第二部
第二部
私の十代は暗黒の日々で終わりを告げる。学校生活は散々だったし父が癌で亡くなりその後を追うように母が新興宗教にハマり多額のお金を巻き上げられた後失意の底に沈み自殺してしまう。不幸中の幸いだったのは母を騙していた久遠優麗会という新興宗教団体の代表であるビッグマムが詐欺容疑で逮捕されたことだろう。久遠優麗会は詐欺をして信者たちから多額の金銭を巻き上げていた。その結果信者200人が久遠優麗会に対して10億5000万円の損害賠償を求めて新潟地裁に提訴。その後全国で民事訴訟が起こされたのだ。また警視庁と新潟県警が教団施設を詐欺容疑で家宅捜索し翌年にかけてビッグマムや幹部らが同容疑で逮捕された。そして新潟地裁本判決は被告らの勧誘行為を詳細に認定した上でその違法性を認め法人に不法行為責任を認め時効の主張を排斥し出損額のみならず慰謝料の請求を認めるなど原告の全面勝訴判決となった。私は母の無念を晴らすために同じくして詐欺を受けて多額の金を失った家族たちが立ち上げた家族会から連絡を受け共にこの裁判を闘い慰謝料を手にすることができた。一応慰謝料はもらえたし示談という形で裁判は終わり私は母の無念を晴らせほっと胸を撫で下ろす。民事訴訟は解決まで通常一年ほどかかるケースが多いみたいだけど今回の一件は約半年で終着する。
そんな中一人残された私は父が残したアパートを売りに出しそこで得たお金と慰謝料を頼りに一人暮らしを始める。父が買ったマンションは高額にはならなかったけど慰謝料と合わせるとある程度まとまった金額を手に入れられそれを利用して私は二年遅れで定時制高校を卒業する。ただ大学には進学しなかった。マンションを売った費用と慰謝料だけでは大学四年間の学費や生活費は捻出できないし何よりも一人暮らしになってしまったからだ。家賃を払いさらに学費まで払うのはその時の私には不可能だった。よって私は新潟の地で安いアパートを借り一人暮らしを始める。新潟は都心とは違い比較的家賃が安いので五万円程度出せれば結構いいアパートを借りられる。
月日は流れ二十二歳になった私は以前アルバイトをしたスーパーではなく別の場所のスーパーで働き始めていた。しかし正社員ではなくパート勤務という職務形態だ。従って必然的に給与は低い。一ヶ月フルで働いて十六万円前後しか稼げない。それでもなんとかやっている。趣味に使えるお金は僅かだけど依然としてすずやんを推しているし紅葉坂46は応援している。紅葉坂46は百円ショップなどともコラボしているから推しグッズを集めるのは比較的お金をかけないでもできる時代になった。また推し活という趣味しかなかった。私にとってすずやんは全てであり彼女がいるから生きていられると言っても過言ではない。それだけすずやんにどっぷりとハマっていた。そんな中、私は生活を切り詰め東京行きの資金を貯める。季節は夏でちょうど今年の夏から紅葉坂46の全国ツアーと全国握手会が始まる。残念ながら新潟でのライブや握手会はなかったのだけど東京で行われる握手会はあったのでそこに照準を定める。本当はライブにも行きたかったのだけど握手会の後にミニライブがあるらしいから今回は握手会だけ参加することにする。ライブは定期的にあるからまたの機会にしよう。楽しみは残しておいた方がいい。最近発売されたCDには握手券付きのものが売られている。当然私はその握手券付きのCDを買う。ただ裕福ではないので何枚も買えない。しかしそれでも三枚の握手券を手に入れ私はすずやんに会う準備を着々と整えていく。
この時の私は何よりもすずやんに会うのが目的になっていてそれが生き甲斐でもあった。彼女のファンになってから何年経っただろう?幾重にも渡る困難があったけどようやく私はすずやんに会えるのだ。本当はもっと早く会いたかった。しかし両親を失った悲しみや裁判のゴタゴタ、そして定時制高校に戻っていたりしていたら時間に余裕がなくなかなか叶わなかったのである。但し今は違う。父や母を失った悲しみも幾分か和らぎ生きる目的みたいなものがあった。
父は死ぬ間際私に言っていた。「人の役に立て」と。今の私にそれができているかは判らない。しかしスーパーの仕事だって地味ではあるもののなくてはならないものだろう。人は食べなければ生きていけないから食料品を主に扱うスーパーはその存在だけで人の役に立っているのだ。父の教えどおり人の役に立てるような人間になろう。私は固く決意する。
紅葉坂46の夏の全国握手会が始まり私は東京の握手会の日程に合わせて東京へ向かう。新幹線で行くか高速バスで行くか迷ったのだけどある程度資金を貯められたので新幹線を使うことにする。スーパーの勤務は有給を使い私はいよいよ東京へ。
新潟から東京までは新幹線が便利だ。上越新幹線という新幹線が走っておりこれを使うと新潟から東京まで大体二時間前後で行ける。つまり身近な存在なのだ。新幹線はお盆の時期を若干ズレていたものの結構混んでいて自由席は比較的人で埋まっていた。道中私は紅葉坂46の楽曲を聴き過ごす。思えば彼女たちの握手会には行ったことがないのだ。ずっと応援していたけどテレビの前で応援しているだけだったから真のファンとは言えないかもしれない。しかしずっとすずやんを追い続けてきたのだ。私の中での美の象徴であるすずやんはきっと宇宙で一番美しいのだろう。他のメンバーたちが霞んでしまうくらい神々しいはずだ。
握手券は三枚ある。アイドルグループの握手会というのは主に二つに分かれている。全国握手会と個別握手会だ。全国握手会は会場に行く時間や誰と握手するのかといった点が臨機応変に対応できる。それとは別に個別握手会というものもあるのだけどこれは参加する人数が限られているので待ち時間もその分短いし全国握手会と比べるとアイドルと握手できる時間も少しだけ長い。ただ基本的には一枚の握手券で握手できる時間は三秒ほどなので本当に限られた時間しか握手できない。
私が今回参加するのは全国握手会であり三枚の握手券を使ったとしても僅か九秒しか話せない。九秒しかないのでほとんど会話などできない。握手して一言話して終わりになってしまうだろう。しかしそれでもいい。私はすずやんと話すということよりも彼女という存在を間近で見てこの目に焼き付けたいのだ。
本物のすずやんに会えれば私の灰色の人生にも僅かながら色が咲き乱れるような気がした。それこそシーズン中の満開の桜みたいに私を神々しく照らし出すだろう。
新幹線に揺られ約二時間、東京駅に到着する。幼いころに両親と東京に旅行したことがあるけど今ではほとんど覚えていない。従ってほとんど初めて東京の地に立ったと言ってもいいだろう。東京駅は新潟とはまるで違って混雑している。私の住む新潟市万代の近くでは夏に蒲原祭りというお祭りがありその時期は人でごった返すのだけどまさにそんな感じだった。毎日が蒲原祭り状態。それが東京なんだと感じる。
紅葉坂46の全国握手会は東京の晴海にある東京ビッグサイトで行われ今日は前泊する。翌日に握手会がありその後ミニライブが行われるのだ。私はどこに泊まるか迷ったのだけど高層ビルに少し憧れがあったから東京ドームの近くにある「東京ドームホテル」の予約をしていた。東京ドームがすぐそばで何らかのイベントが行われるためなのか部屋はほぼ満室で予約を取るのにかなり苦労した。それでも私のすずやんに会うという執念が身を結びホテルを予約できた。一泊だけの滞在だけど東京を満喫しよう。
どんどん楽しくなってくる。友達はいない、お金もない、彼氏だっていないし何よりも大好きだった両親を失っている。不幸のどん底にいるのにすずやんだけは裏切らない。私を陰ながら応援してくれるのだ。私が苦しい時何度彼女の歌で救われただろう。私はすずやんを応援しているけれどすずやんも私を応援してくれるのだ。
すずやんは立派に人の役に立っている。私はすずやんみたいにはなれないだろうけど少しでも彼女に近づきたいと思う。アイドルというのは素晴らしい仕事だ。人を幸せにする強い強い強い力で満ちている。私のような人生のどん底にいる人間を明るく照らし出してくれる。すずやんに会ってお礼を言おう。一言でいいから「ありがとう」と。
私が宿泊する東京ドームホテルは都心でも最大級の規模を誇る。東京ドームシティに聳えるホテルとして君臨しているのだ。調べてみると高さは155メートル地上43階建みたいだ。私が宿泊するのは高層階ではないけれど東京の景色が見れるはずだろう。
