第2話 第一の死/実況コメント(視点:群像→桐生・レン)
08は、昼と夕の境に釘で縫い止められたみたいな広場の中央に、乱雑ですらない角度で横たわっていた。乱雑でないというのは、偶然の積み重ねが生むはずの「崩れ」がそこにはなく、布と皮膚と血とが、レイアウトという言葉を知っている手つきで置かれているからだった。胸の辺りの布地は、乾きかけの暗い色で硬化している。誰も近寄らない。近寄らない、という意志が合意になり、その合意の形が地面に見えない円を描いて、死体から一定の距離で人の群れを止めていた。
最初に近づいたのは、人ではない。蜂の羽音より少し低い振動と、冷たい金属の光沢を引き連れて、小型のドローンが真上に降りた。四枚の羽が無音で切断する空気の層の下、球形の胴体が花のように開く。花弁の内側は鏡面で、そこに映った08の胸の隆起は、たしかに「もう上下しない」ことだけを、残酷なまでに正確に伝えた。ドローンはためらいなく、細い針の束を胸元に押し当てる。タグ打ち機のような乾いた音が三度、規則正しく響き、銀のプレートが皮膚に括り付けられた。文字が浮き上がる――
《観測完了 #1》
そのハッシュタグは一拍の遅延もなく都市内のあらゆるスクリーンに同期し、広告と同じ軽さ、同じ呼吸数で死を告げた。広場の巨大モニターの端にも、路面に埋め込まれた案内板にも、アパートの踊り場の小さなLCDにも、「#1」が整然と並ぶ。見られることと売られることの違いを、誰かが、意図的に曖昧にしている。
人々は割れた。遺体から視線を外して「今、生き延びる」ためのものを集めようとする実利派――二、三、七、十。小さく声をかけあい、広場の縁を削るようにして去っていく。その背は過去に何度も避難訓練を経験してきた人の背で、手の動きは、怖れに馴れてしまった人のそれだった。もう一方。仕組みを、配信の構造を先に見極めない限り、「生き延びる」の内容すら決められないと主張する探索派。十一=桐生、十二=少女、五、九。どちらが正しいかの議論は驚くほどあっさり、必要な数のうなずきによって終わらせられる。どちらも正しい、がここでは同時にできない。
「名前、あった方がいい?」
灰色のパーカーの少女――十二が、少し背伸びしたような声色で言った。
「思い出せないなら、仮でいい。呼称は武器になる」九が応じる。
少女は一瞬だけ目を伏せ、顔を上げた。「レンでいい。名前を思い出すまで、仮で」
妙に大人びた響き。大人の喉でこねた言葉が、子どもの口腔を通って少し軽くなって出てくる。その違和感を、彼女自身がいちばんよく知っているように見えた。
僕たちは商店街へ向かった。両側のシャッターは半分まで降りた姿勢で固定され、錆の筋が掃除のルールを忘れた町の年輪みたいに縦に走っている。コンビニ跡の自動ドアは電源が生きていた。前に立つと、機械が習慣の記憶だけで身体を開くみたいに、スライドがゆっくり動いた。中は拍子抜けするほど清潔で、棚の上には賞味期限のないペーストとパウチ飲料が整列している。輪ゴムで束ねたように整列している、という比喩は正確ではない。輪ゴムは伸び縮みするが、ここには伸縮の余地がない。最初に並べられた時と同じ角度で、同じ数だけ、補充され続けるための並び方だ。
冷蔵庫の扉には注意書きが貼られていた。白地に黒字、読みやすいフォント、過不足のない行間。
《監視下補給:視聴者のリクエストによって内容が変わります》
扉越しに、配信コメントがオーバーレイで流れ込んでくる。透明なガラスの内側で、誰かの欲望が小さな紙吹雪になって浮遊する。「チョコミント出して」「水→つまらん」「辛いの希望」「#糖分ブースト」「#激辛チャレンジ」。扉を開くたび、ラインナップは、悪趣味な手品のように、少しずつ変わる。突然、ペーストのパッケージにだけ「SPICY」の赤い帯が増え、次の瞬間には「糖質ゼロ」の白い帯がそれに重なる。五が苛立ちを露わにし、扉を蹴った。ドアポケットに入っていた空のパウチが小さく跳ねる。天井から赤い警告灯が降り、店内スピーカーが冷淡に言った。
