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第2話:静かなる司書と《共鳴》の目覚め

ライル(レオン)は、錆びて冷たい鉄の取っ手に、ゆっくりと手をかけた。 ギィ……、と、油の切れた蝶番が、この静かな地区には不釣り合いなほど大きな音を立てる。彼は一瞬、通りの衛兵(その「怠惰」の音は相変わらずだ)がこちらを見るのではないかと身構えたが、幸いにも誰も気にしていないようだった。


彼は、埃っぽい建物の内部へと、一歩足を踏み入れた。


外の喧騒が、まるで厚い壁一枚で遮断されたかのように、ふっと遠のく。 シン……、と静まり返った空間。 そこは、「音」がしない場所だった。いや、正確には「人間の感情のノイズ」がほとんどない場所だった。


空気に満ちているのは、乾いた紙の匂いと、古いインクの匂い、そして微かなカビの匂い。窓から差し込む午後の光が、空気中を漂う無数の埃をキラキラと照らし出している。 床板は歩くたびに小さく軋むが、それすらもこの空間では許された音の一部であるかのようだった。


(……静かだ) ダスクウォールの、あの欲望と欺瞞に満ちた「不協和音」が嘘のようだ。 この場所だけが、街から切り離された別の世界のように感じられた。


ライルは、ゆっくりと図書館の中を見渡す。 所狭しと並べられた、天井まで届きそうな本棚。そのどれもが、使い古された革や羊皮紙の背表紙で埋め尽くされている。分類されているのかいないのか、雑然としているようでもあり、不思議な統一感も漂っている。


受付と思しきカウンターの内側に、人影があった。 昨日、路地裏で見た少女だった。 彼女は、ライルが入ってきたことには気づいているようだが、特に視線を向けるでもなく、分厚い書物のページを修復する作業に没頭している。


彼女は、飾り気のない、灰色の実用的なワンピースを着ていた。髪は後ろで無造作に束ねられている。その横顔は、昨日見た時と同じく、まるで感情というものが抜け落ちているかのように無表情だった。 ただ、その指先だけが、傷んだページを扱うピンセットを、驚くほど正確かつ繊細に動かしている。


ライルは、恐る恐る《共鳴》の知覚を、ほんの少しだけ開いた。 この半年、他人の心を積極的に「聞く」ことなど、一度もしてこなかった。だが、昨日から続くこの違和感……この「静謐な音」の正体を、どうしても確かめたかった。


(……やはり、そうだ) 彼女の「音」は、昨日聞いたものと寸分違わぬままだった。 凪いだ湖面。整然と並べられた書物。 恐怖も、不安も、焦りも、期待も、何もない。 ただ、「(このページの綴じ込みが甘い。修復が必要)」という、作業に対する純粋な「思考」の音だけが、小さく、小さく響いている。


ライルの知る限り、人間は、生きているだけで「音」を垂れ流す存在だ。 たとえ無表情を装っていても、内心では「(この男、何の用だ?)」とか「(早く帰らないかな)」とか、何かしらの感情が渦巻いているものだ。 だが、彼女にはそれがない。


ライルは、乾いた喉を鳴らし、声をかけた。 自分の声が、この静かな空間でやけに大きく、荒々しく響くように感じられた。 「……あの。少し、調べものを」


その声に、少女――ミラは、ようやく顔を上げた。 昨日と同じ、硝子玉のような、感情の読めない瞳。 彼女はライルをじっと見つめた。その視線は、彼を「客」として見ているというより、「対象」を分析しているかのようだ。


「……あなたは」 ミラは、小さく、しかし芯の通った声で言った。 「昨日、路地裏にいた人ですね」


ライルの心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。 背中に冷たい汗が流れるのを感じる。 (見られていた……!?) 馬鹿な。あの暗がりで、一瞬だけ。しかも自分は物陰にいたはずだ。 彼は即座に平静を装い、いつもの無気力なポーカーフェイスに戻ろうとした。 「……人違いだろう」 「いいえ」 ミラは、淡々と首を横に振った。 「あなたは、石を投げました。ゴロツキたちの背後に。……あの時、あなたの『音』が、一瞬だけ強く揺らぎましたから」


「……っ!」 ライルは絶句した。 「音」……だと? こいつも、俺と同じ《共鳴》持ちなのか? いや、それなら、この静かすぎる「音」はなんだ? 自分を隠しているのか?


ライルは反射的に《共鳴》の出力を上げ、ミラの心を深く「読もう」とした。 (こいつ、何者だ! 俺を騙そうとしているのか!?) ガレスのように。セリーヌのように。リュシアンのように。 この静けさも、すべて「演技」なのか?


彼が知覚を最大にした瞬間、ミラの硝子玉のような瞳が、ほんのわずかに見開かれた。 「……すごい、『ノイズ』。……やはり、あなたでしたか」 「……お前……何が聞こえる?」 ライルの声は、自分でもわかるほど低く、威嚇的になっていた。


だが、ミラは怯まなかった。 彼女の「音」は、ライルの敵意に晒されても、まったく揺らがない。凪いだ湖面のままだった。 「あなたの『心』は聞こえません」 と、彼女は言った。 「私に聞こえるのは、『力』の音です。あなたのスキル……それは、とても強力な感知系のものですね。常にONになっているせいで、あなた自身の生命力が、まるで壊れた楽器のように不協和音を立てています」


(生命力の……不協和音?) ライルは、自分が何を言われているのか、すぐには理解できなかった。 「俺が……不協和音?」


「はい」とミラは頷く。 「あなたの『音』は、とても強大ですが、ひどく疲弊していて……悲鳴を上げているように聞こえます。昨日、路地裏で石を投げた時、その『悲鳴』が一瞬だけ『怒り』に変わった。だから、わかりました」


ライルは、カウンターに思わず手をついた。眩暈がした。 この少女は、自分の「感情」を読んでいるのではない。 自分のスキル《共鳴》そのものが発する「状態」を、音として感じ取っている……?