本来なら東京観光を少ししたかったのだけど金銭的にあまり余裕がないしこの辺の地理がよく判らないから私は東京駅に着いたらすぐに総武線に乗り換え東京ドームシティの最寄駅である水道橋駅まで向かう。水道橋という名前は聞いたことがあったけど行くのは初めてであるから幾分か緊張する。人の流れが早く皆急いでいるように見えた。今の時期学生は夏休みだろうけど社会人は普通に働いている。水道橋駅にはスーツ姿のサラリーマンが結構多く見られた。あとは学生らしき人間たちも姿もかなりある。この中に明日の紅葉坂46の握手会に行く人間もいるのかもしれない。
特に行くところもないので私は午後三時には東京ドームホテルに向かいチェックインする。私が宿泊するのは九階の客室で43階の高さを考えると低いけれどそれでも十分景色はよい。ビルが立ち並んでいて新潟とは違う景色が私を迎えてくれる。ここは異世界のように感じられた。新潟にも朱鷺メッセやネクスト21といった高層ビルはあるけど次元が違う。これが私がかつて憧れた東京なのだ。
大学進学は叶わなかったけど私はようやく東京に来たのだ。時間がかかってしまったけど私は嬉しくて泣きそうになる。辛いことばかりだけど明日になれば憧れのすずやんと握手ができてさらに彼女たちのミニライブを満喫できるのだ。
東京ドームホテルには当然ながらレストランがある。しかしそれは結構高いので私は節約のために近くのコンビニへ行きそこで食事を調達する。私の目的はホテルを満喫するわけではなくすずやんに会うことなのだ。だからたとえ食事がコンビニ食になってしまったとしても全く不満はない。むしろいつもは節制しているのだからコンビニ食だってご馳走のように思える。おにぎり二つとサラダとチキンとお茶を買い私はホテルの部屋へ向かう。夜になったらそれを食べて翌日に備えて早めにシャワーを浴びてベッドに入る。
翌日ー
私は朝食がつく宿泊プランを予約していたので一応朝食だけはホテルで食べられる。朝食にもいくつか種類があるのだけど私は三階にある「ブレックファスト」というレストランに行きそこでブッフェスタイルの朝食を楽しむ。とはいっても今日はすずやんに会うのだ。たくさん食べてお腹を壊したら大変なので慎ましく食事を摂る。握手会が始まる時間は午後一時、私は午前十時にホテルをチェックアウトし東京ビッグサイトへ向かう。
東京ビッグサイトまでの交通手段はいくつかあるけれどおそらく電車が一番判りやすいだろう。ゆりかもめやりんかい線といった路線があるので私はスマホを片手に調べながら東京ビッグサイトまで行く。心はドキドキしているしかなり緊張している。まるで自分がアイドルになってファンと握手するみたいな心境だ。関係があべこべになっている。
途中少し寄り道をしながらゆりかもめに乗り私は東京ビッグサイトまで辿り着く。一時間くらい前に到着したけどすでにイベント会場はかなりの人数で埋まっている。握手会は数日前に「レーン」が発表される。これは複数のレーンがあり、例えば第一レーンにすずやんがいるとしよう、その上で彼女と握手したいのなら第一レーンに並ぶという仕組みだ。すずやんは第三レーンで人気のアイドルだから第三レーンは結構混んでいる。全国握手会にはたくさんのファンがやってくるからそれだけレーンの数も多くスーツを着たスタッフらしき人間も警備や整列にあたっている。
握手会はまずは荷物チェックから行われるのだけどこれは結構しっかりしている。念入りにチェックされその次に金属探知機を使った検査があってようやく会場に入れる。時間になると握手したいアイドルのレーンに並び後は握手を待つという形だ。すずやんは紅葉坂46の中でも人気のアイドルだから彼女のレーンには異様な数の人間が集まっている。待つこと一時間くらいでようやく私の番になる。どうして握手するだけなのにこんなに待つのかというといちいち荷物のチェックなどがうるさいのだ。握手する前に荷物を預けなければならないしその後スタッフに握手券を渡す必要がある。こういう細々としたものが積み重なると結構な時間になり結果的に数秒の握手のために何時間も待つ羽目になるのだ。
とうとうこの瞬間がやってきた。今私の目の前にはすずやんがいる。彼女はメイド服のような黒とピンクのコスチュームを着ている。坂道系のアイドルはスカートの丈があまり短くないので膝が隠れるほどの長さのスカートでスカートは白や黒のレースでできたフリルが多用されたティアード型、トップス半袖だけど袖口はきゅっと窄まったパフスリーブで袖口はレースでできたフリルが多用されている。まさに天使のようなコスチュームであり私はすずやんの顔を間近で見るのが怖くなる。憧れのすずやん。私は彼女の前に立つ。しかし…
『え?』
私は固まる。
すずやんはメイクはバッチリだし目は大きくてクリっとしているし私とはまるで違う異世界人みたいなんだけど…
私がある違和感を覚えているとすずやんは私を見つめてニコッと微笑みながら
「今日はありがとうございます。この後ミニライブもあるんで楽しんでいってくださいね」
と当たり障りのない言葉を口にする。
私は一瞬戸惑うが
「は、はい、いつも応援してます。ありがとうございます」
とだけ口にする。
私が戸惑った理由はただ一つ。
「すずやんは思っていたより美しくない」
これに尽きる。
そう、私が心の中で思い描いていた理想のすずやんと現実のすずやんの間には大きな大きな大きな差があったのだ。すずやんってこんなもの?確かに顔は小さいし体はモデルのようにしなやかで瞳は大きくやや茶色の瞳が爛々と輝いている。髪の毛は少し茶色に染まっていて艶々と光り輝いているのだけど何か違う。モーツァルトの最後の作品「レクイエム」の後半は弟子が作ったと言われていてモーツァルトが作った前半部分は神がかり的であるのに弟子が作った後半部分は凡庸そのものになっているのだ。モーツァルトが作ったレクイエムの前半の神々しさが私が求めている真のすずやんだとするとちょうど今見たすずやんは弟子が作った後半部分みたいな感じを覚える。
すずやんと握手して彼女の柔らかな手のひらの感触と熱は感じ取れた。しかしそれだけなのだ。本物のすずやんは私が思っていたほど美しくない。私はショックを覚え愕然とする。もちろんすずやんはトップアイドルだしそんなトップアイドルに対してブスな私が「美しくない」なんて言うのはどこまでも烏滸がましい。けれど思ってしまったのだ。理想と現実の差に驚きながら私は握手会会場を後にした。
私とすずやんの握手はあっけなく幕を閉じる。この一瞬のために準備してきたのに気持ちを挫かれてしまったような感じだ。大好きなアーティストのライブに行ってお気に入りの曲が演奏されなかった時みたいな寂寥感を覚える。会えて嬉しいのだけど何か違う。この違いはどこからきているのか?私は見当がつかなかった。呆然とした私は握手会の後に行われるミニライブを見ずに新潟に戻った。
新潟に戻るとまたいつもの日常が始まる。しかし今度は空気が重い。憧れのすずやんが全然思っていたのと違ってこれからどうやって彼女を応援していくべきなのか迷っていたのだ。このまま彼女を応援してもいいのだろうか?私があまりにすずやんを思い続けるものだから理想が高くなりすぎてしまい予想以上に彼女を美化しすぎてしまったのだろうか?一気にやる気がなくなる。スーパーの仕事にも行きたくないしあんなに好きだった紅葉坂46の楽曲を聴く力も失せてしまっている。
それでも生活のためには働かなければならない。私はおもちゃを買ってもらうまでテコでも動かない幼児みたいな足をなんとか動かし職場に向かう。一応有給休暇を使って東京に行ったからお土産は買ってきてある。東京駅で買った東京ばな奈だけど。
いつものつまらない仕事が始まる。けれど今日は少し違っていた。仕事の休み時間に私はある人間から声をかけられる。それは私と同じパート勤務の男、杉田祐樹だった。祐樹は今年二十五歳になる青年で漫画家志望だった。私は彼の漫画を読んだことはないのだけど彼は職場の人間に漫画家志望であることを公言しておりどういうわけか店長も彼を応援していたりする。人好きするような笑顔溢れる人間でとにかく明るい。背こそ普通だけど鼻が高くルックスもまずまずよくそれなりにモテそうな雰囲気のある男だった。対して私は根暗でブスなものだから彼とはあまり関わりを持っていない。職場で会った時に軽く挨拶をするくらいの関係だ。
そんな中祐樹がどういうわけか休憩中に私に声をかけてきた。
「知立さん、東京に行ったんですか?」
彼の方が歳が上だけど祐樹は私に対して敬語を使う。
嘘をついて仕方ないし何よりも東京行きは公言していたわけだから私は正直に答える。
「はい、そうです」
「何しに行ったんですか?」
アイドルの握手会と正直に言った方がいいのだろうか?
