第一章22【同居開始、二日目】
【同居開始、二日目】
翌朝、際允はベッドの上で目を開き、見慣れない白い天井をぼんやりと見つめていた。脳が動き出すにつれ、昨日起きた出来事がすべて夢ではなかったことを次第に実感していく。
枕元にある、止湮が昨日買ってくれたばかりの目覚まし時計を手に取ると、時刻はすでに午前九時過ぎとなったことが分かる。
昨日までは前世からの習慣を保ち、休日でも毎日朝七時には起床していた。目覚ましがなくても自然に目が覚める体内時計が出来上がっていたはずだが。
これほど寝過ごしたのは、何年ぶりだろうか。昨日は身体も精神も、酷く疲弊していたに違いない。
時計を置き、六歳児には大きすぎるシングルベッドから下ろす。部屋の入り口まで歩き、今の自分の目の高さにあるドアノブを掴んで、扉を開ける。
「おはよう」
部屋を出るなり、止湮の声がした。声のした方へ顔を向けると、止湮が食卓でサンドイッチを食べている姿が見える。彼も起きて間もないようだった。
向かいの席には、皿に盛られたサンドイッチと牛乳の入ったグラスが置かれた。明らかに、際允のために用意されたものだ。
「おはよう」
止湮に挨拶を返した。前世の高校三年間、毎朝学校で顔を合わせた時と同じように。止湮も六年前のあの日々を思い出したのか、嬉しそうに、元々浮かべていた薄い微笑みをさらに深める。
「止湮も今起きたのか?」
そちらに歩み寄り、際允は止湮の向かいに座る。
「ああ」
止湮は頷いた。
「普段は七時に起きるんだけど。昨日疲れたからか、今日は八時過ぎまで寝てしまった。時間がなかったから適当にサンドイッチ作ったけど、よければ」
「止湮が作ったの?」
意外そうに言い、際允は目の前のサンドイッチを興味深げに観察する。どう見ても店で売っているものと遜色ない。止湮に言われなければ、手作りだったとは永遠に気づかないだろう。
「うん、あり合わせの食材で作っただけだが」
止湮は相変わらず謙虚だった。
「じゃあ……いただきます」
少し緊張した止湮の視線を受けながら、際允はサンドイッチを手に取り、小さな口でゆっくりと食べ始めた。黙々と咀嚼し、数分かけて完食する。
「美味しかった。ごちそうさまでした」
その言葉に、止湮はホッとした表情を見せた。そしてどこか呆れたように苦笑する。
「食べる時の反応が薄すぎるよ。口に合わなかったのかって思ってしまったよ」
「ずっとこんな感じだろ?」
際允は不思議そうに聞き返した。高校の三年間、ずっと一緒に食事をしてきたのに、なぜ今更そんなことを言うのだろうか。
「だからさ、以前は君が何を食べても美味しくないと思っているんだとばかり思っていたよ」
止湮の言葉で、際允は自分が大きな誤解をされていたことを知った。
「本当に不味いと思っていたら、三年間も食べ続けたわけないだろう」
「際允なら十分可能性があっただろう」
止湮は大真面目な顔で。
「君は、たとえ学校近くのレストランがどれも不味いと思っても、遠くの店まで行くのを面倒がって、そのまま不味いものを食べ続けそうな気がしたんだ」
「いや僕だって味覚があるよ……」
心底呆れた。自分は多少食に無頓着なだけなのに。本当に我慢できないほど不味ければ、何年も食べ続けるはずがない。
「どうして止湮の中で、僕がそんなイメージになったんだ?」
「高校の同級生にそんな印象を植え付けた原因を、自分でも反省してみたらどうなん?」
止湮もまた、可笑しそうに肩をすくめた。
際允は言い返せなかった。
彼は隣のグラスを手に取り、牛乳を一口ずつ飲む。同時に、止湮は自分の分の皿を持ってキッチンに向かい、皿を洗い終えると水切りラックに立てかける。それから冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、再び際允の向かいに座り、プルタブを引く。
際允も牛乳を飲みしまうと、同じように皿とグラスを片付け、再び席に戻った。止湮はその一連の動作を黙って見守り、彼が座るなり感想を口にする。
