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第一章42 扉を開き、君に会う

 その時、




 別の、もう一人分の足音が聞こえる。




 男がドアを開けようとしていた動作が、何者かによって遮られた。


「誰だ――うっ!」


 見知らぬ男の言葉は、短く無様な悲鳴へと変わった。

 次いで聞こえてきたのは、誰かが重い荷物をそっと地面に置いた時を思わせる、ごく小さな響き。聴覚を研ぎ澄ませている、今の際允あいゆるにしか届かないほど。


 僅かな間、音という音が消失した。室内も外も、完全な静寂に塗り潰される。

 ただ、自分の狂おしいほどの心音だけが、耳の奥を執拗に叩き続けていた。

 自分が安全な圏内にいるのかさえ判然としないまま。深く息を吸い、吐き出し、鼓動を無理やり鎮めながら、際允あいゆるはドアの外の動静に神経を注いだ。


 どれほどの時間が経っただろうか。ようやく、静寂が破られる。


「目暁くん、聞こえるか?」


 その声は、ポケットの中で繋がったままのスマホからも、ドアの向こう側からも、同時に届いた。


――墨然すみしかくんだ。


 墨然すみしかが、あの男の侵入を阻止したのか? 倒して、気絶させたというのか。


「……うん」


 際允あいゆるはスマホを耳に押し当て、墨然すみしかにまだ微かに震える声で短く応えた


「声が弱っている。……無事か?」

「大丈夫」

「奴を気絶させた。もう安全だ。……少なくとも、数分ぐらいはな」


 少し間を置いて、墨然すみしかは付け加えた。


「ありがとう」


()()()()()()くれてもいいか?」


「え? なんで?」


 予期せぬ請いに対し、際允あいゆるは戸惑いを隠せなかった。


 ドアは先ほど、あの男の手によって解錠された。直接押し開ければ入れるはずなのに、なぜわざわざ自分に開けさせるのか。

 不審者を無力化し、音もなく横たえることができる男。何かに不自由しているわけでも、両手が塞がっているわけでもあるまい。


 単なる礼節のつもりだろうか。こんな異常な状況で、彼はそれを通そうというのか。墨然すみしかという男は、それほどまでに生真面目な男だったのか。


「君に、開けてほしいんだ」


 墨然すみしかは、納得のいく説明を拒んだ。ただ静かに、願うように繰り返した。


「わかった」


 もう問い詰める気力さえ枯れ果てていた際允あいゆるは、力なく承諾した。

 力の入らない身体。麻痺したような手足を叱咤し、玄関へと向かう。


 本当に、もう欠片ほどの余力も残っていなかった。

 壁を支えにし、言うことを聞かなくなった疲弊しきった身体を引きずり、際允あいゆるはようやくドアの前に辿り着く。


 音を殺す余裕などもなかった。墨然すみしかも、自分が移動してきたことには気づいていただろう。

 ドア一枚隔てた先に立っていることを、知っているはず。


 際允あいゆるは、目の前にあるドアノブを凝視する。

 ただ手を伸ばし、ノブを掴んみ、解錠されたドアを引き寄せる。――それだけのことなのに。


 なのに。

 なぜ、身体が動かないのか。なぜ指先ひとつ動かないのか。


 突如、まるで腹部に激痛が走ったかのように。

 それは数時間前から感じていた空腹の痛みとは、決定的に質の異なるものだった。

 鋭利な刃物で貫かれたような、()()激痛。


 器は別物であっても、十二年前、別の玄関で扉を開いた後に迎えた「激痛を伴う死」の記憶が、今になってあまりにも鮮明な色彩を持って蘇る。


 頭が割れるように痛む。心臓が爆ぜるように跳ねる。胸が締め付けられるとうに苦しむ。

 血の気が引く。力が抜ける。息が切れる。

 眩暈が視界を遮断する。耳鳴りが聴覚を支配する。


 全身の細胞が叫んでいる。ドアを開ける動作を拒絶している。際允あいゆるは無意識のうちに、一歩後ずさった。

 玄関から、痛みの記憶から、死を呼び起こすこの場所から、遠ざかる。


目暁まさとくん、()()()()()


 後ずさる足音を察したかのように、墨然すみしかが再び声を放った。


「君を傷つけるものなど、ここには一つもない。……扉を開いてくれ、いいか?」


 初めて聞いた、これほど優しい墨然すみしかの声。

 幻聴かと疑うほどに柔らかなその響きには、微かな苦しみの色が混じっているように際允あいゆるには感じ取れた。


――なぜだ?

――なぜ墨然すみしかくんは自分で開けないんだ? なぜ、僕が拒んでいることに、墨然すみしかくんがまるで()()()()()()ように?


 理解できなかった。疲労の極まりと全身の拒絶反応の中で、これ以上思考を巡らせる余地などない。

 際允あいゆるはさらにもう一歩、下がろうとした。


 墨然すみしかが深く息を吸った。そして、覚悟を決めたように、打ち明ける。




()()()()()際允あいゆる






 我に返った時、際允あいゆるは、既に扉を開いていた。

 墨然すみしかが、目の前に立っている。


 あの見知らぬ男がその足元に横たわっており、墨然すみしか自身は無疵のようだった。

 墨然すみしかは俯き、通話を切り、そしてスマホをポケットに仕舞う。その無駄のない動きは、際允あいゆるの予想通り、自力でドアを開ける力が十分備わっていたことを示していた。


墨然すみしかくん、なぜ――」


 際允あいゆるの言葉が途切れた。

 顔を上げた墨然すみしかの、その表情に目を奪われたからだ。


 それは、今にも笑い出しそうでもあり、今にも泣き崩れそうでもある表情。

 相反する二つの感情が同時に現れたことで、歪み、ひきつっている墨然すみしかの顔。そんな顔を、際允あいゆるは一度も見たことがなかった。

 墨然すみしかの顔に、これほどまでにむき出しで、豊かな感情が浮かんでいるのを見たのも、初めて。


 なぜか、ただその顔を見つめているだけで、際允あいゆるは首を絞められているかのように呼吸が苦しくなり、言葉を失う。


 やがて、墨然すみしかの口角がゆっくりと持ち上がる。




()()はやっと、間に合った」




 それは、誰の目にも明らかな――歓喜に震える、笑みだった。

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