第一章38 向こうにいるのは
目を覚ました。
ぼんやりと目の前の暗いリビングを眺める際允。意識の混濁が晴れるにつれ、自分がソファに座ったまま眠ってしまっていたことに気づいた。
無意識にソファから立ち上がろうとすると、長時間の緊張で硬直した筋肉が悲鳴を上げ、全身に激痛が走る。
不自然な姿勢で寝ていた代償か、首と腰が特にひどく痛む。
さらに追い打ちをかけるように、長時間の空腹による低血糖が襲った。
立ち上がった瞬間、視界が真っ暗に染まる。リビングテーブルを支えにして、ようやく倒れ込むのを踏みとどまった。
今の身体は相当に弱っているようだ。際允はまるで他人事のように、自らのコンディションをそう評価した。
もしこのひどい様子が、彼の健康と安全に異常なまでの執着を見せる止湮に見られたら、手厳しい説教を食らうのは目に見える。
――止湮……。
リビングテーブルの上でスマホを手に取り、画面をつけた。現在時刻は深夜二時半。着信もメッセージも、依然として届いていない。
止湮は、まだ帰ってきていない。
目が覚めたばかりの頭でも、その事実だけは即座に理解できた。
一つには、際允は自分の聴力と警戒心に自信を持っているからだ。
もし止湮が帰宅したのなら、ドアが開く音を聞き逃すはずもなく、誰かが家に入ってきたことに気づかないはずがない。
もう一つは、止湮の度を越した心配性と世話焼きな性質を熟知しているからだ。
止湮なら、際允がソファで身体に負担のかかる姿勢で寝ているのを見れば、必ず揺り起こして自室のベッドで寝るよう促すに違いない。
それでも、身体の不快感が少し和らぐのを待ってから、際允は衰弱しきって鉛のように重い身体を引きずり、家の中を一通り見回った。
止湮が本当に、まだ帰ってきていない。
予想が裏付けられたことで、際允は重いため息をつくしかなかった。
リビングに戻り、テーブルの傍らに膝をついた。
再びスマホの通話機能を開き、止湮への六十七回目のかけ直しを試す。
ほぼ、同時に。
トゥルル――トゥルル――トゥルル――
着信音が、聞こえた。
――止湮のスマホの着信音だ。
そして、僅か数秒響いただけで、音は即座に消える。
だが、向こうが電話に出ておらず、切ったわけでもない。画面にはまだ「発信中」の文字が表示されている。
――止湮? 止湮が帰ってきているのか?
音はドアの外から、すぐ近くから響いたように聞こえた。
止湮は今、ドアの外で家に入る準備をしているのだろうか?
入る直前だから際允からからの着信を知りつつも出なかったのだろうか?
そして深夜の建物内で周囲の迷惑にならないよう、咄嗟にマナーモードに切り替えた、ということなのか?
考えを巡らせながら、際允は低血糖の身体も構わず立ち上がる。玄関へ迎えに行こうとするその時――。
ピッ。
トントン。
「——」
――違う。
――止湮じゃない。
額から、一筋の冷や汗が流れたのが感じる。
それが何の音か、一瞬で理解してしまったからだ。
それは、誰かがドアのセンサーに何かをかざして解錠しようとして、何らかの理由でエラーを起こした時に鳴る、センサーの提示音だった。
止湮はいつだって、鍵を使ってドアを開ける。玄関のセンサーなど、一度も使ったことがないのだ。
――なら、今ドアの外にいるのは、誰なんだ?
――なぜ止湮のスマホが、その者の手にあるのか?
――なぜ僕らの家の前まで来たのか?
――なぜ家に入ろうとしているのか?
――その者がセンサーでドアを開けようとした際、何を使ったのか? まさか止湮の「火の教会」の職員証か? それが、その止湮の職員証が、なぜその者の手にある?
――まさか止湮に何か起きたのでは――。
――落ち着け。
と、強引に自分の思考にストップをかけた。
今そんなことを考えても、現状を打開する助けにはならない。そう自分に言い聞かせた。
すぐさま、ドアの外から先ほどと全く同じ音が聞こえてくる。
ピッ。
トントン。
――また失敗したんだろうか?
息を殺し、際允は耳を澄ませた。けれど、解錠の音は聞こえない。
外の人物は二度目を試したが、やはり成功しなかったようだ。
それが何者で、どのような意図を持って家に入ろうとしているのかは不明だが、障害にぶつかっているのは間違いなかった。
その者が、センサーでこの家のドアを開けられないのだ。
先ほど、電話に出ずに着信音を消したのは、明らかに周囲に気づかれるのを恐れている行動。
ならば、その者の意図は他人に知られたら困るものだと推測できる。
一方でそれは、強引にドアを破壊して押し入ってくる心配は、さしあたってはないということも意味する。
そうなれば、真の問題は「鍵」だ。
このドアを開けられる鍵は、世界に三つしかない。一つは止湮に、一つは際允に、そしてもう一つは一階の管理事務室で厳重に保管されている。
火の教会が提供した住宅であるため、一般的な鍵のように勝手に複製することは許されず、鍵屋などに依頼しても教会の規則によって断られる。家主である止湮が自ら申し込まなければ、四つ目の鍵は作れない仕組みなのだ。
もし二人のうちどちらかが鍵を紛失して、相手にも頼めない場合は、一階の管理事務室へ借りに行くしかない。
それも家主である止湮が煩雑な手続きを経てようやく手に入れるもので、同居人に過ぎない際允ですら単独では取得できない。幸い、この六年の同居生活でそんな事態が起きたことはなかったが。
止湮のスマホと職員証が、ドアの外の何者かの手にあるのなら。鍵もまた、同じ状況にあるではないだろうか。
少なくとも、もし止湮の指示で来たのであれば、止湮は鍵をその者に預けるはずだ。
もっとも際允には、止湮がこのような深夜に、際允の許可なく他人を家に入れる理由など想像もつかなかったが。
もちろん、火の教会側の人間であれば、止湮の同意なしに管理事務室での鍵を手に入れるか、あるいは四つ目の合鍵を作製させるルートを持っている可能性も否定できない。
いずれにせよ、もし外のあの人物が執拗に侵入を試みるつもりなら、次は鍵を使うはずだ。




