第一章16 偽りの死因
カチャン!
静まり返ったダイニングに、硬く澄んだ音が響いた。
際允の手から滑り落ちた箸が、夕食の盛られたお茶碗縁に当たった音だ。
——「君はなぜ、自殺したんだ?」
「あ?」
際允は、石像のように完全に固まった。
——止湮は何を言っているんだ?
——自殺?
——僕が?
——いつ自殺したって?
止湮も、これほどまで際允が激しい反応を示すとは予想していなかったように、驚きの表情で彼を見つめる。
「ごめん、やっぱり聞くべきじゃなかったかな?」
止湮は際允がこれほど動揺した理由を測りかねながらも、とりあえず礼儀正しく謝った。
「いや、聞くべきかどうかじゃなくて……、えっと、なんて言えばいいんだ……?」
混乱が思考を追い越して、言葉がうまく紡げない。
「どうしてそんな質問をするんだ? いや、え? なんでそんな疑問が出てくる? どうして、そんな話になってるんだ……?」
頭の中がぐちゃぐちゃになって、際允はどこから手を付ければいいのかわからなかった。
「際允?」
彼を見つめる止湮の瞳には、困惑と深い心配の入り混じっている。
「止湮は……どうして僕が、前世の僕が自殺したなんて思ってるんだ?」
なんとか現状で最優先に確認すべき質問をひねり出した。
「……え?」
今度は、止湮が言葉を失って固まった。
「僕は自殺で死んだわけじゃない」
際允は単刀直入に、きっぱりと言い切った。
「前世の僕は、殺されたんだ」
前世で輝絡と名乗った男に腹を刺された後、彼は意識を失って、次に目を覚ました時には既に今世へ転生していた。厳密に言えば、死者本人である際允が自身の死因を百パーセント特定することは不可能だ。
しかし、当時の大量出血や、犯人が救助を呼ぶはずもない状況を考えれば、輝絡の凶行によって命を落としたのは明白だった。だからこそ、彼は止湮に断言したのだ。
少なくとも、前世の自分は決して自ら命を絶つような選択はしていない、と。
「殺された……」
止湮は愕然とした表情を浮かべて、しばらくしてようやく言葉の意味を咀嚼したようだった。が、すぐに問い返すことはせず、深刻な顔で思考に沈んでいった。
「……なるほど。ずっとおかしいと思ってたのは、そのせいか」
考えを巡らせながら、止湮は独り言のように低く呟いた。
「止湮?」
際允が疑問の声をかけると、止湮は我に返って、際允に視線を戻した。
「際允、君は……」
少しだけ躊躇いを見せた後、止湮は切り出す。
「さっき、僕はなぜ君が前世で自殺したと思ってたのかって聞いたよな?」
「ああ、教えてくれ。なんでだ?」
「覚えているよ。君が死んだのは十八歳の誕生日、金曜日のことだ。そしてその三日後、つまり月曜日の朝、学校に行っても君はいなかった。僕はただ病欠か何かだと思ってたんだ。でも授業のチャイムが鳴った後、先生が教壇でみんなに告げた。『際允は自殺した』って」
止湮は記憶を辿りながら、ゆっくりと目を閉じた。彼にとってそれは相当に辛い記憶なのか、顔に僅かな歪みが走る。
そして、理路整然と語り始める。
「まず、前世の君の遺体を直接見ていない。
第二に、他のクラスメイトも先生も、誰も際允がどんな手段で自殺したのか、それと死亡場所すら正確には知っていない。
第三に、君が死んだ後、寮の部屋は一ヶ月間完全に封鎖されて、立ち入りが禁止されていた。だから周囲は『際允は自室で自殺したのではないか』と推測するしかなかった。
第四に、メディアも際允の死についてはただ『自殺』と報じただけで、それ以上の詳細は一切触れなかった。
けど、際允が遺書や遺言を残したという話は、聞いたことがない。
さらに、遺体を目撃したという隣室の生徒は、その後、心的外傷によって記憶喪失に陥ってしまった。遺体を目撃した時の記憶だけを失って、何も話せなかった。
加えて、際允の遺体は死んだ当日の深夜に既に処理されたようだ。つまり皆が際允の死を知らないうちに、な。先生も警察から通知を受けて、その内容をそのまま皆に伝えたに過ぎない。
際允の死因がなぜ自殺と断定されたのか、どうして自殺したのかさえ警察は公表しないほど、事件を隠匿していた。そしてその理由は誰一人もわからない。」
際允が自殺したことを示す客観的な証拠は何一つなく、むしろ警察の際允の「自殺」事件への対応は異常なほど怪しかったのだ。にもかかわらず、「警察の通知」という公的な力だけで、誰もが疑うことなく「際允は自殺したのだ」と信じ込まされてしまった。
「前世のあの死に方が、自殺と誤認される可能性があるとは思えないんだが……」
素人の自分ですらそう思うのに、プロである警察がそんな荒唐無稽な誤判を下すはずがない。際允はそう確信した。
「誤認じゃない。ってことは、隠蔽だったか」
同じ結論に至った止湮の表情が、いっそう暗く沈む。
「もし転生した君に再会できていなければ、僕は一生、君が自殺したという嘘の中で生きていくことになった、か……」
そう言って、止湮は黙り込んだ。
「まあ、少なくとも今は自殺じゃなかったってわかってたし」
当事者である死者として、この重苦しい空気をどうにか和らげるために何かを言おうと、際允は無理やり笑顔を作ってみせた。
だが、止湮は彼をひどく悲しげな瞳で見つめる。
「君が死んだ後、警察も先生もクラスメイトも、みんな僕に君が自殺した理由を知らないかって聞いてきた。でも何も知らなかった……何も答えられなかったんだ」
止湮が六年前の記憶を語り始めた。それは際允の知らない、前世の死後に起きた出来事だった。
「君を恨んだこともあった。なぜ遺書さえ残してくれなかったのかって。君がなぜ自殺したのか、ずっとわからなかった。今日まで、幾度となくそのことを考えてきた。夢も何度も見た。君が死んだあの日、一緒にいた時の夢を。あの日、朝から夕方までずっと一緒にいたのに、別れる直前まで君は普段通りに元気だったのに、自殺の気配なんて少しも気づかなかったのに……。本当は、あの日君の自殺を止めるチャンスがあったんじゃないかって、ずっと考え続けてた……」
止湮はそう吐露しながら、悲痛な笑みを見せる。
「今、ようやく君が自殺じゃなかったと知って、僕は……喜ぶべきなのか?」
……。
際允にも、その答えはわからなかった。
「嬉しいか?」
絞り出すように。そう返すしかなかった。その問いに、止湮はしばらく言葉を失った。
「これっぽっちも。」
込み上げる激しい感情を抑え込むように、止湮は奥歯を噛みしめて答えた。際允もまた、無力感に苛まれながら微笑むしかない。
「じゃあ……僕は謝ったほうがいいか?」
「いや。君は、何一つ悪いことなんてしてない」
止湮の言葉は、断固としていた。
そう言われても、際允の胸には、自分の死が止湮に六年もの歳月に及ぶ苦しみを与えてしまったことへの、深い罪悪感が澱のように残っている。
しかし止湮には、際允を責める意志など微塵もないようだった。
「教えてくれ。君はどうやって殺されたんだ?」
深い悲しみの色を収めて、止湮は際允に、柔らかな微笑みを向ける。