《破壊行為:減点》
減点――誰から、何に対して、どんな配点で。問いの形だけが胸に残る。五は「減点? ふざけるな」と唇の皮を噛み、拳を一度握って、ほどいた。レンが、薄い声で「やめて」と言った。その声は、怒りに同調する種類の優しさを持っていなかった。怒りを消す側の優しさ――火に水をかけるのではなく、火を火ではなくしてしまう側のやさしさ。
その瞬間、外の大通りで甲高いエンジン音がした。いまこの街に「甲高い」という形容が似合う音は少ない。少ないからこそ、全員の肩が同時に跳ねる。自動走行らしき貨物車が制御を失い、ジグザグに進入してくる。運転席に人影はない。いや、影すらない。機械が影を持つためには太陽が必要だが、ここにあるのは決定された照明で、影は番組の都合でしか落ちない。
「待て」五が反射で外へ飛び出そうとしたのを、レンが袖を引いて止めた。彼女の指は細いのに、引き止める力は芯があった。貨物車は店先のポールに衝突する。衝突音は、現実の衝突音の半分の厚さしか持っていない。誰かがノイズを加工したかのような、中音域の欠けた、録音の「素材」にやさしい音。静けさがスローモーションのように広がり、やがてボンネットから、質の悪い暖房のような熱気だけが波になって押してくる。広場の大型画面には、別角度の映像が割り込んだ。僕らの視点とは違う高い位置からの俯瞰。視聴者コメントが文字の嵐となって押し寄せる。
「行け!」「やば」「#神回予感」「#車クラッシュ」「誰がいく?」「11番出せ」「12のコ反応見たい」「#供給より演出」「笑」
画面の右上に投票UIが出現する。白いバーが四本。名前の代わりに番号が並ぶ。「11」「12」「05」「09」。指先で触れられることを前提とした大きさと配置。視聴者の手の温度のことまで計算したUI。バーは脈のように伸び縮みし、桐生の票だけが急に伸びる。コメントが重なる。「11、表情がいい」「主人公面」「#導線通り」「#感情の走り」。胸の奥で別種の痛みが走る。僕は“主人公”ではない。少なくとも、こういう舞台で主役をした覚えは――あるのか。記憶の空洞は、質問の形をしたまま硬化する。
身体は勝手に動いた。ガラスケースの中から救急箱と断熱シートを掴み、外へ出る。投票のバーはさらに伸び、画面がにわかに明るくなる感覚がする。桐生の視点に切り替わった映像が、世界の中心になる。足が地面を蹴る感触と、画面の揺れが同期し、僕の肺の上下が右下の心拍アイコンのリズムと重なる。呼吸は、見られている。
事故は囮だった。ポールの根元に仕込まれたワイヤが、衝撃で跳ね上がり、道路の反対側のガードレールへ走る。銀の弦が張られる瞬間は、肉眼では理解できないほど「自然な」速度だった。自然な、というのは、見る側に「仕掛け」を意識させない速度、という意味だ。何も知らない三が、そのワイヤに足を取られる。背中から、音の薄い地面に倒れる。後頭部を打つ鈍い音は、さっきの衝突音よりも現実に近く、だからこそ残酷だった。コンマの揺らぎほどの沈黙ののち、広場の天井に設置されたスピーカーから、効果音めいた短いチャイムが鳴る。
《観測対象 #2》
画面の隅に赤い枠が灯る。三の視点に切り替わることはない。代わりに、外部編集のような滑らかさで、死の直前の映像だけが抽出され、ループ再生される。足の甲がワイヤに触れる。靴紐がひっかかる。踵が浮く。バランスが崩れる。空が、いつもより近い。――という四枚のカードだけが、観客のデッキに配られる。カードの裏には、視聴者の指紋がべったりとつく。コメントは軽い。
「ワイヤ見えた」「気づけよw」「#編集ナイス」「今の切り戻し気持ちいい」「#やり直し不可」
