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第一章50 闇に溶ける横顔

 もし、いつか止湮としずとの家が安全でなくなったとしたら。その時はもはや、この世界のどこにも安心でいられる地など存在しない。

 際允あいゆるは心の底からそう信じている。これほど理屈に合わない確信がどこから湧いてくるのか、自分でも測りかねてはいたが。


「うちに来るか?」

 だから、墨然すみしかにそう問われた時、際允あいゆるは一切の躊躇もなく頷いた。

「ああ」




 今世で初めて止湮としずと再会した、あの日のことを今でもはっきりと覚えている。あの時、止湮としずはまず礼儀正しく手を差し伸べ、こちらの意思を確かめてから、際允あいゆるの手を握ってくれた。

 状況がまるで違うとはいえ、あるいは子供に対する寛容さや愛情の差なのだろうか。今の墨然すみしかは、問答無用で際允あいゆるの手首を掴み、そのまま引いていく。

 時折、歩みの遅い子供を案じているのか、あるいはいっそのこと担いで運ぼうかとでも言いたげな視線を向けてくる。

 ――ただの足手まといな十二歳で悪かったな。

 際允あいゆるは内心で苦々しく毒づいた。


 数分前の通話で墨然すみしかが言っていた通り、彼はここへ来る前に聖堂に立ち寄っていたらしく、車を聖堂の隣の駐車場に停めてあった。

 墨然すみしかは助手席のドアの前まで連れて行くと、扉を開けて際允あいゆるを促した。それに従い助手席に座腰を下ろすと、際允あいゆるは自らシートベルトを締める。

 墨然すみしかもすぐに運転席に乗り込み、シートベルトを締めながら際允あいゆるの様子を確認してから、車を発進させて教会を後にした。


「聞かないのか?」

 墨然すみしかの声が、静まり返った車内に響いた。

 窓の外を眺めていた際允あいゆるが視線を向ける。墨然すみしかは前方を見据えたままハンドルを握っていた。その表情は相変わらず、顔面神経が死んでいるのではないかと疑いたくなるほど、完璧な無表情だった。

「何を?」

 理解できず、聞き返した。この一晩の出来事で、際允あいゆるの思考リソースは既に限界に近い。墨然すみしかと謎解き遊びに興ずる余裕など、欠片も残っていなかった。


「なぜ俺が、君の正体が際允あいゆるだと知っているのか、といったことだ」

「今はそれを聞く時じゃない気がする。それに、あまり興味もない」

 際允あいゆるは正直に答えた。

 どうせ止湮としずが心配していた通り、前世に似てきた容姿のせいで気づいた、という程度の理由だろう。


 たとえそうでなかったとしても、どうでもいい。

 これまで止湮としず以外の人間に隠し続けてきたのは、ただ危険と面倒を避けるためであって、知られること自体をそれほど危惧しているわけではない。

 目暁まさと際允あいゆるの転生であると墨然すみしかに知られたところで、「バレたなら仕方ない」――抱いたのは、その程度の淡い感想しかなかった。

 結局のところ、墨然すみしかがそれを知っていたとしても、彼らがそれほど親しい間柄ではないという事実は変わらない。墨然すみしかが自分をどう思っているのかについても、依然として関心を持てずにいる。


 なぜ彼が正体を知っているのかということよりも、聞きたいことは他にいくらでもある。たとえば――、

 なぜ先ほど玄関の前で、自分にドアを開けさせたのか。

 「今度はやっと、間に合った」という話はどういう意味なのか。

 なぜ彼は、止湮としずに対してのように「先輩」をつけずに、「際允あいゆる」と呼び捨てにするのか?

 ……。

 だが、止湮としずの行方が変わらず不明なままの今、そんなことを聞き出す気力すら失われていた。


 冷酷すぎると譴責されても、返す言葉もない。際允あいゆる自身でもそう思ってしまうほど薄情な態度に対し、墨然すみしかはただ一言、

「そうか」

 とだけ呟いた。


 助手席からの角度では、墨然すみしかの横顔しか見えない。深夜の車内は照明もなく、ひどく暗かった。

 それでも、変化ひとつ見出せないはずの表情の奥に、微かな寂しさが滲んでいるのを、際允あいゆるは感じ取ってしまう。

 疲れすぎて幻覚でも見てしまったのではないか、と己を疑った。あるいは、視覚で「見た」のではなく、墨然すみしかの感情を直接感知できるような、第六感じみたものが芽生えてきたのかもしれない。

 際允あいゆるが実は野生動物並みの視力を手に入れていて、暗闇の中で微細な表情変化を捉えたのだ……という説よりは、まだ信憑性がある気がした。


墨然すみしかくんの家は、この近くにあるのか?」

 一応、場を繋ぐように問いかけた。

「まあな。先輩たちの家からは車で十分ほどの距離だ。今の交通量なら、もっと早く着くだろう」

 墨然すみしかは淡々と返した。

「そうか」

 少し沈黙の後、墨然すみしかは言葉を継いだ。

「『家』というより、ただの『住所』と言った方が適切かもしれんが。そこにいる間は、ただ飯食って、寝るだけだ」


 その言葉は、墨然すみしかにとって「家」という概念に明確な定義があることを示唆していた。

 たとえば特定の場所にある特定の建物、あるいは、特定の人物がいる場所だけが、彼にとって「家」と呼べるものなのだろう。

 際允あいゆるが、止湮としずと暮らすあの部屋を「家」と定義しているのと、同じように。


 その後、車内という密室での短い間、二人が言葉を交わすことはなかった。

 車のエンジン音と、タイヤがアスファルトを噛む音だけが、静かな夜に響いていた。

 深夜三時を過ぎた路上には、人影も車影もほとんどなく、道は空いていた。発進してから十分も経たないうちに、あるマンションに隣接する駐車場へと辿り着き、墨然すみしかは車を停めた。

「着いたぞ」

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