今更アイドルオタであることを隠していても仕方ないしなんというかこの人には正直に言ってもいいのかなという気持ちになる。そこで私は正直に答える。
「紅葉坂46の握手会に行ってきたんです」
すると祐樹は
「へぇ、紅葉坂46って人気のアイドルグループですよね?俺、あんまり詳しくないですけど知ってますよ。知立さんは誰が好きなんですか?」
「私は箱推しというわけではなくてすずやん…あ、えっと宝木涼っていうアイドル推しなんです」
「あぁ、宝木涼なら俺も知ってますよ。すずやんって言うんですね。あの人可愛いし歌だけじゃなく色んなテレビにも出てますよね」
「そうです」
「でも元気ないですね。せっかく推しのアイドルに会ったっていうのに」
祐樹は鋭い。さすがは漫画家を目指すだけあって感性が豊かなのかもしれない。
「なんか私過度に期待しちゃったみたいなんです。ずっと憧れだったからすずやんという存在を美化しすぎちゃいました」「ん…つまり思い描いていたよりも可愛くなかったってことですか?」「そんな感じです。もちろん顔は小さかったしお人形みたいで可愛いんですけど私が思い描いていた美の象徴であるすずやんとは違っていたんです。それでなんだかショックを覚えてしまって」「そうだったんですね。でもすずやんという人はきっと知立さんの思い描いているような美の象徴になると思いますよ」「どうしてですか?」「変なこと聞きますけど知立さんは美しさというものはどんな時に最大になると思いますか?」唐突に祐樹は尋ねてくる。そんなこと言われても私には全く見当がつかない。私が黙り込んだのを見ると祐樹は言葉を重ねる。「散り際ですよ」「散り際?」「漫画の世界の話ってわけじゃないんですけどよく『滅びの美学』っていうふうに言われます。つまり人や集団が見せる最後の瞬間の美しさって意味です」「ごめんなさい。私漫画とかあまり知らなくて」「滅びの美学っていうのは簡単に言うと死を覚悟しながら勇ましく戦った武将や兵士たちのことを言うんです。それ以外には永遠に失われるものたちの束の間の美しさですかね。武士道によって培われた日本特有の美意識ですよ。神風特別攻撃隊って知ってますか?」「戦時中の特攻作戦ですよね。自爆して敵の艦隊を沈めるっていう」「そうです。旧日本軍によって結成された神風特攻隊は自らの命と引き換えに敵の艦隊を沈めます。まぁ自爆テロみたいなものです。これは当時の日本社会では潔いものとして賞賛されました。つまり散り際の美しさというものです。少し話がややこしくなりましたがすずやんというアイドルが最も美しなるのは散り際です。恐らく卒業を発表した時かと。アイドルって卒業しますよね?だからその時に会いに行けばきっと知立さんが理想としているすずやんという美の象徴を感じ取れますよ」
『滅びの美学』
散り際の美しさか。今まで考えたこともなかった。しかし祐樹の言葉は正しいのかもしれない。桜は散っていくから美しいのだろう。ならばすずやんだってアイドルをやめると宣言した時が最も美しくなるのかもしれない。すずやんはまだ二十二歳だから卒業発表はまだ先になると思うけれどもし仮に彼女が卒業を発表したらもう一度会いに行こう。
それ以降私は祐樹とよく会話するようになる。友達なのかどうかは判らないけど久しぶりにまともに人と話したような気がする。彼は明るい人間であり私とは違うタイプだ。だからこそ私は少しずつ彼に惹かれていく。思ったよりも美しくなかったすずやんは相変わらず応援していたけど私は祐樹ともっと親密になりたいと思うようになる。それは私がすずやんに向けていた羨望の眼差しとは少し違う。
早い話私は祐樹に恋焦がれるようになったのだ。それまで生きてきて恋などしてきていない。自分はブスだし私のような女なんて誰も好きになるはずがないという劣等感があったのだ。しかしどんな人間であっても一人では生きていけない。どこかで必ず人と繋がっている。紅葉坂46の有名な楽曲に「初恋の味はストロベリー」がある。その中に恋すると人は一人きりじゃいられなくなるという歌詞がある。これは私が高校生の時の歌だけどミリオンセラーを飛ばした彼女たちの代表曲だ。当時は歌詞の内容がイマイチ理解できなかったけど今なら判る。人は一人では生きていけない。アイドルの楽曲の中にも「恋」とか「絆」をテーマにしたものはたくさんあるし私は祐樹に恋焦がれるようになってから紅葉坂46の「初恋の味はストロベリー」を繰り返し聴くようになる。
祐樹は私をどう思っているんだろう?多分ただの同僚くらいにしか考えていないだろう。彼はルックスもいいし私のようなブスとは釣り合いが取れない。というよりも付き合っている人間がいてもおかしくはない。ただ彼はフリーターに近い人間で二十五歳を超えてもなお夢を追い続けている。夢には賞味期限みたいなものはあるのだろうか?私は少なからずあると考えている。
例えばアスリートは若くないとなれないし、幼い頃からの血の滲むような鍛錬の塊が重要になるだろう。何か新しいことを始めるのに年齢は関係ないとよく言われるけど年齢というのはある程度は大切になってくる。若くないと体力もないし新しい何かに注ぎ込める力が持たない。
祐樹がこの先漫画家になれるかどうかは判らない。私は夢の重さというものをある程度理解しているつもりだ。夢はどんな人も描くけれどどんな人も平等に叶えられるわけではない。幼い頃に思い描いた夢を叶えられる大人は本当に限られた人間だけだろう。私も幼い頃は花屋になりたいだとかパティシエになりたいとか思っていた時期もあるけどその夢は全く叶わなかった。私の夢はどこか現実に沿っているから叶う可能性はまだあるにはあるけど祐樹が追っている漫画家というのは熾烈な争いなんだろう。誰もがなれる世界ではない。それに私は高校時代の加奈子の件で夢は大抵叶わないと自覚しているのだ。加奈子は全力でアイドルに挑戦したけれど書類選考すら通らなかった。それだけ夢というものは気高いし厚い壁に覆われている。
でも私は祐樹に漫画家になってもらいたい。それに彼の描く漫画を読んでみたいと思っている。今度聞いてみようかな?どんな漫画を描いているのか。ただいいんだろうか?こんな私がそんなこと尋ねても。しかし私は少しでも祐樹に近づきたかったし少しでも彼のことを知りたかった。だから勇気を持って聞いてみよう。久しぶりに人の温もりが欲しいと感じられた。
ある日。祐樹とシフトが重なりさらに運のいいことに休憩時間も重なる。休憩室には私と祐樹だけだ。祐樹はスマホをいじっている。私は勇気を出して聞いてみる。
「杉田さんってどんな漫画を描いているんですか?」
すると祐樹はスマホをいじるのをやめて
「え、俺?恥ずかしいけどバトル漫画を描いてるかな。ドラゴンボールとかワンピースとか好きだしそういうのを見て育ったから自分でも描いてみたいと思って」
「そうなんですか、私漫画をあまり読んだことないんですけどよかった今度杉田さんの漫画読ませてもらえませんか?」
「俺の漫画が読みたいの?知立さんって変わってるね。俺の漫画なんて端にも棒にもかからない駄作ばかりなのに。俺さ今まで十作くらい漫画を描いて出版社に投稿したんだけど全然ダメでね。きっと才能ないんだよ」
「でも何か夢があってそれを続ける姿勢って素晴らしいと思います」
「そう、なら今度持ってくるよ。昔描いたのでよければすぐに準備できるから」
「ありがとうございます」
私はその日から少しずつ漫画を読み始める。祐樹はドラゴンボールやワンピースを読んできたと言っていたはずだ。どちらも超がつくほど有名だから私もその存在は知っている。ただ読んだことがないだけだ。しかしそれだけ有名になる作品なのだからきっと面白いのだろう。面白くなければファンはできない。アイドルのファンと一緒だ。応援したくなる何かがあるから人はそれについていくのだ。
よし、ドラゴンボールとワンピースを読んでみよう。ドラゴンボールはすでに完結していて全四十二巻、ワンピースは現在も連載をしており当時の段階で五十巻以上発売されていた。全てを購入するのは金銭的に厳しいため私はネットカフェに行きそれぞれの漫画を読み始める。
どちらも週刊少年ジャンプの作品でありバトル漫画の系譜だ。そして登場人物も多く友情がテーマの群像劇のようにも思えた。私はまずドラゴンボールから読んでみる。昔少しだけアニメを見た経験がありスーパーサイヤ人の存在は知っていた。髪の毛が金色になる戦士のような存在だと覚えている。ただ最初の頃はサイヤ人という設定はなく悟空という主人公が修行を通して成長し強敵を倒していくというストーリーだった。
読み始めて私はすぐに夢中になる。今までアイドルしか追って来なかったけどこんなにも面白い世界があるのだ。祐樹もこんな漫画を描いているのだろうか?もちろんまだプロではないからここまでのレベルの漫画を描けるはずはないのだけど私は密かな期待を抱いていた。しかし一抹の不安もある。それは「裏切り」だ。私はこれまで幾つかの友人関係を形成してきたけどそのどれもが失敗に終わっている。辛いイジメも数多く体験しているしようやくできた加奈子という友人は私のひょんな告白から修復不可能なほど亀裂が入ってしまい結果的に裏切られてしまう。その後は定時制高校で美月というキャバクラで働く人間と出会い一度は信頼したものの大きく裏切られた。また頼みの綱であった両親も裏切りとまではいかないけど亡くなってしまい私から離れていったのだ。
つまり私は人間関係を築くのが怖くなっていた。例え深い関係になれたとしてもまたどこかで亀裂が入り裏切られてしまうのではないか?そんな呪縛を私は抱えている。だから祐樹と友達かそれ以上の関係になれたのだとしてもその先の未来に待っているのはやはり裏切りとそれに準ずる孤独なのではないか?怖い。もう裏切られるのは嫌だ。ある意味私の生き甲斐だったすずやんにも形は違えど裏切られているのだ。彼女は私の理想とする美を纏っていなかった。滅びの美学によって散り際に神々しく美しくなる可能性はあるのだけどそれもどこまで私の追い求める圧倒的な美というものに近づけるか判らない。
一体どうして私はこんなにも美に憧れるのだろうか?その理由はなんとなく判っている。それは冒頭でも紹介したとおりきっと私がブスで美と正反対の位置にいるからなのだろう。人は自分にないものを持っている人間に憧れる。全く正反対の性格をしているカップルなんかが上手くやっていけるのはきっとそういった理由があるからなのだろう。私はブスということがコンプレックスだしもっと美しければこんなふうにイジメられなかったかもしれないしもっと簡単に友達ができたかもしれない。もちろんブスという理由だけでなく私があまりにも不器用すぎたという背景もあるのだろうけど。
ベッドの上に横になり私は祐樹を考える。彼にもっと近づきたい。今度祐樹の漫画を読むという約束はしてある。ここから関係を広げていけば私は祐樹の女になれるだろうか?それともやはりブスだから祐樹は私を拒絶するだろうか?裏切られるのは堪らなく恐怖だけど私は新しい一歩を踏み出したい。そのために祐樹ともっと親密になりたいのだ。
それから一週間が経ったある日スーパーでの仕事を終えて帰ろうとしているとそこに祐樹がひょっとやって来た。彼は今日非番だからここに来る意味がないのだけど私を待っていたようだった。彼は黒のフーテッドパーカに色落ち加工がされたデニムを穿いている。足元はナイキのスニーカーだった。いつもはスーパーの制服を着ている姿に見慣れているから私服を見るととても新鮮に感じられる。
