第一章37 きっと無事だ、と自分に言い聞かせる
現在の時刻を確認すると、もうすぐ十時になろうとしていた。
墨然との通話を終えてからも、メッセージや着信の類は相変わらず一つとして届いていない。
再び止湮に電話をかける。
やはり、出なかった。今夜、三十五回目の不在着信。
三十六回目、三十七回目……四十回目を数えても、やはり虚しく響く機械音ばかりで、誰も出ていなかった。
十時だ。夜のニュースが終わり、あの時報の声も聞こえなくなった。
通報するか、あるいは教会に知らせるか。それ以外、自分にできることなどもう何一つ残されていないのではないか。
昏い思考の淵で、先ほどの墨然の言葉が、脳裏で何度も繰り返されていた。
――「それで少しでも安心できるなら、そうすればいい」
――「そんなことわかっていても。それでも君は俺にそう聞いたということは、それだけ不安になって、焦っているんだろう」
――なるほど。
ようやく、通話中に感じたあの胸を突く苦しさの正体に気づいた。
あれは、罪悪感だ。
通報という手段を選べば、止湮の一時の失踪よりも、遥かに深刻な事態を招きかねないとわかっている。
それなのに、通報したいという身勝手な思いを捨てきれない。
警察に通報したり、火の教会に連絡したりすることを自分から諦める。それは、止湮を見つけ出すための微かな希望を自ら捨てるに等しい選択。
その後にやってくるかもしれない「あの時、ああしていれば」という後悔に、耐えられるはずもないのだ。
だからこそ無意識に、墨然意見を求め、得られるはずの否定的な答えを期待していた。
狡猾に、そして臆病に、いつか訪れるかもしれないこの後悔を、墨然に分担させようとしたのだ。
本当は、自分一人で決断すべきだった。
「通報しない」という決断を。
できるかできないかの問題ではない。
自分は止湮を「真相調査」という、重大なリスクに曝している原因である事件の当事者。――たとえ被害者であろうとも、自分はその決断を下す義務と責任を負うべきだったのだ。
それなのに、できなかった。
――ただ、不安や焦りといった、この世で最も無意味な感情のせいで。
……。
虫酸が走る。
……。
際允はようやく、冷徹な決心を固めた。
――警察にも、教会にも、知らせてはならない。
立ち上がり、墨然が電話で指示した通り、戸締まりを再確認する。そしてテレビを消し、リビングの明かりを落とした。
室内は一瞬にして闇に塗り潰され、稼働し続ける家電の表示灯が放つ微かな光だけが、唯一の明かりとなっている。
ソファに戻り、際允は再びスマホの画面をつけた。
何の連絡もないことを確かめ、止湮の番号をかけ直し続ける。
四十一回目、四十二回目、四十三回目……。
視覚情報が減ったことで、聴覚が異常なほどに鋭くなったのか。昼食以来何も口にしていなく、お腹がグルグルと鳴る音が妙に大きく聞こえる。
身体が食べ物を求めている。だが今の自分には、水を飲むことさえ吐き気を催しそうで、食事をする気にはなれなかった。
――止湮も夕食はまだだろうか。食べていればいいのだが。
もし食べていないのなら、この時間ではコンビニくらいしか開いていないだろう。冷蔵庫には食材があったはずだが。
料理できればよかった。そうなれば、止湮のために温かい夕食を整えて、疲れ果てて帰ってきた彼にすぐに食べさせてあげられたのに。
止湮は今、どこにいるのだろう。
何をしているのか。
仕事に忙殺されているだけなのか。それとも際允の前世の死の真相のために、どこかで調べているのか。
危険な目に遭ってはいないか。
もし止湮の行方が掴めなくなったのが高校時代だったなら、家族が捜した末に学校へ連絡が行くはずだ。
友人である際允がその事実を知るのは、それからさらに後のことになるのだろう。
かつて、前世で自分が死んだ三日後に、止湮がそれを知ったように。
友人とは、所詮その程度の関係だった、と際允は思っている。
だが、今の彼は止湮の家族だ。
法律上、唯一の家族。
世界中に唯一の、止湮と繋がっている存在。
もし何かあれば、警察や病院は真っ先に自分へと連絡してくるはずだ。
だから、今も連絡がないということは、止湮はまだ無事だということだ。そう自分を説得する。
止湮に何かあったとしても、家族である自分に連絡がつかない可能性などいくらでもある、という理屈はわかっている。
それでも、そんなことは起きないと自分に言い聞かせ続ける。
あの高校時代から、知性も武力も、立ち振る舞いも外見も完璧な優等生が、何かに躓くはずがない。
ましてや止湮は、火の国の市民で唯一「火の能力」を自由に使える帯契者なのだ。その命を脅かせる者など、この世に存在しないはず。
――止湮が、自ら命を捨てない限りは……。
――いや、止湮は自殺しないと約束してくれた。だから大丈夫だ。止湮はきっと無事だ。
徒らに不安を募らせる無意味な想像をするより、止湮が帰ってきた時に何をするか考えよう。そう自分を諭す。
――「仕事から帰ってきてドアを開けた時、明かりがついていて、『おかえり。お疲れ様』と言ってくれる人がいて、本当に嬉しいんだ」
――そうだ。止湮がかつて、愛おしそうにそう言ってた。
だから、止湮が帰ってくる音が聞こえたら、まずリビングの明かりを灯そう。そして玄関まで彼を迎えに行こう。
片手で止湮への電話をかけ直し続けながら、際允はもう片方の手を胸元へ伸ばす。
六年前、止湮があの言葉を告げたのと同じ日に、誕生日プレゼントとして贈られたネックレス。それを、壊さんばかりの力でぎゅっと握りしめた。
五十一回目、五十二回目、五十三回目……。