レンが震える声で呟いた。「再生が、最初から“切り出される”前提で配置されてる」
彼女の指は空中を微かになぞっている。何を、なぞっている? 僕はその指先の運動に、遅れて気づく。彼女は画面の中のインターフェースを見ている。視聴者の画面と同じUIが、参加者の網膜にも微弱に投影されている。透明な層が眼の前に一枚追加されて、現実の輪郭を少しだけ歪ませる。誰かの死が、全員の視覚に“正解”として刷り込まれる仕掛け。正解は、いつも気持ちがいい。気持ちがいいものは、長く残る。長く残るものは、物語になる。物語は、支配する。
五が拳を降ろせずにいた。彼は三の体の横で膝をつき、呼吸の有無を確かめるという意味のない仕草を二度して、首を振った。断熱シートの銀色は、死体の上では音を失う。僕は救急箱を開けたまま手が宙に浮き、何も取り出せない。何も役に立たないことを、手は最初から知っていたらしい。手のひらの細かい汗が、ラテックスの手袋の内側に薄い沼を作っている。指を少し動かすたび、その沼の粘度が、皮膚の神経を逆なでしてくる。
「戻る」二が短く言い、周囲の視線が彼女の声の方角へ収束する。
「ここは、長くいる場所じゃない」
「罠は、見せるためのものだ」七が吐き捨て、折れているのかどうかもわからない感情をかかとで踏みつけて、店内に引き返した。
画面の右上で投票UIは消え、代わりに「#黙祷」の文字列が数秒だけ滞在して消えた。黙祷は、可視化を必要としていた。可視化されない黙祷は、ここでは黙祷として成立しないらしい。
僕らは、一列になってアパートへ戻った。戻る途中、ディスペンサの前を通ると、さっきまで「激辛」や「糖質ゼロ」で揺れていた表示が、「遺族への支援」「#花」「#ライト」といった、視聴者の善意をやさしく拾うタグで埋め尽くされていた。花は表示の中で満開になり、ライトは表示の中で温かく灯った。実際に供給されたのは、ペーストと水と、薄いブランケット。それでも、表示の中の善意は、見ている側の体温を上げるのに十分だった。
部屋に入ると、壁が自動的に暗くなり、睡眠導入のための低音が床の下から流れ出す。低音は、人の骨の中に直接注がれる。骨は耳の一種だ。天井裏からは微かな機械音。ケーブルが何かを運び、モーターが何かを巻き取り、フィルターが何かを選別している。壁の液晶は、こちらが視線を向けると、砂嵐を一段階やわらげ、暗闇の目に優しい濃度に調整されたノイズを提供した。優しさは、支配の第一段階だ。
僕は眠れなかった。眠れなさの輪郭が、額の内側に円を描く。レンは壁にもたれて座り、鞄からノートのようなものを取り出した。紙ではない。薄い黒いパネルで、指で文字を書くと、線はすぐに消えた。残らないメモ。記録が残らないという仕様が、逆に「何を書いてもよい」という自由を人に与える。人は、記録よりも「書く」という行為のほうに救われることがある。レンはそこに、短い文を一行書いた。
《見られることの恐怖より、忘れられることの恐怖のほうが、彼らをよく動かす》
書いたそばから、彼女は一度読み返し、二拍置いて、指先で消した。痕跡は残らない。残らないという事実だけが、残る。
「誰の言葉?」僕は問う。
レンは首を振る。「思い出せないけど、知ってる。ここは、人が忘れる速さを試す場所」
「忘れる速さ?」
「忘れる、という行為にも、演出があるの。誰が、何を、どの順番で、どの音で忘れるか」
彼女は目を閉じ、低音の波が身体の内側の砂を均していくのに身を任せるふりをした。僕はベッドの端に腰をかけ、靴を脱ぎ、それからまた履き直し、靴紐を結び直した。靴紐の結び目は、手が覚えている。身体は、名前より先に、手順を思い出す。
寝入りばな、耳の中で声がした。女の声。優しいのに、体温がない。冷蔵庫の中の水のような、手の届かない優しさ。
――キリュウ、見てる?