「知立さん、お疲れ。これこの間言ってた漫画。昔描いたやつだけど結構自信があったんだよね。出版社の評価は全然だったけど。よかったら読んで」
私は大きな封筒に入った原稿を受け取り
「ありがとうございます。大切に読みます」
「そんな大袈裟だなぁ。知立さんは漫画好き?」
「最近読むようになりました。ドラゴンボールとかワンピースとか」
「へぇそうなんだ。じゃあ今度その話とかもできそうだね。俺もどっちも好きだし影響受けまくってるからね」
今度その話ができる。
私はその言葉に心が震えた。この漫画をきっかけにしてどんどん関係を深めていきたい。きっと祐樹は私を受け入れてくれるはずだ。なんというか今までの人間とは少し違うオーラみたいなものを感じている。美輪明宏に不思議な力みたいなものがあるようにこの祐樹という人間にも私を肯定し包み込んでくれる何かがあるような気がした。
自宅に戻り私は早速祐樹から預かった漫画を読む。彼はまだプロの漫画家というわけではないから恐らく画力も低いのだろうと勝手にハードルを下げていたのだけど祐樹の画力はそれなりに高いと感じられた。少なくとも完全な素人の絵ではない。細かい手足のパーツなども上手く描けているしキャラクターの表情も豊かだ。私は全く詳しくないけどトーンの貼り方にもセンスのようなものを感じられる。
彼が言っていたとおりそれはバトル漫画だった。同時にドラゴンボールやワンピースの影響を受けていると言っていただけあり戦闘シーンなどは近いものが感じられる。物語は王神という巨大な神様を倒すという話だったのだけどその神様と戦うまでにいくつか戦闘シーンがありそっちの方が長く感じられる。それでいて王神と戦うシーンはページの都合上のためなのかかなりあっさりと仕上がっていて正直読み応えがない。
私は漫画雑誌の編集者ではないしそんな経験もないのだから余計なことなど言わない方がいいのだろうけど祐樹の描いたこの漫画では採用には至らないだろう。ストーリーを進める上での起承転結のバランスがかなり悪い。何かが起こるまでにかなり時間がかかり起こってからがあっさりしすぎなのだ。しかしながら祐樹の漫画からはプロになりたいという熱意というか情熱のようなものが感じられる。
漫画家になるにはこの情熱という名の魂みたいなものが必要になってくるのだろう。となれば祐樹にだってまだ漫画家になるチャンスはあるのだと思う。彼が漫画を描き始めてからどれくらいの時間が経っているのかは判らないけど以前の話では十作以上描き上げているらしかった。漫画は小説と違い文章だけでなく絵がメインだから当然小説の執筆スピードよりも落ちるだろう。ただ連載を持つプロの漫画家の多くは一人で全てやっているわけではなくアシスタントを使いチームで漫画を描いているから高速で作品を仕上げられるのだろう。でもプロになるまでは全て一人でやるのが必然だ。それでこれだけの漫画を描けるのだから祐樹の力は大したものであると感じられる。
漫画は五十枚くらいの短編であったため大体二十分ほどで読み終える。大切な原稿だから汚してはいけない。私は読んだ後静かに封筒の中に戻しそれを机の上に置いた。漫画を読んだ感想を話したい。でも思ったままをそのまま告げてしまうと人間関係に亀裂が入ってしまうかもしれない。日本人の心は察しと思いやりだ。何もかも正直に告げるのが善というわけではないのだ。とりあえずいいところを褒めよう。この漫画はストーリー展開に難があるけど人物の造形や背景などは上手く描けていると思える。もちろんプロの目から見たらまだまだ至らない点も多いのだろうけど私のような素人が見た正直な感想は絵が上手いというものなのだからそれを告げよう。
漫画を描く人間が絵が上手いと言われて嬉しくないわけがない。何しろ絵で表現する世界なのだから画力は当然必要になってくる。よし、絵が上手くて引き込まれたと話そう。そうすればきっと祐樹も喜んでくれるだろうし次の会話の糸口になるかもしれない。
翌日ー
今日もスーパーの仕事がある。私はパート勤務なのだけど休みは少なく正社員のように働く。スーパーは普通の会社員みたいに土日が休みという世界ではない。むしろ普通の人が休む土日こそ忙しくなるのだ。だからこそ私はここ数年まともに土日を休んでいない。しかしそれでもよかった。私は独り身だし土日にどこかへ出かけるわけではない。むしろ混んでいる土日を避け平日に出かけられるのだから私はそれをメリットと考えていた。ただしもちろんデメリットもある。それはアイドルのライブになかなか行けないということだろう。アイドルのライブは平日に催されるケースは少なくたいていが休みの日に行われる。つまり私がスーパーで働いている時間にライブは行われるのだ。それでも以前見たすずやんが想像していた感じではなかったため私はそこまでアイドルのライブに行きたいわけではないのだけどそれでもライブにはライブのよさがあるだろうから一度くらいはライブに行ってアイドルの生歌を鑑賞してみたいとも思っている。それがいつになるのかは判らないけど。
職場のスーパーに行き社員さんに挨拶をしてタイムカードを切る。私の働くスーパーは深夜一時までやっており今日は夕方から最後までのシフトだ。ちょうど祐樹も同じシフトに入っており同時間を働くからそれを利用して私は漫画の感想を話したいと考えていた。
ユニフォームに着替え始業時間まで待っていると同じくして着替えた祐樹がやってくる。私はちょうど昨日預かった原稿を持っていたからそれを一目散に渡す。
「杉田さん、昨日の漫画です。読みました」
と私が言うと祐樹は照れくさそうに笑みを浮かべ
「もう読んだの?早いね」
と告げる。
スーパーのユニフォームを着た祐樹を見るだけで心がときめく。昨日の私服姿もよかったけど見慣れたユニフォーム姿もカッコよく絵になるのだ。
「つまらなかったでしょ?俺の漫画」
と祐樹。
それを受け私は昨日のシュミレーションどおり答える。
「いえ、とても絵がお上手で驚きました。私は全然上手くないですし杉田さんの絵はプロの漫画と比べても見劣りしないと思います」
「それは褒めすぎだよ。俺の絵なんてまだまだと思うし。でもありがとう。そう言ってもらえると嬉しよ」
「はい、よかったら今度他の漫画も読ませていただけませんか?」
「そんなに読みたいの?まぁいいけど。次の出勤いつ?」
「私は明日も入っています。杉田さんは?」
「俺も明日入ってるんだけど明日は十一時からなんだよね。知立さんは遅番でしょ?」
「はい、でも漫画を受け取るために早く来ようと思えば来れますよ」
「それは悪いからいいよ。そしたら今度シフトが重なった時に持ってくるよ」
「ありがとうございます」
また約束できた。これで話す口実ができる。祐樹ともっと接して彼のことをよく知りたいし私のことも知って欲しい。その日の仕事はかつてないほど嬉しさが込み上げ私を抑揚させた。
祐樹と少しずつ話すようにはなったのだけど同僚という関係から一向に進展しない。恋愛関係に発展させたいという夢もあるのだけど私みたいなブスが祐樹みたいな男と付き合えるわけがない。でも友達にならなれるかもしれない。男女の友情はないという人間もいるけれど私は男女の間にも友情はあるような気がしている。それはきっと私が友情というスパイスに恋焦がれているからそう感じているだけなのかもしれないけど。
祐樹と話すために私は色んな漫画を読んだ。漫画を発売している出版社は数多くあるけれど私はとりあえず週刊少年ジャンプから攻めてみる。ドラゴンボール、ワンピースを読んだから次はナルトを読んだりブリーチを読んだりハンターハンターを読んだりした。どれもバトル漫画だけど面白い。夜な夜なネットカフェに行き漫画を読む日々が続く。そしてとうとう祐樹とシフトが重なる日がやってくる。
それは最初の漫画を返してから五日ほどだったある日のことだった。その人はどちらも遅番で夕方からの勤務だ。一応月末に配られるシフト表を確認していたしその日がとても楽しみで遠足を夢見る小学生のような気持ちで今日を迎えた。
職場に行くとすでに休憩室に祐樹がユニフォームに着替えて座っていた。髪の毛に少し寝癖がついていたけどそれさえも愛らしい。私は社員さんに挨拶をして更衣室でユニフォームに着替えて休憩室へ向かう。
「杉田さんおはようございます」
と私は言う。
すでに夕方だけどこのスーパーでは大抵出勤した時おはようという挨拶で始まる。
「うん、おはよう。漫画持ってきたよ」
と祐樹。
「ありがとうございます。楽しみにしていました」
「知立さんってホント変わってるね。俺みたいな素人の作品を読んで楽しんでいるんだから。まぁそれはありがたいんだけど俺の漫画ってそんなに面白いものじゃないだろ?面白かったらきっと出版社から声がかかるだろうし」
「面白いと思いますよ。確かにプロに比べれば劣る部分は多いかもしれませんけど漫画家志望の中では優れていると感じます。それに何より絵がお上手ですから。プロの漫画家でも下手な人はいますから画力だけなら杉田さんはすでにプロ顔負けだと思います」
「ふふ、ありがとう。そんなふうに言ってくれるのは知立さんだけだよ。ありがたいなぁ。励みになるよ。でもさ、今度渡す漫画は正直な感想が欲しいな。俺の作品はそんな褒められるものじゃない。それは自分でも判っているんだ。何かが足りないってね。だからさ知立さんからは正直な感想が欲しいんだ。それが自分の欠点を探すのに役に立つと思うから。まぁ面と向かってつまらないと言われると結構ショックを覚えると思うけどね。だからソフトな感じで正直な感想を教えてくれるとありがたいかな」
「判りました。私そんなにたくさん漫画を読んできたわけじゃないですけど素人の目線で気になるところがあれば今度をそれを言いますね」
「ありがとう。今日も仕事頑張ろうね」
また会話できた。私は嬉しくなる。祐樹と話すと氷のように固まった南極の氷河みたいな心がじんわりと溶け出していくような気がする。それにモリッと力が湧いてくるのだ。私は恋をしているのだろうか?今までこんな感情になったことはない。友達らしき人間がいた時楽しいなと思えた瞬間はあったけどその時の感情と今の感情は全く違っている。祐樹の言葉を聞いているだけで強くなれる気がするのだ。
スーパーの仕事は単調だ。私はレジ業務が主だけどそれ以外に閉店前の店内の片付けなんかをしたりする。対して祐樹はレジ以外にも青果や肉魚などの生鮮食品の管理なんかも担当しているから結構忙しそうに働いている。店の中を慌ただしく動く祐樹の姿を私はレジを打ちながら眺める。すでにレジの仕事は慣れきっているから他のことに気を取られていたとしてもそれなりにこなせるのだ。
私の住む新潟市万代は新潟の中心だけど東京に比べればかなり小さい。従って夜の客の数は高が知れている。というよりもほとんど人は来ない。だから五つあるレジのうち四つは精算処理をして片付けて残り一台だけを動かしている。ゆったりと暇な時間が流れる。閉店間近のこの暇な時間帯が私は結構好きである。ほとんど人のいないスーパーの中を貸切にしているような気持ちになるからだ。
閉店のアナウンスが流れ最後の客のレジ打ちを終えると残ったレジの精算処理をしてその日の勤務は終わりになる。遅番で最後まで残るのは社員さんが一人と私と祐樹の二人だけだったから着替えを済ませて店を出る時私は祐樹と一緒にいた。普段一緒には帰らない。というよりも祐樹がどこに住んでいるのか知らない。私はこのスーパーから徒歩で十分以内だけど祐樹は遠いところから来ているのだろうか?
