第一章35 行方不明
そんな他愛のない回想に耽りながら、際允は上の空で小説を読んで、時間を潰していた。
背景音として流れていたテレビからの声が、意識を現実に引き戻す。
「時刻は午後六時になりました。最新のニュースをお伝えします――」
六時だ。止湮の仕事が終わるところだ。
もちろん止湮も時折残業をすることがある。だがその場合は必ず事前にメッセージを送って、夕食をどうするか相談してくるが常だ。
通常、そんな時は際允の強い希望によって、止湮が帰るのを待って二人で一緒に食べることに決まっていた。
同居して六年、平日は止湮の仕事が忙しいため、今でも外食中心の生活が続いている。
基本的には止湮が仕事帰りに二人分の夕食を買ってくる。だが、多くの店が閉まる時間まで残業せざるを得ないという、万が一の場合に限り、普段は一人での外出を許されていない際允に、メッセージで買い出しを頼む。
休日において、基本的には家にいる止湮が、三食すべて二人のために腕を振るう。
この六年間で、止湮に急な外出の用事ができて外食になったケースは、両手で数えられるほどしかなかった。
止湮が際允に下した「火を使っちゃだめだ」「キッチンの加熱機能のある家電を使っちゃだめだ」「僕が料理をしている間はキッチンに入っちゃだめだ」といった禁止令はすべて、今世の彼が小学校を卒業するまで、という期限付きのものだ。
際允は心の中で、密かにこんな計画を立てていつ。間もなく禁止令が解除されたら、週末に止湮が料理をする際、彼から作り方を教えてもらおう――と。
そして料理の腕が止湮に認められるレベルに達してから、平日の放課後に二人の夕食を作って、さらには翌日の昼食として二人の弁当を準備することもできるはずだ。
そうすれば、今までの恩にも、この六年間止湮が自分にしてくれた様々なことにも、多少なりとも報いることができるのではないか。
それが、際允にとっての未来への期待の一つになっている。もっとも、それが実現できるとしても、まだ先の話ではあるが。
思いを現在へと引き戻す。
この六年の経験則からすれば、止湮に残業がない場合、仕事帰りに二人分の夕食を選んで買ってくる時間を考慮しても、七時までに帰宅するのは許容範囲内だ。
とにかく、今はまだ待つしかない。
彼は手元の小説に、再び目を落とした。
「時刻は午後七時になりました。お伝えするのは――」
七時だ。止湮がまだ帰ってこない。
傍らに置いていたスマホを手に取り、そしてメッセージや着信が何一つも入っていないことがわかった。
何の説明もなくこの時間まで帰ってこないのは、初めて。
多忙のあまり連絡を入れるのを忘れているだけだろうか。止湮に限ってそんなことはあり得ないと思いつつも、可能性がゼロではないとも考えた。
ひとまず、メッセージを送って尋ねてみることにする。
『今日は帰りが遅くなる?』
それだけでは、不満を言っているように受け取られるかもしれないと考え、一文を付け加える。
『僕が代わりに晩ご飯買ってくる?』
止湮が仕事中である可能性を考え、彼がマナーモードにしていることは疑わないものの、不用意に電話をかけるのは控えた方がいいと際允は判断した。
もう少し待ってみよう。
彼は画面を閉じて、暇潰しにその小説の続きをめくった。
「時刻は午後八時になりました。以下――」
八時だ。止湮がまだ帰ってこない。
際允はついに、どうしても心を動かせないその小説を閉じ、テーブルの下の元の位置に戻す。スマホを手に取り、画面をつけた
七時頃に送ったメッセージは、既読にすらなっていない。当然、止湮の返信もない。誰からもメッセージも電話も来ていない。
画面を閉じる。もし連絡があればすぐに気づけるよう、際允はスマホをテーブルに戻さず、手に持ったままテレビに目を向けた。
ニュースの中に、止湮の帰宅が遅れている異常な事態の原因がないか探しつつ、画面の隅に表示されている時刻に注意を払う。
「時刻は午後九時になりました――」
九時だ。止湮がまだ帰ってこない。
止湮を含め、誰からも連絡はない。
――まるで、止湮がこの世から蒸発してしまったかのように……。
そんな考えが一瞬脳裏をよぎって、気づけば全身から冷や汗が吹き出していた。
際允は止湮に電話をかける。
繋がった。電源は切られていないようだ。
だが、どれだけ待っても止湮が電話に出ることはなかった。やがて留守番電話に切り替わる。
電話を切り、すぐにかけ直す。
二回目も同じだった。
再びかけ直した。が、やはり三回目も同じ。
電話に出ない。メッセージも未読のまま。
――こんな時、どうすればいいんだ?
頭の中が真っ白になった。
こんな経験、際允には一度もなかった。
二度の人生において、帰りを待つ相手がいるのも、その相手がいつまでも帰ってこない状況に直面するのも、初めて。
あいにく、どうすればいいかわからない時にいつも頼る相手こそ、今行方のわからない止湮なのだ。
止湮に聞けばほとんどの答えが得られるから、止湮以外の相談相手など考えたこともなかった。
一つ深呼吸をして自分を落ち着かせる。際允は連絡先リストを上から下までスクロールした末に、止湮が働いている聖堂に電話をかけてみることにした。
コール音が鳴り、すぐに繋がった。そして――、
「お電話ありがとうございます。只今の時間は営業時間外でございます。恐れ入りますが、営業時間内におかけ直しくださいますよう……」
営業時間外の自動音声応答。
電話を切った。
――次はどうすればいいんだろう?
止湮に電話をかけ直しては、出なければ切ってまたかけ直す。機械的な動作を繰り返しながら、際允は思考を巡らせる。
聖堂に連絡がつかない上、止湮の同僚の連絡先も知らない。これでは止湮がまだ職場にいるのかどうかさえ確認できない。
……七回目、八回目、九回目……。
――直接、教会に行ってみるべきか?
――近いとはいえ、自分が家を出る間に万が一家の電話に連絡が来たら、どうしたらいいか? やはり、家で待つべきか?
……十五回目、十六回目、十七回目……。
この建物は火の教会が提供したものだ。止湮と同じ聖堂で働いている人が何人か住んでいるはずだ。彼らなら止湮の状況を知っているかもしれないが、それが誰なのかも、どの部屋に住んでいるのかも知らない。
一室ずつ訪ね回ったり、一階の管理員に助けを求めたりすれば、騒ぎが大きくなり事態が収拾つかなくなる恐れがある。
止湮が前世の事件の真相を追うために密かに教会と対立している今、それは賢明な選択とは思えない。
……二十回目、二十一回目、二十二回目……。
――なら、警察に通報すべきか?
しかし、止湮の退勤時間からまだ三時間ほどしか経っていない。これだけで通報するのは大袈裟だと思われるだろうか。世間の人々は、家族がどれくらい帰ってこなければ通報するものなのだろうか。彼には全く見当もつかなかった。
それに、通報すればやはり騒ぎになる。もし止湮が帰ってこない原因が真相の調査と何らかの関係があれば、警察や教会に助けを求めるのは、止湮の足を引っ張る行為に等しい。
……三十回目、三十一回目、三十二回目……。
――もし真相の調査に関わっているのなら……。
際允はかけ直しを繰り返していた手を止めた。
連絡先リストを開き、ある名前に目を止める。
――墨然くんなら、何か知っているのだろうか?




