第一章39 優先順位の焦燥
際允は呼吸を詰め、全神経を聴覚に集中させる。
鍵を取り出し、解錠しようとする微かな金属音がしないか、耳の奥が痛くなるほど注意深く探った。
静まり返った闇と極限の重圧の中、彼の聴力はかつてないほど鋭敏に研ぎ澄まされていた。
外の人物から、何らかの布を擦り合わせたような僅かな音。
職員証を仕舞ったのだろうか。あるいは、別の何かを取り出そうとしているのだろうか。
――それは、鍵か?
しかし、しばらく待っても、耳に届くのは自分の早鐘打つ心臓の音ばかりだった。
外の者は、鍵を持っていないのかもしれない。
微かな安堵が際允の胸をかすめ、ようやく呼吸なリズムを取り戻した。
鍵がなく、強行突破の意志もないのであれば、少なくとも一時的には際允は安全だ。
その安全が数日持つのか、数時間か、あるいはたった数分に過ぎないのかは、誰にも断言できないことだけれど。
スマホを手に取る。先ほどの通話は、誰も出ないまま自動的に切断されていた。
座っていた身体を支えて起きようとしたが、疲弊しきった身体は、本人の意志を無視して緊張と恐怖に震え続けている。
何度か深呼吸を繰り返し、震える足元を宥めるように安定させると、際允は身体を引きずるようにして、玄関へと向かう。
今、この家にいる唯一の人として、ドアスコープから来訪者が誰か、どんな特徴をしているかを確認する義務があると感じる。
そうすれば、止湮が帰ってきた時に、際允はこの夜に起きたことを詳しく、正確に彼に説明できるからだ。
音を立てないよう細心の注意を払ってドアの前に立ち、背伸びをし、右目をドアスコープに押し当てた。
まるで、十二年前――前世の自分が殺されたあの日と同じように。
一瞬、そんな考えが脳裏をよぎったが、思考を巡らせる暇もなく、視界が捉えた外の光景に意識を奪われた。
幸いなことに、この建物の廊下は深夜でも数箇所の灯りが点いている。その薄明かりだけでも、ドアの外に立つ者の姿を捉えるには十分な光量。
そこにいるのは、一人の見知らぬ男。
男は俯いてスマホを眺めており、際允の位置からはその黒い短髪しか見えなかった。
そのスマホの外見と色から、男が見ているのは止湮のものではないと確信できた。
だが、そんなことは些細な問題に過ぎない。重要なのは――その男が火の教会の職員制服を纏っていることだった。
なぜ火の教会の人間がこのような深夜に、止湮のスマホと職員証を持って、彼らの家に入ろうとしているのか。
――もし止湮の頼みで来たのなら、なぜ止湮はこの人に鍵を貸さなかったんだ?
――止湮の頼みでないなら、何の目的で来たんだ?
――たとえ止湮が意識を失ったような事態に陥ってて、この男が家に入る正当な理由があるのだとしても、なぜ僕からの電話に出なかったんだ? なぜ一度もチャイムを鳴らそうとしなかったんだ?
どれほど論理的に考えようとしても、この男の行動を好意的に説明できる、合理的な答えは見つからなかった。
突如、ドアの向こうでスマホを見ていた男が、何らかのメッセージを受け取ったのか、端末を仕舞うと右に向かって歩き出す。
諦めたのだろうか。
コツ、コツ、コツ――。
男が履いているのは革靴らしく、遠ざかっていく硬い靴音が静寂に響く。
完全に安心してもいいのだろうか。
一時的な引き下がりに過ぎないかもしれないと思いつつも、際允は少し肩の荷が下りるのを感じた。
一気に緊張の糸が解け、ドアの陰にへなへなと座り込む。
しばらくして、ほんの少し気力が戻ってくると、這うようにしてリビングテーブルにの隣へと戻った。
スマホを手に取って画面をつけた。時刻は既に深夜三時。火の国の多くが深い眠りにある、こんな時間に、ようやく一通のメッセージが届いた。
際允は、その一縷の望みを掴むように、それをタップした。
墨然からのメッセージだった。際允がドアスコープから外を覗いていた、あの数分の間に届いたもの。
『まだ起きているか?』
――止湮の情報が入ったのかも?
『起きてる』
指先の震えるは未だに収まる気配がないが、際允は無理やり指を動かし、即座に返信を打ち込んだ。
数時間前と同じように、送信した瞬間に既読がつく。刹那、スマホが「ヴヴッ」と震えて、墨然からの着信を告げた。
今度は驚くこともなく、すぐさま受話ボタンを押した。
「もしもし?」
際允が先に、最小限にまで押し殺した声を出した。
「もしもし」
スピーカーからは、当然ながら墨然の声が聞こえてきた。
「どこにいる? 無事か?」
「家にいる。大丈夫だ」
際允は、可能な限り冷静を装って答えた。
「そっちで何かあったか?」
受話器の向こうで、墨然が深く息を吐くのが聞こえた。それからついに冷静さを取り戻した声で問うた。
だが、墨然がまず止湮の名を出さなかったということは、やはり情報は得られていないのか。
そう悟った瞬間、際允は頭から冷や水を浴びせられたように、思考が急速に冷えていく。
「うん、さっき……」
ソファで目が覚めてから今しがたまでの出来事を、できるだけ簡潔かつ正確に墨然へと伝えた。語り終えると、墨然は再び深呼吸を漏らす。
「今から行く」
「えっ?」
――どこへ? まさか、うちに来るつもりなんか?
――そうなったら、墨然がうちに来てしまったら、外で止湮を捜す人間は……。
「でも、止湮は――」
「あなたの安全のほうが重要だ」
墨然が、遮るように言い放った。
「……」
まただ。心臓が握り潰され、喉を締め上げられるような、あの絶望的な苦しさが込み上げてくる。
「すぐに行く。着くまで電話を切るな」
言葉の鋭さに気づいたのか、墨然は少しだけ口調を和らげる。
「いいか?」
微々たる焦燥が混じっているの、その声。
研ぎ澄まされた際允の聴覚は聞き逃さなかった。
あの、天が落ちても動じないような墨然であっても、焦ることがあるとは。
「わかった」
自分の意見がどうあれ、墨然の決意を左右することはできない。際允はそう悟った。
――せめて、その焦燥だけでも、分かち合えたら。