「お疲れ様です。杉田さん」
私は店の前で自転車に乗ろうとしている祐樹に声をかける。手には彼から預かった漫画の原稿を抱えている。
祐樹はにっこりと笑みを浮かべる。仕事で疲れているはずなのにその笑顔はボーナスをもらった時のサラリーマンみたいに穏やかだ。
「お疲れ、知立さんていつも徒歩だけどここから近いの?」
「はい、近いです。杉田さんは?」
「俺も近いっちゃ近いんだけど歩くの面倒だからチャリで来てるんだ。それじゃ漫画の感想よろしくね」
「はい、お任せください」
そう言い私たちは別れる。
本当はもっと話していたい。これから二人で深夜のファミレスに行って漫画やアイドルの話ができたらどんなに幸せだろう。けれどそれは過ぎたる願いだ。今は漫画を読んで感想を言うという関係だけでも満足しなければならない。
祐樹と別れ私は一人家路に就く。季節は秋になり夜になると肌寒い。私は着ていた上着の襟を立てて自宅までの道を歩く。早く祐樹から預かった新しい漫画が読みたい。
自宅に戻るとシャワーを浴びる。さっぱりとしてから部屋に戻りそこで祐樹の漫画を読む。私は大抵遅番の勤務が多いから夜寝るのは深夜三時くらいになる。そこから午前中は寝ていて起きるのはお昼過ぎだ。今回祐樹から預かった漫画は彼の第何作目の作品なのかは判らない。しかし前回見たものよりも画力が幾分か上がっているようにも感じられる。頭身のバランスや戦闘シーンのアクションポーズなどはよく描けていると思う。ただ読み始めて思ったのはストーリーがあまり魅力的ではないということだ。人気漫画には読者をグイグイと引っ張っていく物語の力みたいなものがあるけど祐樹の描いた漫画からはそれが感じられない。突き詰めると退屈な漫画なのだ。確かにバトルシーンはあるしある程度盛り上がるのだけど既存作品の二番煎じのような感じがしてしまう。せっかく画力があるのにストーリーがつまらないから持っている力を最大限に発揮できないのかもしれない。
とはいうものの、恐らくストーリーを考える方が難しいだろう。画力というものは作品を描き続けていけば誰でも上手くなる。連載を持つ漫画家が初期の頃と終盤の頃で画力に変化が見られるのは描き慣れて上手くなったからなのだろう。だから漫画というものは一定の画力は必要であるとは思うのだけど大切なのは物語の方なのかもしれない。漫画原作者という言葉があるとおり漫画の世界にはお話を考える人と絵を描く人が別々というケースがある。それはきっと漫画原作者という絵を描かない人の想像力が豊かでお話を引っ張っていく力があるからなのだろう。逆に絵は描けるけどお話が作れないという人も多いのかもしれない。となれば祐樹にも漫画のストーリーを考える人を探してその人とコンビを組んで漫画を描けばもしかすると大成するかもしれない。
しかしながらそんなに簡単に漫画原作者が見つかるわけじゃない。その役目を私がしたいというところだけど残念ながら私には漫画のストーリーを考える力はない。私には何の力もない。ずっとイジメられてきたし学力だって高いわけではない。何とか定時制高校は卒業したけれど大学に行ったわけではないから何か人よりも秀でているものがあるわけではないのだ。ストーリーってどうやって考えればいいんだろう?少し漫画から離れてみるのもいいかもしれない。例えば小説を読むとか。小説は文字だけで構成されているから絵に頼れない分物語の構成力がかなり重要になるだろう。私はあまり小説を読む方ではないけれど本屋大賞とか直木賞とかそういうのはある程度知っているし年に数冊本を読むことだってある。私は東野圭吾や伊坂幸太郎とかが好きだけど彼らの書いた物語を読んでいけば漫画に活かせる何かが生み出せるかもしれない。今度会った時にそれを提案してみようかな?けど私みたいなブスがいちゃもんをつけるみたいに言ったら気を悪くするかもしれない。しかしながら祐樹は正直な感想が欲しいと言っていたはずだ。なら正直に言ってみよう。そして今度スーパー以外で会う約束をしてみるのだ。勇気を出して。
祐樹の漫画を受け取りそれを読んだ数日後私は祐樹と同じ夕方からのシフトになりそこで漫画を返却するのと同時に読んだ感想を正直に告げる。
「杉田さん漫画読みました」
私が言うと祐樹は笑みを浮かべながら答える。
「ありがとう。で、どうだった?」
幸い仕事が始まるまでまだ時間がある。少しくらいなら話せるだろう。
「絵はとてもお上手です。でもストーリーに魅力がないというか惹きつける何かが足りないような気がします」
「やっぱりそうだよね。俺もストーリーを考えるのには苦戦しているんだ。絵はある程度上手くなったかもしれないけどストーリーを作るっていうのは才能が左右する面も大きいからね。俺には素質がないのかもしれない」
そう言うと祐樹はふんと鼻を鳴らしその後静かにため息をつく。
何か励ます言葉を言わなくては。
「でも絵が上手いというのはすごいと思いますしつまらないわけではありません。ちょっとしたきっかけがあれば進化するような気がします。あの杉田さん、漫画じゃなくて小説とか読みますか?」
「小説?あんまり読まないかな。漫画はかなり読んできたんだけど」
「漫画だけじゃなくて小説を読んでみるといいかもしれません。小説家はお話を作るのが上手いですから」
「まぁそうかもしれないけど。どんなものを読んだらいいんだろう?」
「古典的名作を読む必要はないと思います。ああいうのは教養を身につけるために読むものだと思います。でも物語を作る力を養いたいのなら今売れている小説を二、三冊買ってみてそれをじっくり読んでみるといいかもしれません」
「そうだね。たまには漫画から離れると新しい発見があるかもしれない。ありがとう」
「後は映画とかもいいかもしれませんね」
「映画は割とよく観るかな。映画館とか好きだしね」
「そうですか。映画もストーリーを作る力をつけるためにはとても大切になると思います」
「ありがとう。知立さんはいい人だね」
「いえ、私でよければ色々協力させてもらいたいですし」
「そう、でも漫画を作るのは俺の仕事だし知立さんにはあまり迷惑をかけられないよ」
「そんな!迷惑だなんて思っていません。むしろ嬉しいんです」
「嬉しい?どうして??」
私は少し沈黙する。正直に告げてもいいものかと迷ったからだ。しかし相手を信頼しなければ自分の信頼は得られないと思い私は正直に胸のうちを答える。
「私これまであまり人と話してこなかったっていうか友達とかも多くないですし。だからこうやって共通の話題を持って話せる人間がいることが嬉しいんです。迷惑じゃなかったからこれからも漫画を読ませてもらいたいのですがいいでしょうか?」
私の正直な言葉を祐樹は真剣な眼差しで聞いている。彼はどう思っただろうか?私みたいなブスがこんなどうしようもない話をしたから引いているだろうか?
「そっか、知立さんも苦労してるんだね。じゃあまた今度漫画読んでもらおうかな。実はさ漫画のコンテストに送る用の作品を作っているんだ。それが出来上がったら投稿する前に知立さんに読んでもらって正直な感想をまた教えて欲しい。いいかな?」
「もちろんです。新しい漫画楽しみです」
心の中にポッと火が灯ったみたいに暖かくなる。これが人の温もりであり私が憧れている人間関係の始まりなのかもしれない。
ある日仕事が始まる前に私は少しだけ職場の休憩室で店長と会話した。その時店長はこう言ったのだ。
「知立くん、最近杉田くんの漫画読んでるんだって?」
その言葉を受け私は答える。
「はい、読みました」
「正直どうなの?彼の作品、俺さぁ彼を応援しているからぜひ漫画家になってもらいたいんだよね」
「絵はとてもお上手です。ただストーリーに少し課題があると感じますけど」
「それってつまらないってこと?」
「ち、違います。そうではなくて物語の起承転結があまり上手くないんです。だからそこが問題になっているんだと思います」
「へぇなるほどねぇ。いや教えてくれてありがとう。今日も仕事よろしくね」
店長はニヤッと人の不幸を笑う昼ドラの主婦みたいな顔をして去っていく。
残された私はレジ打ちの仕事に向かう。最近は祐樹に会えるから仕事が楽しい。これって恋なんだろうか?
