきた。
いくら体力が抜きん出た大人とはいえ、これほど激しく身体を酷使して、疲れを感じないわけがない、ということも。
「墨然くんは?」
「際允が寝てる間、情報を精査しておく」
眠っている間に止湮の状況がわからなくなることを、際允が案じているのだと墨然は勘違いしたようだった。
完全に意識を手放す寸前、際允は彼にもう一度、礼を言ったような気がした。
誰かの話し声が、聞こえる。
軽い耳鳴りのせいで、輪郭ははっきりとしない。だが、少し離れた場所で、話し手が意図的に声を潜めていることだけはわかった。
会話の内容までは聞き取れないが、声は二人分。一人は墨然で、もう一人は、なぜか聞き覚えのある、女性の声だった。
――誰だ?
ゆっくりと目を開ける。数秒間、焦点の合わない視界で周囲を眺め、ようやく自分が墨然の住所に来てソファで眠ってしまったことを思い出した。
飲みかけのグラスが、目の前のテーブルに置かれている。身体には柔らかな黄色の毛布が掛けられている。墨然が掛けてくれたのだろう。
起き上がろうと身を捩ったが、全身が鉛のように重く、指先ひとつ思うように動かない。
仕方なく、ソファの肘掛けを支えにして身体を捻り、声のする方へ視線を向けた。
墨然は玄関に立っている。開いたドアのノブを片手で掴んだまま、外にいる誰かと対話している。
そこに立っているのは、三十歳前後の女性だった。墨然と同じ、火の教会の警察機関の制服を身に纏っている。栗色の長い髪を後ろで一つに結び、黒い瞳を伏せたまま手元のスマホを見つめ、深刻な表情で墨然に何かを伝えていた。
その顔を見て、際允は強烈な既視感と違和感を同時に覚えた。空腹のせいか、脳がうまく回らない。しばらくして、ようやくその女性の正体に辿り着いた。
濡葉・フレーモ。
際允の前世における、高校時代の同級生だ。
三年間、一度も同じクラスになったことはなく、顔を合わせたのも数回程度の仲。だが、際允の中では「止湮に近い性質を持つ人物」として記憶に刻まれていた。万年学級委員長で成績優秀、それでいて人望も厚い。
そんな模範的な優等生だった彼女が、大学卒業の後に警察機関に入ったことに、大して驚きはなかった。墨然が言う「信頼できる同僚」が彼女なら、これ以上納得のいく話もない。
では、濡葉がこれほど険しい表情で墨然と話しているのは、止湮に関する情報が入ったからなのだろうか。
ポケットからスマホを取り出し、際允は時間を確認する。現在時刻は午後六時を過ぎていた。
このソファで半日以上も眠り続けていたことになる。全身の筋肉が強張り、鈍い痛みが走るのも当然だった。
丸一日以上、水以外に何も口にしていない身体は衰弱しきっており、低血糖による眩暈と、絶え間ない軽い耳鳴りが、「このまま死ぬのではないか」という錯覚を抱かせる。
――死ぬなら、せめて止湮の無事を確認してからにしてくれ……
あまりに脆弱な十二歳の身体に、ため息しか出なかった。
通知を確認したが、新しいメッセージも着信もない。際允は残っていた水を少しずつ飲んで、乾いた喉を湿らせ、空となったグラスをテーブルの上に戻した。
今は、何をするにも今は力がない。際允はただ座ったまま、玄関先での会話が終わるのを待っていた。
やがて、二人の足音が近づいてくる。墨然が濡葉を室内へ招き入れ、リビングまで案内した。際允の正面の席に、濡葉が腰を下ろす。
墨然は座らず、際允の隣で立ち止まった。肘掛けに手を突き、覆いかぶさるように腰をかがめ、上から際允を観察する。
「起きたか」
短くそう言った墨然が、頭がリビングの照明を遮って、顔が深い影に覆われている。その表情を読み取ることはできない。
「……うん」
際允はなんとか声を絞り出した。
「墨然くん、この子、ひどく衰弱しているように見えるんですが。まずは病院へ連れて行くべきでは?」
濡葉の、記憶にある通りの柔らかな声がした。
だが、墨然は腰をかがめたまま、際允から視線を逸らさない。
「もう少し待ってください」
濡葉に一瞥もくれず、墨然が答えた。
「でも……」
「先輩には言いづらいのなら、言わせていただきます」
濡葉の言葉を遮った墨然の声音は、いつもと変わらず、淡々としていた。
顔は見えなくとも、今の墨然が恐ろしいほど冷徹に落ち着き払っていることが、際允には手に取るようにわかった。
だが、その静寂は、いつものものとは決定的に違っていた。
それは、あらゆる感情を呑み込み、光さえ通さないブラックホールのような――死そのものを連想させる、静寂。
小さく、深く息を吸い込み、墨然が再び唇を開いた。
一語一句、逃さぬように。あえて速度を落とし、宣告する。
「止湮・ランニオンは、死んだ」
【??まで、01:××:××】