「あなたは……怖くないのか? 俺の、この力が」 レオンがそう呟くと、ミラは不思議そうに小首を傾げた。 「なぜ? あなたは、私を助けてくれたのでしょう?」 「…………」 「それに、その力は『情報』です。情報そのものに、善悪はありません。……ただ、あなたは、その情報の『洪水』に溺れかけているように見えます」


ライルは、目の前の少女を凝視した。 (情報の、洪水……) その通りだった。 敵の苦痛も、仲間の悪意も、すべてが「洪水」となって彼を苛み、心を壊した。


「古い文献で読んだことがあります」 ミラは、修復作業の手を止め、カウンターから一冊の古びた本を取り出した。 「《共鳴レゾナンス》。あらゆる存在が発する魔力・感情・生命力の“波”を音のように感じ取るスキル。……強力すぎる感知能力ゆに、使い手は発狂するか、心を閉ざして廃人になると記されています」 彼女は、ライルをまっすぐに見つめた。 「あなたは、後者ですね」


初めてだった。 追放されて以来……いや、勇者として祭り上げられていた時からずっと、この《共鳴》は「ハズレスキル」か「異端の力」としか呼ばれなかった。 その本質を、その苦痛を、正確に理解してくれた人間など、一人もいなかった。


「……お前は、一体……」 「ミラ。ここの司書見習いです」 彼女は淡々と名乗った。


ライルが、自分の偽名を名乗ろうとした、その時だった。


ドンッ!!


図書館の古びた扉が、蹴破るような勢いで開かれた。 「見つけたぞ、クソガキ!!」 甲高い、下品な「音」が、図書館の静寂を切り裂いた。 昨日、ミラを襲っていたゴロツキたちだった。リーダー格の男は、顔に昨日の逃走時に負ったらしい擦り傷を作り、目を血走らせている。


彼らの「音」は、昨日よりもさらに濁っていた。 「強欲」と「焦り」、そしてライルに対する明確な「殺意」。 「おいおい、昨日の邪魔者も一緒かよ!」 「好都合だ! まとめて始末してやる!」


ライルは、即座にミラの腕を掴もうとした。 (逃げるぞ!) だが、ミラは動かなかった。 彼女は、ライルの背後に隠れるどころか、一歩前に出て、カウンターとゴロツキたちの間に立った。 彼女が守ろうとしているのは、自分ではなく、その後ろにある本棚と、この図書館そのものだった。


「静かにしてください」 ミラは、昨日とまったく同じ、静かで冷たい声で言った。 「ここは、図書館です。お帰りください」


ゴロツキたちは、彼女のその態度に一瞬虚を突かれたが、すぐに下品な笑い声を上げた。 「ハッ! 度胸だけは一人前だな、嬢ちゃん!」 リーダー格の男がナイフを抜き、その「殺意」がライルの頭を刺す。 「だがな、俺たちは『黒蛇』だ! 街の衛兵なんざ、とっくに買収済みよ! お前らをここで殺しても、誰も文句は言わねぇんだよ!」


ライルの全身が硬直する。 (ダメだ……殺意の「音」が、強すぎる……!) また、あの追放の日のトラウマが蘇る。ガレスたちの憎悪の音。魔族の子供の恐怖の音。 頭が割れるようだ。足がすくむ。


だが、その時。 ライルは、隣に立つミラの「音」を聞いた。 彼女は、ゴロツキたちの剥き出しの殺意を真っ向から浴びているというのに、その「音」を一切、揺らがせていなかった。 凪いだ湖面は、凪いだまま。 そこにあるのは「恐怖」ではない。 ただ、「(この本は、渡せない)」という、氷のような、絶対的な「覚悟」の音だけだった。


この少女は、怖くないのか。 死ぬかもしれないのに。 なぜだ。なぜこの少女は、これほどの殺意を前にして、微塵も揺らがない?


その静かで力強い音は、殺意のノイズで満たされたライルの頭蓋に、まるで清涼な水滴のように落ち、波紋を広げた。 欲望でも、恐怖でも、欺瞞でもない。ただひたすらに純粋で、鋼のように強靭な「意志」の音。


ああ、そうだ。俺は――この「音」を、壊されたくない。


頭はまだ割れるように痛い。足は鉛のように重い。だが、それ以上に、目の前の少女が奏でる静謐な音が、ゴロツキたちの下品な不協和音によってかき消されることが、許せなかった。 彼は、半年ぶりに、自らの意志で《共鳴》を制御した。不快な殺意のノイズを「背景」へと押しやり、ミラの「覚悟」の音だけを意識の中心に据える。


ふぅ、と長い息を吐く。 ライルはゆっくりと顔を上げ、ナイフを構えるゴロツキたちとミラの間に、静かに立ちふさがった。


「……図書館では、静かにしろ」


その声は、もはや無気力な日雇い労働者のものではなかった。

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