人を好きになる。その経験は私にはある。もちろんその相手は私の絶対的な美の象徴であるすずやんだ。しかし彼女は私の理想どおりの人間ではなかった。どうしてなのかはよく判らない。ただ本物のすずやんは私の思い描いている美しさとは違っていたのだ。それでも私は依然としてすずやんを推している。なぜならたとえ私の思い描く美とは違うのだとしても彼女はいつも私を救ってくれたからだ。友達に裏切られて辛い時、定時制高校でお金を騙し取られた時、両親を失った時、その時々で私は彼女の歌を聴き映像を見て励まされたのだ。すずやんほど高貴な人間は他にいない。すずやんこそ私の全てなのだ。でも今はそんなすずやんに匹敵するほど大切にしたい人間がいる。それは祐樹だ。彼と一緒にいると心がポカポカする。今までこんな気持ちになったことはない。私はブスだから恋なんてしても実を結ばないと勝手に思っていたのだけど今はそんなことを全てひっくり返すくらいの力を持って祐樹に近づきたい。今は彼の漫画を読むだけだけど一緒に映画も行きたいしアイドルのライブにも行きたい。もちろんそれが過ぎたる願いだとは判っているけど私は祐樹への想いを断ち切れないでいる。というよりも日を追うごとに大きく大きく大きくなり私の心を圧迫していくのだ。
すずやんとはまた違った形の感情だけど私は確かに祐樹が好きなのだ。
祐樹と会うまで私の頼りはすずやんだけでそれ以外は灰色の時間が流れていた。一日中ダミアの暗い日曜日が流れている感じで私の人生は暗黒に近かった。仕事もつまらない。スーパーのレジ打ちの仕事は正直な話誰でもできる。つまり私でなくてもいいのだ。もっと責任のある夢を与えるような仕事に就きたい。そして父の遺言でもある人の役に立てるような仕事をして幸せになりたかった。でもスーパーの仕事は私の理想とはかけ離れている。ピッピッとバーコードをスキャンするだけの仕事。だからこそ仕事に行くのが辛かったし生き甲斐みたいなものが欲しかったのだ。しかしながら祐樹に会って彼の漫画を読んで話をするという一連の流れが生まれる。それは私の灰色の人生にキレイに咲く紅い薔薇の花のように色を与えてくれた。今は毎日が楽しく感じられる。人は恋をすると変わるという話があるけれどそれはあながち間違いではないのかもしれない。
私のか細い恋を後押ししたのはやはり他でもないすずやんだった。すずやんがセンターを務める紅葉坂46の新曲がまさに恋をする少女の気持ちを歌っているのだ。私はすでに二十歳を超えているから恋に恋するという時期は終わっているかもしれないけどこの新曲を聴き勇気を出して祐樹をデートに誘ってみようと考える。もちろん断られる可能性だってあるだろうしむしろそっちの方が高いはずだ。けれど今までずっと不幸だったのだから少しは神様が応援してくれて祐樹とデートできるかもしれない。彼は映画が好きだと言っていたから映画に行くのはどうだろう?私は口下手で上手く相手と話せないけれど一緒に映画を見てその後感想を言い合うくらいだったらできるかもしれない。そうやって少しずつ祐樹との関係を深めていきたい。
再び祐樹とシフトが重なる日がやって来る。どれだけこの日を待っただろう。こんなにも仕事に行くのが楽しいと思えるなんて今までなかった。私はメイクとかはしないけど少しは覚えて女らしくした方がいいのだろうか?そっちの方が祐樹も喜んでくれるだろうか?私は着替えを済ませて職場であるスーパーに向かう。
季節はいよいよ冬になる。新潟の冬は雨が多く雪もちらつくことだってある。ただ私の住む万代は中心街だから雪が降っても山の中みたいにどっさり積もるってケースはそんなにない。これから嫌な季節になるなと思っていたのだけど心の中では祐樹に会える喜びで満たされていた。
職場につき更衣室でユニフォームに着替えタイムカードを切る。休憩室に行くとすでに祐樹はいてスマホをいじっている。彼は私が休憩室に入ってくるのを見るなりにっこりと笑みを浮かべて挨拶する。
「知立さん、おはよう」
「おはようございます」
と私も元気よく答える。例の漫画はできたのだろうか?いやまだだろう。漫画っていうのはそんなに早く執筆できないはずだから。私の脳内で紅葉坂46の新曲が流れる。この曲が私を何度だって勇気づける。祐樹を映画に誘うのだ。しかしその前に仕事が始まってしまう。よし仕事が終わったら誘ってみよう。
仕事中は悶々とした気分で過ごす。誘ってみるのはいいのだけどもし断れたらどうしようという不安ともしもOKだったらという期待感で渦巻いている。こんなにも終業時間が待ち遠しい日はなかった。やがて午前一時を迎え閉店の準備をして店を片付ける。私はレジ番だからレジの清算処理をしてきちんとお金が合っているかチェックし無事確認し終えた後業務日誌を書いて休憩室に行く。そこにはすでに着替えを済ませた祐樹が待っていた。私は軽く会釈をすると素早く更衣室に戻りそこで着替えて休憩室に行く。あとはタイムカードを切って帰るだけだけどまだここには社員さんが一人いる。だから店を出てから誘ってみよう。
社員さんが店の鍵で施錠し私たちは職場を後にする。店の前の駐輪スペースには祐樹の折りたたみ自転車が置いてある。私は素早く動く。紅葉坂46の曲が私を鼓舞してくれる。
「あの杉田さん」
唐突に私が言ったものだから祐樹は驚いている。
「ん、何か用?」
「え、えっとよかったら今度一緒に映画行きませんか?それで漫画のストーリーの話もしたいですし」
…しばしの沈黙。
祐樹は少し困った顔を浮かべながら
「う〜ん、ごめんね。俺色々忙しいから知立さんとは映画に行けないよ。もし時間があったら考えておくから。ごめんね」
「え、あ、あぁそうですか。そうですよね。杉田さんは漫画を描くのが忙しいですもんね。私の方こそごめんなさい。急に誘ったりして」
「いやいいけど。それじゃ知立さん、お疲れ様でした。また今度ね」
そう言うと祐樹は自転車に乗って夜の闇の中に消えていく。残された私は圧倒的な沈黙の中に放り込まれる。この沈黙は高校時代加奈子が私に別れを切り出した時に似ている。思い出したくない負の記憶。それが今まざまざと鮮明に思い起こされる。私は玉砕した。恐らくこの先祐樹との関係が進展することはないだろう。私は恋に疎いけどそのくらいは判る。祐樹にとって私はただの同僚でありそれ以外何者でもないのだ。もし仮に祐樹が少しでも私に好意があるのなら今回の提案を受けたはずなのだから。これで祐樹の恋人になるという夢は潰えた。夢はいつだって叶わない。夢は夢だから淡く光り輝くのだろう。
冷たい冬の風が私の頬を打つ。微かだけど雨が混じっている。傘を持っていないから早く帰らないと。そう思うのだけど私の足は鋼鉄の鉄球を付けられた奴隷のように重かった。
自宅に戻り鬱々とした気分のままシャワーを浴びる。なんだか涙が出てくる。私は誰にも必要とされていないのではないかという思いが頭の中をぐるぐると回る。人はどこかで人と繋がっていたいし人から必要とされたい。それが人の本質なんだと思う。でも今の私は誰が必要としているんだろう。たとえ私がいなくなったとしても誰も困らない。人の価値は自分のお葬式で泣いてくれる人間の数によって決まるみたいな話があるけど多分私が死んでも誰も涙を流さない。親戚はいるけれどここ数年会っていないから私が死んだら直葬という形で葬られるだろう。虚しい切ない寂しい。負の感情が私を取り巻き形容し難い恐怖に襲われる。
「すずやん助けて」
翌日ー
直接的ではないにしろ祐樹にフラれてしまった私はどんよりとしたオーラを纏い昼過ぎにようやく目覚める。どうして私じゃダメなんだろう。その理由はなんとなく判る。きっと私がブスだからだろう。たとえば私がすずやんみたいにキレイだったから世の男性は私の虜になるかもしれない。もちろん私の理想としているのは私が直接会った時のすずやんではないのだけどそれでもすずやんはキレイなのだ。それはそうだろう。何しろ彼女はトップアイドルグループでセンターを務めるほど人気なのだから。アイドル志望は数多くいる、そしてアイドルもたくさんいる。そんな群雄割拠のアイドル戦国時代の中トップをいくのがすずやんなのだ。彼女は私のようなブスとは違う。特別な存在なのだ。私もキレイになりたい。でもそれが無理だというのも判っている。しかし今日ほどすずやんに憧れた日はかつて存在しなかった。
祐樹がダメでも私にはすずやんがいる。
「そう、すずやんがいる…」
祐樹に拒絶されて以来、私は仕事に行くのが嫌になってしまう。それでも行かなければならない。なのに顔を合わせるのが辛い。それは恐らく祐樹も感じ取っていたのだろう。彼は以前みたいに私に声をかけてくることがなくなった。最低限の挨拶はあるのだけどそれ以上にはならない。だからこそ私は職場にいるのが辛い。まただ。いつもこの繰り返しだ。親密になろうとすればするほど相手から拒絶される。私の何が悪いのだろう?私はこのまま孤独で過ごしていかなければならないのか?
