第一章41 慰めになる死に方
革靴の足音。
止湮ではない、という確信がある。
帰宅した際、玄関にある靴の中で唯一、際允が見当たらなかったのはスニーカーだった。止湮は今日、それを履いて出かけたはず。
墨然との電話の状況からして、彼はまだエレベーターにさえ乗っていない。
だとするならば、今この五階の廊下に響いてるその足音は、墨然のものでもない。
そして、その響きは――数分前、この家の前に現れたあの男の足音と、全く同じだった。
足音は、際允のすぐ近くまで迫っている。一歩、また一歩と、徐々に鮮明になっていく。
あの男が、この家に近づいている。
「どうした? 何かあった?」
スマホ越しに、明らかな焦燥を帯びた墨然の声。
「誰か来た……」
無理やり冷静さを手繰り寄せようと、深く息を吸い込んで、そして吐き出した。
「たぶんさっきの男だ。足音が、さっきと同じなんだ」
際允は、努めて冷静に答えた。
「今すぐ行く」
墨然が応じるのと同時に、電話の向こうで判別のつかない雑音が響く。
おそらくエレベーターを待たず、墨然が階段を駆け上がってきているのだろう。
気のせいか、墨然の声は当事者である際允よりも緊張しているように聞こえた。
あるいは――自分が、少し冷静になりすぎているのだろうか。
一晩中神経を尖らせていたせいで、感覚そのものが麻痺し始めているのかもしれない。
さて、どうすべきか。
際允はリビングを見渡し、最後に一番奥のベランダに視線を定めると、迷いなくそこへと歩み寄る。
掃き出し窓の鍵を解き、窓を開け、夜のベランダへと踏み出した。
あの男が玄関の外の廊下にいる今、逃げ道はここしかない。
両足を包むのは薄いニーソックスだけ。
夏の深夜、一晩中涼風に浸かっていたバルコニーのタイル。
踏みしめると、その冷たい感触に思わず身震いした。
際允はベランダの隅へと向かい、脱出経路を探した。
そこで、この建物の防犯対策があまりに完璧であることを思い知らされる。
それと同時に、どろりとした絶望が這い上がってきた。
上り下りに使えそうな外壁の露出配管も、一時的な足場になる屋根さえも、ここにはほとんど存在しないのだ。
その上、今の自分は鍛えられていない十二歳の子供の身体。加えて、疲労と空腹が重くのしかかっている。
あの男に家に踏み込まれた場合、結果は未知数であり、同じく命の危険に晒される可能性は十分にある。
しかし、ベランダから逃げるのは、確実に「死」に直結するだろう。
どのみち死ぬのだとしたら、止湮は――彼が火の教会に捕らえられて殺される方を望むのだろうか。
それとも、このような自殺同然の逃げ方を試みて死んだと知る方が、ほんの少しでも慰めになるのだろうか。
男が押し入り、たとえ自分が死なずに済んだとしても、それがどうしたというのか。
もし、自分が火の教会に自由を奪われるのなら。
もし、自分が人質となり、止湮に不本意な選択を強いることになるのなら。
もし自分が、止湮の足枷になるのなら……。
――そんなことになるくらいなら、死んだ方がマシだ。
チャリ、チャリ。
玄関の方から金属の擦れ合う音がする。
鍵だ。
墨然の予想通り、男は管理事務室から予備の鍵を借りてきたようだ。
――じゃあ、ベランダから逃げるのか。
ベランダの手すりを掴む。それは今世で十二歳の自分の顎ほどの高さ。そこから、際允は暗い下を見下ろした。
その時、
――「約束するよ、僕は自殺しない。そのかわり、君も自分の命を大切にしてくれ。」
六年前のあの日、約束を交わした時。
止湮の言葉が、脳裏に鮮烈に響いた。
……。
「――ちっ」
手すりを掴んでいた手を離す。
両足から力が抜け、際允はベランダの隅に座り込むしかなかった。
止湮のしている真相調査だって自殺行為に等しいというのに、なぜ今に至ってもなお、自分は約束を守ろうとしているのだろうか。
馬鹿正直に。
自分自身でも、理解のできないことだった。
――なんのために? どんな意味があるっていうんだよ。
カチャッ。
玄関の鍵穴に、鍵が差し込まれる音がする。
けれど、こうして自力救済を諦めて座り込んでいるのも、自殺まがいの逃走と大差ないのではないか。
自嘲気味にそう思った。
それでも、たった一つだけ、知りたいことがあった。
止湮なら今この瞬間、自分にどんな選択をしてほしいと願うのだろうか。
――今度会った時に、止湮の考えを聞いてみようか。
――あーあ、でもそんな質問をしたら、止湮はまた、あの悲しそうな顔をするんだろうな。
もう二度と、あの顔は見たくない。もし自分のせいでそんな顔をさせてしまったら、永劫に自分を許せそうにない。
そう思うと、心の中でため息が漏れる。やはり、聞くのはやめておこう。
本当に見たいのは……。
——やはり、笑顔だけだ。
際允をきっかけに笑みをこぼしてくれるなら、これ以上嬉しいことはない。
そう。嬉しいんだ。
また止湮と会えて、本当によかった。
それでも、まだ足りない。
また止湮に会いたい。これからも、毎日会いたい。一緒にいたい。
止湮が生きていて、無事でいてくれさえすれば……。
また止湮と話し合いたい。リビングのソファーに並んで座り、お揃いのマグカップを手に。
もう一度、あの声を聞きたい。仕事への文句でも、他愛もない世間話でも、自分に甘えるような言葉でも。
——止湮に言ったことはなかったけど。実は、本当は、仕事から帰ってきてドアを開けた彼を玄関まで迎えに行って、『おかえり、お疲れ様』と言ってあげる時。
――そんな時、止湮が僕だけに向けてくれる、その優しさと嬉しさに満ちた笑顔。
――それこそが、ずっと大切にしていたい、かけがえのない宝物なんだ。
だから、もしまた会えるなら、もっと楽しい話をしよう。止湮が喜ぶこととは何なのだろうか。
――そうだ、僕が生きていること、だったはず。
――もし、また会えるなら……。
鍵が回る音。
そして、錠が外れる音が、弾丸のように耳の奥を貫いた。




