第一章28 初めて見た微笑み
墨然が次の質問を投げかける前に、際允が先手を打つ。
「止湮が来ればわかることなんだし、僕に聞く必要はないんじゃないのか?」
「確かに、そっちから答えを聞き出さねばならないわけじゃない。ただ、目暁くんが事情を知っているかどうかを確認したいだけだ」
「それに何の意味があるの?」
六歳の子供が知っているか否かなど、本来はさほど重要ではないはずだが。
「子供に聞かせるべき内容ではないと思っていたからだ。先輩が目暁くんをここで待たせているのは、単に何も考えていないのか、それとも同席させるつもりなのか。もし前者なら、目暁くんを別の場所で待たせるよう先輩に忠告するつもりだった」
墨然はそう答えた。
「だが、目暁くん自身も事情を知っているというのなら、後者なんだろう。俺の杞憂だったというわけだ」
墨然のほうも、止湮が自分を呼んだ目的に心当たりがあるようだった。止湮が送ったメッセージの些細なニュアンスから、鋭敏な彼は何かを察したのかもしれない。
「ふーん、そうなんだ」
適当に相槌を打った。
「……だが」
「え?」
この話はこれで終わりだと思っていた際允は、墨然がさらに言葉を継いだことに、思わず驚きの表情を浮かべた。
「なぜ止湮先輩は、目暁くんに話したんだ?」
しつこいな。際允は心の中で毒づいた。
止湮と口裏を合わせていない以上、今ここで適当な嘘を吐いたら、たとえしばらく誤魔化せるとしても、後で止湮と話している時に細かな矛盾によって墨然に見破られるのが目に見える。
だから、際允は無造作に答える。
「知りたいなら、後で止湮に聞いてみれば?」
面倒なことは、この面倒な人物を呼び出した張本人に丸投げすることにした。
「そっちから答えることはできないか?」
「できない」
きっぱりと断った。
「さっき墨然くんも言っただろ、何の目的で呼ばれたかまだ知らないって。墨然くんが考えているのもただの予想だ。僕だって同じ。止湮がはっきりとは教えてくれていない。だから、僕が勘違いしたのかもしれないし、君の予想が外れるのかもしれない。そんな状況で、余計なことを言わないほうがいいだろ?」
言ってしまって、普通の六歳児を装うにしては饒舌すぎたと後悔したが、後の祭りだった。心の中で舌打ちをするしかない。
「そのどこが『頭が鈍い』というんだ?」
その口角が、ごく僅かに上がるのを際允は見逃さなかった。どうやら、彼は微笑んでいるようだった。
墨然が笑うところを、初めて見た。
ポーカーフェイスでも笑うんだなと感心しながらも、観測するには虫眼鏡が必要なレベルで、肉眼では気づきにくい微笑みだなと、心の中でツッコミを入れてしまう。
墨然はすぐにその笑みを消した。それにすら気づける自分がすごいとさえ際允は思えてきた。
「まあいい。先輩が呼んだ目的については、今はやめておこう」
墨然は、いつもの無表情に戻った。
「関係ない質問を一つしていいか?」
「質問多くないか?」
スマホをチラリと見て、止湮の退勤時間まであと五分ほどであることを、際允は確認した。
「そっちも暇だろう? さっきスマホで時間を潰そうとしていたしな。俺も暇だ」
高校時代の記憶にある墨然は、無口に近かった。もし今日会う前に「墨然くんの声はどんな感じだったっけ?」と聞かれていたら、流石の際允にも即座には思い出せなかったほどだ。
そんな彼が、暇潰しのために初対面の子供に話しかけてくるなど、際允にとっては信じがたいことだった。
「断りたいけど」
普通の子供を演じながらこの男と会話を続けるのは、あまりにも疲れる。
「質問を聞きもせずに断るのか?」
「だめなの?」
「だめじゃないが、目暁くんが怪しいと思っちゃうだろうな。俺と話すこと自体に拒んでいるようには見えないのに、質問すら聞こうとしない。ってことは、何かやましいことでもした? あるいは、俺に知られたくないことがあって、喋りすぎるとボロが出るとでも思っているのか?」
墨然はまるで尋問のように言葉を畳みかけた。
「初対面の六歳児を容疑者扱いして問い詰めるのはやめてくれないかな、お巡りさん?」
不機嫌そうに皮肉った。墨然が警察機関の制服を意識して、威圧的な口調で子供を怖がらせようと試しているように、際允が感じたからだ。
しかし墨然は、皮肉られても怒る様子はなく、また際允の言葉が子供離れしたことを疑う様子もなく。ただ、再び口角を上げる。
今度は先ほどよりはっきりとした笑みだった。際允の観察力がなくても、肉眼で視認できるほどの。言葉を交わすうちに、彼の強張っていた表情筋が少しずつ解れつつあるのが感じる。
まさか、際允との会話が楽しいとでも覚えたから、話しかけてきていたのか?
際允自身は、一ミリも楽しいとは思えなかったが。墨然が引く気がないことを悟って、諦めて溜息をつく。
「はあ、わかったから。何を聞きたい?」
「目暁くんは——」
ゴーン――ゴーン――ゴーン――
その時、聖堂の外から正時を告げる鐘の音が響き渡って、墨然の言葉を掻き消した。際允は再びスマホで時間を確認する。ようやく午後六時となったのだ。
視線を戻すと、墨然は口を閉じて、ソファに置いていたスマホを手に取った。立ち上がって、ベージュのコートを羽織ってバックパックを背負う。
しようとした質問が単なる暇潰しで重要ではなかったのか、あるいは今からやってくる止湮に聞かれたくない内容だったのか。彼は質問を飲み込んだようだった。
際允もスマホをポケットにしまって、ソファに置いていたランドセルを背負って立ち上がる。
すぐに、廊下から急ぎ足の足音が聞こえてくる。誰かがこちらへ向かって走ってきている。
やがて、応接室の扉が静かに開かれて、見慣れた姿が現れた。
「ごめん、待たせた」
止湮は申し訳なさそうな微笑みを見せた。