ある意味孤独は力を生み出す。岡本太郎は孤独を恐れるなと言っているし、孤独はクリエーションの源泉になるのだろう。しかし私はクリエイターではない。なんの取り柄もないただのスーパーのレジ打ちだ。そんな私に孤独が持つ力は必要ない。というよりもこれ以上孤独になるのは嫌だった。けれど私は孤独という名の星に愛されているのかもしれない。人に近づこうとしても拒絶され結局いつも一人になる。そのような私を陰ながら支えるのがすずやんだけど彼女は私の理想とは違っている。私が求めている美しさを纏っていないのだ。
私の日常が再び色を失うとさらに追い打ちをかける事件が起こる。その発端は祐樹が握っていた。
「知立さんってさ、ずっとこの職場にいるの?」
ある日、唐突に祐樹からそう言われた。
私は答える。
「判りません。でもなんでですか?」「なんかさ、俺と知立さんってあんまり相性がよくないっていうか合わないと思うんだよね。俺といて辛いでしょ?」「そ、そんなことは」「嘘だよ。俺さ正直に言うと知立さんとこれ以上あんまり一緒にいたくない」「この間の漫画の話はどうなるんですか?コンテストに送るから私の意見が欲しいって言ったじゃありませんか」「確かに言ったけどもういいんだ。君って実は裏で俺の漫画をコケにしてるみたいだね。だからもう漫画を見せないしこの仕事を辞めて欲しいんだ」なぜこんな展開になる?私は焦りながら「私杉田さんの漫画をコケになんてしていません」「嘘だよ。店長に俺の漫画がつまらないって言ったらしいじゃん。俺この間店長にそれとなく言われたんだよ。酷いよ知立さん、信頼してたのに。俺は君みたいな人とはもう一緒にはいたくない。だから辞めて欲しいんだ」「どうして私が?あ、あなたが辞めればいいじゃないですか」「それはできない。俺さ今度このスーパーの社員に昇格するんだ。実は結婚が決まってていてね。だから俺はこの職場に残る。でも君がいると俺は嫌だ。だから辞めてくれ」結婚する。そのフレーズは私を愕然とさせる。だから私は拒絶されたのかもしれない。「私がブスだからですか?」と私はわなわなと震えながら言う。すると祐樹は困った顔をしながら「は?」「私がブスだから拒絶するんですか?」「そうじゃないけど。でも合わないよね」「でも漫画を読ませてくれました。私嬉しかったのに」「確かに君を信頼して漫画を読ませたけど君はその好意をズタズタにしたんだ。それに変に好意を持たれているみたいでちょっと困っていたんだよね」「私を追い出して自分だけ幸せになるんですね」「違うよ。君だってギクシャクしたままじゃ辛いだろ?知立さんはまだ若いし、他の仕事にも挑戦した方がいいと思うんだ。若いってそれだけでいろんなことに挑戦できるから」「嫌ですよ。私はこのままここにいたい」私が駄々をこねると祐樹の穏やかだった顔が百八十度変わる。「辞めろって言ってんだよ。ブス!人が下手に出てやってんのに。いいか、教えてやるよ。この職場でお前を好きな奴は一人もいない。みんな迷惑してるんだ。お前の存在に。だから辞めろ!」
その言葉は私の精神を粉々に砕いた。店長と私は祐樹の漫画の件で話した時があった。恐らくあの時の私の表現を店長が間違って捉えたのだろう。しかし結果的にその勘違いが圧倒的な亀裂を生んだのだ。
また裏切り。そして輪廻のように回る孤独の始まり…
どこに行っても私は一人なのだ。空虚な存在でありそれはまるでそこにいるのに存在していないような感じだ。祐樹だけでなく職場の人間皆が私を嫌っている?もちろんそれは祐樹が怒りで我を忘れた際に発した戯言かもしれない。仮にそれが本当だとするとその理由が判らない。私がブスで気持ち悪いからなのだろうか?それとも私には見えず他の人にだけ判る致命的な人間的な欠陥があるのだろうか?いずれにしてもこの職場に私の居場所はない。約二年ほど働いた職場であったけど辞める時は一瞬だ。私が退職届を持って行った時店長は少し私を見ただけで引き止めようとはしなかった。きっと心の中では私がいなくなって清々しているのかもしれない。
一体どうして私はこんなにも不幸なのだろう。もっとキレイな人間に生まれればこんな不遇の時代を過ごすことだってなかったはずだ。もう私は死にたい気持ちでいっぱいだった。そんな私を辛うじて支えていたのはやはりすずやんだ。彼女の歌声だけが私の心にしっとりと染み渡り生きる希望を与えてくれる。サウナに三十分ほど入ってその後水風呂に浸かったような爽快感があるのだ。しかし同時に激しい恐怖もある。
それはすずやんに裏切られたらどうすればいいのか?ということだ。確かに本物のすずやんは私の想像していた美しさはなかったけどそれでも私の生きる糧なのには違いない。もしもすずやんがアイドルを卒業し芸能界からも引退してしまったらそれこそ私の生きる希望はなくなってしまう。これだけ応援しているのだからすずやんだけには裏切られたくない。私にとってすずやんは最後の砦なのだから。
その昔私はアイドルの存在意義を人を幸せにするか否かで考えていた。そしてそれは今でも変わっていない。アイドルは人を幸せにして感動させなければならない。同時にアイドルを応援すればいつか私にも幸せの粒みたいなものが降り注いでくると思っていた。
現実は厳しく私はどこに行っても拒絶されるだけの存在だけどアイドルだけはいつも私を応援してくれる。心の支えになる。このまま死んでしまいたいと思った時すずやんの歌を聴きダンスを見ているだけで力が湧いてくるのだ。まだ死ねない。挽回できる。その可能性は限りなくゼロに等しいとしても可能性がないわけではない。私にだって人並みの幸せが訪れる時だってあるはずだ。その日が来るのを信じて今までやってきたけどその願いは全く聞き届けられない。果たしてこのままアイドルを応援していてもいいのだろうか?最早アイドルにすら裏切られているのではないか?そんな絶望に近い闇が私の周りに漂い始める。
圧倒的な孤独の中私は自宅で人知れず泣いた。
泣くと幾分か気持ちは晴れるけど状況が好転したわけではない。私はスーパーの仕事を辞めてしまっているから今無職なのだ。一応パート勤務でも一年以上雇用保険に入っていたのでハローワークに行けば失業手当が一定期間出る。その間に仕事を見つければいいのだけど私には新しい仕事をしていこうという気力がなかった。どこに行っても拒絶されるなら最初から何もしない方がいいのではないか?そんな風に生きる希望を打ち砕かれている。それでも働かなければならないのだろう。そうしないと生きていけないし生きていく以上人は働く必要がある。今度は一人でできる仕事をしよう。
祐樹に裏切られた心の傷が癒えるまで私は自宅で静養していた。働く気が起きないし鬱に近い症状があったからとてもではないけど働けない。しかし裏切りから二年ほど経つと少しずつ心の傷も癒えてくる。とっくに失業手当の期間も終わっているし辛うじて残っていたわずかな貯蓄を切り崩したり単発の仕事をこなしながらこれまでやってきたのだけど一年ほど前からWEBライターの仕事を始めそれを細々と一人でやっている。今はネット社会だからWEB上の記事を書く機会は無限に近い数存在する。私はクラウドワークスというクラウドソーシングのサイトに登録しそこでライティングの技術をある程度身につけた後、運よくアイドルの情報を掲載しているサイトの専属ライターの仕事が決まりそこで仕事をするようになる。WEBライターの仕事は基本一人で行う。仕事を発注してくれる依頼者はあるのだけど実際には会わない。全てチャットワークというアプリ内で仕事が管理されて依頼通りの記事を書いて納品すれば一定の金額がもらえる。ただし、WEBライターの仕事は薄給だ。名前を出して活動するWEBライターになると一定の金額がもらえたりするけどそれでも少ない。私は名前を出して活動しているわけではなく半ばゴーストライターのような役回りなので賃金はかなり少なくなる。月に百記事ほど書いてようやく十万円くらいになる恐ろしく低賃金の世界だ。
しかし私にはこれが合っている。煩わしい人間関係はないし仕事は一人で行う。それに好きなアイドルの記事を書けるからそんなに苦痛ではない。アイドルについて調べて書いてそれでお金をもらう。もちろん給与は少ないけど新潟は地方都市なので月々十万円前後の給与でも節制すれば生活できないわけではない。無論最悪の場合は生活保護に頼ればいい。しかし恐らく私は病気ではないし働く能力がある人間とみなされるため生活保護の申請は難しいかもしれない。少なくともしばらくはこの仕事を続けていこうと思う。
アイドルの歌を聴きながら執筆作業に勤しむのはそれほど苦痛ではない。毎日三記事から五記事ほど書く必要はあったけど私はアイドル以外趣味がないので生活のほとんどの時間を執筆に充てたとしても何ら不都合はない。寝る時間と食べる時間、そしてわずかな休憩時間があればそれで問題なく生活できる。同時にここでも私を支えたのはすずやんだった。すずやんがいるから頑張れる。いつしか私はもう一度すずやんに会いたくなった。きっとその時は前回みたいな肩透かしは喰らわないだろう。すずやんはどんどんキレイになっている。私の想像の中のすずやんは誰にも負けない神々しさを纏っているし現実のすずやんだってきってそれに負けないくらいの美を放っているはずだ。今はもう一度すずやんに会うのを目標にして頑張ろう。私は今確かに生きている。すずやんの声を聞き私は笑みを浮かべる。なんだか久しぶりに笑った感じがする。
