第一章40 その言葉に怒る者
この六年間、止湮が墨然を家に招く時と同じように、一階の保全室から来客確認の連絡がインターホン越しに届く。
際允は迷わず、解錠の同意を告げた。
その後、繋ぎっぱなしの電話越しに、墨然が一階のロビーのドアを開ける音が聞こえてきた。おそらく、これからエレベーターホールへと足を進めているだろう。
「すぐに来るとは言ってたけど、早すぎないか? まだ三分しか経ってないぞ」
墨然が通話を切るなと命じたので、際允は受話器に向かって疑問を投げかけた。
親しいようでいて、その実、どこか遠い存在。そんな墨然が相手であっても、この張り詰めた夜に誰かと会話ができるだけで、神経はいくらか和らいでいく。
「さっきまで聖堂にいた。今はもう出ているが、まだこの近くにいるからな」
墨然の声は、相変わらず淡々としている。
「え? まさか、歩いてきたのか? いや、走ってきたのか?」
「ああ。俺なら走った方が早いと思うので」
墨然の口から出ると、それが自慢なのか単なる事実の報告なのか、判断に窮する。
つまり、さっきまでの三分間の静寂は、墨然は彼らの家へと走って向かっていた時間だったということか。
たとえスマホを手に持っていたから際允が気づかなかったのだとしても、走り終えたばかりで自分と話している今、墨然の声からは明らかな息切れすら聞こえてこない。
――こいつ、一体どんな体力をしているんだ? 超人か?
さすがは墨然、と言うべきか。
根拠はないが、止湮にも同じことができそうな気がしてはいたけれど。
「聖堂に行って、何かわかったことある?」
何も収穫がなかったからこそ、墨然が最初に言及しなかったのだろう。そう理解しつつも、際允は確認せずにはいられなかった。
「何も。俺が聖堂に着いた時には、もう誰もいなかった」
――やはり、か……。
「そっちの安全を確保したら、また止湮先輩を捜しに行く」
際允の落胆を察したのか、墨然の声は彼なりに、極めて微かな優しさが混じっていた。
「ありがとう」
際允もそれに応じる。
「でも、なぜ今来なきゃいけないんだ? あの男がまた戻ってくるとは限らないんだし」
「おそらく、奴は管理事務室に鍵を借りに行ったんだろ。火の教会の人なら、教会の指示で来た可能性もある。その場合、管理員から鍵を借りるのは難しくないはずだ」
もしその仮説が正しいのだとするなら、止湮の身体の自由は現在、火の教会に掌握されている、ということになる。
その可能性に、墨然が気づいていないはずがない。そんなことくらい際允ははっきりとわかっている。
それでも墨然があえてその点には触れなかったのは、際允を気遣っているからだろうか。
「事件を追っていることが、教会にバレてしまったのか?」
もし本当に、際允・ランニオンの死の真相を探っていることが露見して、止湮が拘束されているのだとしたら――。
家に人を寄越したのは、証拠探しのためだけではない。
止湮の唯一の家族である際允をも束縛し、止湮を脅迫するための人質にする。そんな最悪のシナリオさえも考えられる。
墨然もそれを察したからこそ、これほどまでに際允の身を案じているのか。
「そうかもしれないな。だが、たとえそうだとしても、今はそこを気にすべきじゃない」
まるで、日常の延長線上にあるかのように、淡々としたまま。
まるで、止湮の安全なんかどうでもいい、とでも言っているように。
「君に危険が及ぶ可能性がある以上、そっちに行く必要がある」
「……」
「もちろん、俺の推測に過ぎない。実際は全く関係ない、別の事情があるのかもしれない。なにしろ、今のところ君が言ったような人物は見当たらない。もう立ち去ったのかもしれない」
今の言葉が墨然の取り越し苦労などではなく、極めて合理的な推測であることを際允は知っている。
だが、際允にとって何よりも重要なのは、止湮を見つけ出し、その無事を確認すること。
――自分の命よりも、ずっと。
寒気が手足の先から、じわじわと全身へ侵食していく。際允は抗えられず、再び力なく座り込んでしまった。
「だから、最初から止湮があんなことをするのに、反対だった……」
――自分の命を大切にすると約束したのに、自ら危険に身を投じるなんて、そんなの、約束を破ったことに等しいんじゃないのか?
「あんな事件のために……」
止湮に二度と会えないかもしれない――。その絶望に蝕まれ、彼はついに心の内を零した。
電話の向こうから、墨然のため息が聞こえた。
「その言葉、止湮先輩の前で言えるか?」
墨然は、低く問いかけた。
「……」
言えるはずがない。相手が止湮ではないからこそ、口にできたのだ。
「なら、なぜ俺になら言っていいと思ってるんだ?」
墨然は際允の無言から、その考えを見透かしたようだ。
際允は一瞬、呆然とした。
――もしかして、墨然くん、怒っているのか?
墨然が激昂する姿も、怒りを含んだ声も聞いたことがない際允。正確な判断はつかないが、胸にはそんな疑念が浮かんでしまった。
だが、墨然が怒る理由などどこにもないはずだ。
墨然は前世の際允とは大して親しくもなかった。その事件が、彼にとって一体何の重要性を持つというのだろうか。
なぜ止湮の前では言えないのか?
――当然、止湮は目暁が僕の転生であることを知っているからだ。
事件の当事者であり、死者であった自分のために、これほどの危険を冒して、力を尽くしてくれている人間を前にして、その想いを踏みにじるように残酷な言葉を吐けるはずがない。
最初は止湮にやめさせるために、あえて「価値のない」と突き放したけれど。あれから、ずっと「しなくていい、気にしない」と強調してきたのもその理由で。
なぜ墨然になら言っていいと思ったのか?
――当然、止湮とは違って、墨然は知らないのだから――。
……。
……え?
――ちょっと待って。
「墨然くん、まさか君は――」
コツ、コツ、コツ――
足音が、彼の言葉を無慈悲に遮った。