「他人行儀すぎるよ」
「仕方ないだろ。一緒に住むの、まだ初日なんだし」
「言っとくけど、家のものは好きに使っていいんだよ? 食べたい時に食べて、飲みたい時に飲んでもいい。本当に遠慮はいらないからさ」
「わかった」
実際にできるかどうかは別問題だがな、と際允は心の中で付け加えた。長年の付き合いである止湮も、彼の考えを見透かしたように溜息をついた。心底、彼がいつまでも遠慮し続けることを案じているようだった。
止湮もこの話題を長引かせるつもりはないように、話を変える。
「君は普段、休日は何をして過ごしているんだ?」
「本を読んだり、ぼーっとしだりとかしていた」
孤児院では、普通の子供ではないと疑われるような行動は慎まなければならなかったからだ。
「前世では?」
「勉強と武術の稽古とか」
前世でも、同じ質問には決まってそう答えていた。
「ふむ……」
止湮は左手で頬杖をつきながら、際允をじっと見つめて考え込んでいた。
「なんだ?」
そう見つめられ、際允は少し居心地が悪くなっていた。
「何か趣味を持ってみないか?」
なぜか止湮の表情はごく真剣だった。
「趣味……」
今までの人生で縁のなかったその言葉を、際允は呆然と繰り返した。
「君にとって、今世の高校卒業までの学業なんて、それほど時間を割く必要はないだろう? 体を鍛えたり稽古をしたりしても、まだ余暇はたくさんあるはずだ」
止湮の言うことは正論だった。しかし、趣味など考えたこともなかった際允の頭の中は真っ白になった。
「止湮はの趣味は何だっけ?」
参考までに聞き返してみた。
「僕? 大して趣味がないんだが……映画鑑賞や、音楽、旅行、スポーツ、料理とか、それくらいかな」
……大して趣味がないって?
宇宙人でも見てしまったかのような際允の視線に、止湮は不思議に感じているようだった。
「君だって前世で、毎日二十四時間ずっと勉強と稽古をしていたわけじゃないだろう? 他に何かしていたんだ?」
「それ以外の時間?」
際允は記憶を辿る。
「寝ていた、か、テレビやスマホでニュースを見ていた、それくらいだろう。趣味とは言えないし」
今度は止湮が、まるで宇宙人を見てしまったかのような眼差しを返してくる。
「時間はたっぷりあるし、後でゆっくり考えればいいだろ」
際允は面倒に感じ、話を切り上げた。
「思いつくまでは、適当に本を読んだりテレビを見たりでもすればいい」
「わかったよ」
止湮は微笑む。
「君の人生なんだから、楽しければそれでいい」
もしそれが際允の口から出た言葉なら、相手を見限った意味が含まれるだろう。が、止湮が本心から言っていることは分かっている。彼は心から際允の選択を尊重し、今世を楽しく生きてほしいと願っているのだ。
止湮は本当にいい人だ。前世から知ってはいたが、この二日間の再会を経て、際允はその事実をより深く実感した。
前世では周囲から「友達」だと思われていたが、際允自身は、ただ同じ時間を過ごしただけの「他の人より少し親しみのある同級生」に過ぎないと感じていた。大学へ行き、別の道を歩めば自然と疎遠になる関係。そんないい人と疎遠になることに、前世の彼は微かな未練を抱いていたはずだ。
だが、今世の関係は全く違う。かつて感じていた「いつか離れる」という予感がなくなった。共に過ごしてまだ二日足らず、互いの性格も趣味も六年前と変わらずかけ離れたというのに、唯一の違いは一枚の「養子縁組契約」だ。
契約があるからだ。
だから、当たり前のように一つ屋根の下で暮らす。
だから、当たり前のように毎日顔を合わせ、明日も会えると信じている。
数年後、数十年後まで。いつか契約を解除する日が来るまで。あるいは、どちらかが死ぬまで。
――死、か……。
昨夜の会話を思い出す。
——「今の止湮には相続者ができたけど、まだ、自殺したいと思ってるなら……」
——「いや。僕には今、新しい生きる目標ができたから」
いっそ、今この場で切り出そう。彼はそう決意した。