目を開ける。部屋は暗い。壁の液晶にコメントが一行だけ残っている。
《11番、いいね》
最後の句点の位置だけが、見覚えのある癖だった。文章の終わりより、ほんの少し手前に落ちる、ずれた句点。僕は喉の奥で固まった息を、舌で押すようにして飲み込んだ。舌裏の硬片が、短く、鋭く、電気を打つ。合図。誰に向けた合図か、わからない。わからないまま、僕は目を閉じた。閉じた瞼の裏で、三の足首がワイヤに触れる瞬間だけが、何度でも明るくなり、何度でも暗くなる。
忘れる速さを、試されている。
眠れない夜の底を、低音が往復していく。壁の向こうの機械が、一定の周期で息をしている。息の合間、ほんの短い空白に、聞き覚えのある小さなチャイムが微かに紛れ込む。誰かの死が、演出の音に変換されるときの、あのチャイム。耳は、それを捨てられない。音は、記憶の最小単位だ。最小単位は、もっとも壊れやすい。壊れやすいものから順に、ここでは保存される。
視界の端でレンが身じろぎし、また眠りに偽装する。偽装は、眠りの手前に必要な儀式だ。彼女はパネルを胸に乗せたまま眠り、パネルは彼女の呼吸で少し揺れ、そのたびに薄い光が漏れて消えた。さっき消したばかりの文が、残像として薄く浮かび、やがて完全に消える。消えた跡には、何もない。何もないことを確認するために、僕はもう一度目を凝らす。あるはずのないものを探す行為は、いちど始めると止められない。
窓の外、群青の天井は相変わらず動かない。動かないのに、時間だけが進む。時間の動力源はどこにあるのか。僕は胸の中の時計に耳を当てる。心臓は、声を持たないが、音はある。音は、観測されると名前になる。名前が付くと、役割が生まれる。役割が生まれると、支配が始まる。支配が始まると、誰かが眠れる。誰かが眠れると、誰かが起きていることになる。起きているのは、きっと僕だ。
朝の手前の時間、壁の色がほんのわずかに薄くなった。誰かが明るさのスライダーを一単位だけ上げたような、わずかな変化。低音は、眠りの深さに合わせて数分ごとに音階を変え、いまは、眠れないもののための音に変わっていた。眠れないもののための音は、わずかに優しい。優しい音は、警戒を緩める。警戒が緩むと、記憶が滲む。滲んだ記憶は、編集しやすい。
――キリュウ、見てる?
同じ声が、今度は耳の外で囁いた気がした。僕はベッドの端で上体を起こす。コメント欄は空白だ。空白ほど、怖いUIはない。何も書かれていない画面は、書かれる前提で口を開けている。「11番、いいね」の句点は、やはり、見覚えのある位置に落ちていた。誰の癖か。指の記憶が先に疼く。指が、キーボードを打った回数を思い出す。目は、タイムライン上のブロックを思い出す。耳は、チャイムを思い出す。舌は、金属を思い出す。舌裏の硬片は、黙っている。
僕は自分の名前を、心の中で確かめた。桐生。桐生は、ここで「十一」と呼ばれる。十一は、観客に見られる。観客は、忘れる。忘れる速さは、演出される。演出は、署名を必要とする。署名は、誰かをここに固定する。固定された誰かは、眠れない。眠れない者は、よく見る。よく見る者の視界は、よく切り出される。切り出された視界は、よく再生される。再生は、祈りの反対側にある。
レンが寝返りを打ち、夢の中の誰かの名前を口の中で砕き、飲み込んだ。彼女の呼吸は乱れていない。乱れていないのに、胸の上下は少し速い。見られている夢は、呼吸を速くする。彼女の腕の上に置かれたパネルは、もう光らない。消えた文は、どこにも残らない。残らないことが、ここではいちばん強い形の記録だ。
僕は壁に背を預け、目を閉じ、また開け、閉じた。閉じた瞼の裏には、白いバーが四本、ぼんやり浮かぶ。投票UI。十一、十二、五、九。バーは泡のように膨らんではしぼみ、十一のバーだけが、少し長い。長さに、意味はある。意味があるから、怖い。意味のあるものだけが、使われる。使われるものだけが、残る。残るものだけが、忘れられる。
その順番を、僕はまだ壊せていない。壊し方は、鏡の向こうにある。鏡は、明日、見る。見る前に、もう一度だけ、眠るふりをする。
低音が、やさしくなった。やさしさは、支配の第一段階だ。と、誰かが書いて、すぐに消した文が、胸の裏側で薄く光る。光は、音より先に消える。音は、最後まで残る。残った音は、朝の第一音に上書きされる。上書きの瞬間だけ、街の色が一段、明るくなる。明るくなった分だけ、影は深くなる。深くなった影は、顔を育てる。顔が、つく。顔がついたら、怖がり方を変えなければならない。
眠りの境目で、僕は、うなずいた。
たしかに――見ている。
見せられているのとは、違う形で。
違う形で見ることが、ここでの抵抗の最初の手順だと、いまだけは信じられた。