「そうか、私まだ笑えるんだ…」
いつまでこんな日々が続くんだろう。どうして私はこんなにも不幸なんだろう。日本は治安もいいし福利厚生もしっかりしているけど私はどん底にいる。頼りにできる人間もいないしもちろん友人だっていない。常に一人だけどそれも慣れた。むしろ一人の方がいいのかもしれない。私はどこかで人に飢えているけど近づけば拒絶されるの連続だからもう疲れ切っている。すずやんにも拒絶されてしまうだろうか?すずやんと私はアイドルとファンという関係だから成り立っているのだろう。今のアイドルはファンを大切にする。もちろん昔のアイドルがファンを大切にしなかったわけではないのだけど現代のアイドルは会いに行けるがコンセプトだからアイドルとファンの距離が近いのだ。友達を応援するような感じで推しを作れる。特に大量の数のアイドルがいるからその中から自分のお目当てを見つけるのはそこまで難しくはない。そしてアイドルとファンの関係は互いが応援し合う関係だ。アイドルだってファンに励まされることだってあるだろうし、ファンはもちろんアイドルに励まされている。つまり相関関係なのだ。でもそれはアイドルとファンだから成り立つ関係ですずやんがもしもアイドルではなくて私の近所にいる普通の女だったら多分私と付き合ってくれないだろう。すずやんは私がファンだから笑顔を向けてくれるし応援してくれるのだ。きっとアイドルでなくなってしまったら私との関係は完全に断ち切られてしまう。それは嫌だ。すずやんがいなくなった時それは私の人生の終幕を意味していると言っても過言ではないのだから。
私の恐れはすずやんがアイドルを辞める時だ。しかしそれは着実に近い将来やってくる。女性アイドルグループは新陳代謝が激しく十代でデビューして二十代の中盤になったら卒業するのが一般的だ。もちろん三十歳を過ぎてもアイドル活動をしている人はいるにはいるけどそれは限りなく少ない。すずやんはアイドルとしての活動以外にも役者などもやっているからアイドルを卒業したら女優や歌手になるかもしれない。そういう方向に行っても活躍できる才能がある。すずやんは今二十四歳。二十四歳は世間で見るとまだかなり若いけど女性アイドルの中ではベテランになる。そして二十四歳で卒業するアイドルも少なからずいるのだ。長い人生設計を考えた時アイドルでいる時間はごく限られた時間だけだ。そしてアイドルを終えた後の時間のほうが圧倒的に長い。つまり、すずやんは卒業が近い。アイドルを卒業する。それは現実のものになるかもしれない。
アイドルの記事を書いて生計を立てているから紅葉坂46だけでなく他のアイドルグループの情報にも詳しくなったのだけど、とうとう恐れていた瞬間がやってくる。すずやんが今年いっぱいでアイドルを卒業すると発表したのだ。二十四歳での卒業は比較的早いけど恐れていた時がやってくる。そしてさらに不幸なのはすずやんはアイドルを卒業した後芸能界に残るのではなく芸能界をも引退してしまうのだ。つまり芸能人から一般人へ戻る。となると芸能人とファンという私たちの関係はベルリンの壁の如く崩壊してしまう。とうとう私はすずやんにも拒絶されてしまう。思えば拒絶の連続の人生だった。あんなに憧れたすずやんが消えてしまう。私はボディビルダーに握りつぶされるみたいに縮こまった。すずやんが消えたら私は生きる意味がなくなる。もう死のう。どうせ何もないのだから。…と私が最悪の未来を考え始めた時テレビの先で卒業を発表したすずやんが神々しく光り輝き始めた。同時にその荘厳たる姿はまさに私が理想としていた圧倒的な美を放つすずやんそのものだったのだ。レオナルドダヴィンチが蘇ってあらためて最後の晩餐を描いたような神々しさがある。かつて祐樹は言った。「滅ぶ瞬間が一番美しい」と。そしてそれは正しかったのだ。この美しさが消えてしまうのは形容し難い恐怖だった。奈落の底で何も持たず彷徨っている気分になる。だが私の脳内に太陽のフレアみたいな大きな大きな大きな考えが思い浮かぶ。
「すずやんを殺さなければならない」
滅ぶ瞬間が一番美しいのなら私が彼女を殺してその隠された絶対的な美を最大限引き出して私の眼窩に焼き付けて伝説のアイドルにしてみせる。
私はクルクルクルと狂い始めるー
すずやんを確実に殺すためにはどうしたらいいのか?私はかつてないほど脳をフル回転させて考える。まずはすずやんに会わなければならないだろう。私がすずやんと会えるチャンスは限られる。私たちは知り合い同士というわけではないから彼女の自宅を知らないし調べるのは私には不可能だろう。となれば残すはイベントで会うしかない。ライブはどうだろう?しかし私はすぐに考えを却下する。紅葉坂46は巨大アイドルグループだ。ミニライブとなれば話は別だけど基本は大きなイベントスペースを借りてライブを行う。そうすると必然的にアイドルとファンの距離が遠い。これでは確実に殺すのは不可能だ。
アイドルのライブに参加するためには手荷物検査や金属探知機で危険物を持ち込んでいないかチェックされるからたとえナイフを持っていたとしてもそれをライブ会場内に持ち込める可能性は低い。もちろんアイドルのライブの手荷物検査はそこまで厳しく見られないかもしれないから鞄の底を二重にして下にナイフを忍ばせば持ち込めるかもしれないけど金属探知機の検査には引っかかってしまうだろう。仮にナイフなどを持ち込めたとしても客席からステージまで距離があるからファンがステージに上がろうとすれば確実に警備員に取り押さえられる。つまりすずやんまで届かない。
残された会える可能性というものは握手会だ。卒業を発表したすずやんは卒業コンサートを行う前に最後の全国握手会に参加する。握手会はアイドルと直に触れ合えるから殺害するのだとすればこれが最初で最後のチャンスになるだろう。ただ握手会も金属探知機で危険物の持ち込みは厳しくチェックされているからナイフなどは持ち込めない。
ふとテレビを見つめるとアメリカで起きた銃の乱射事件のニュースがやっている。
銃か…
拳銃なら近距離で撃てば確実に殺せる。ナイフだと確実に殺せないかもしれないから拳銃が一番いい。しかし日本では銃刀法により拳銃は所持できない。その昔3Dプリンタを使って拳銃そっくりのコピーを作った人間が所持だけで逮捕された事件を思い出す。第一私は3Dプリンタは持っていないし拳銃そっくりに作る技術はない。しかし私は今猛烈に拳銃が欲しかった。すずやんを確実に殺すためには拳銃が必要だ。それが手に入らない。ならば生み出せばいい。
そう、自分で作るのだ。
私はWEBライターをしているからネット上の情報を調べるのは比較的得意だ。銃の作り方は説明を載せただけでも違法になるらしいけどそれは日本の場合だ。ネットは世界中に繋がっているから海外のサイトに行けば銃の作り方くらい載っているかもしれない。さらに私は調べを進める。すると数点の事実が判る。
まず拳銃というものはそこまで製作が難しくない。映画に出てくるような本格的な拳銃を作るとなると難しいけど人を殺傷する能力のある見てくれの悪い拳銃ならば作れる。火縄銃のような仕組みの拳銃を作るのはそこまで大変ではないみたいだ。もちろんそれは違法である。先ほども言ったとおり日本では本物の拳銃のように銃弾を発射できるものは作成や所持をしただけで検挙されてしまうのだ。しかし殺人だって同じこと。私は人の道を踏み外そうとしている。この狂気は私のこれまでの不幸な人生をバネにしている。同時にすずやんという絶対美を最高の形で終焉させ伝説化させる必要があるのだ。滅ぶ瞬間が一番美しいのならその瞬間を私は逃さない。それがブスで生まれた私の美への復讐でもある。
インターネット技術の発達に伴い拳銃を作るために必要な知識や材料も簡単に手に入る時代になっている。専門的な知識を持つ人でなくても拳銃を簡単を作成できてしまう環境が揃ってきているみたいだ。インターネット上には銃の作り方を紹介する動画なども出回っているみたいでYouTubeなどを探すとアメリカや韓国の動画でそれらしきものを確認できた。また拳銃の材料も意外と簡単に手に入るみたいだ。拳銃の作成には必要なものが幾つかあるけどそれは決して調達が難しいものではない。ホームセンターで購入可能な資材や花火を違法に分解して入手できる黒色火薬といった普通に市販されているありふれた物品なのだ。ホームセンターで足りない部品も通販で調達できるようでおまけに材料費も安くなっている。つまり拳銃作成のハードルはとても低い。
前述したとおり3Dプリンタを使って銃器を作ることもできるみたいで銃器のデータはインターネット上に無料で配布されている。私はネットを駆使してそれらしきものを数点確認する。家庭用の3Dプリンタも今は結構安価になっており薄給の私でも頑張れば手に入る額だけどすずやんの握手会まであまり時間がない。3Dプリンタ買うためのお金を貯めていたら間に合わなくなってしまう。となればやはり自作で作るしかない。
私はとりあえず動画上に載っている情報を翻訳アプリを駆使して和訳し拳銃の作り方を学ぶ。その上で近くのホームセンターまで行き必要な材料を揃える。ネットの情報では金属の筒が必要なようだったけどそれだど金属探知機に引っかかる可能性があるので私はプラスチックのパイプの筒を利用する。あとはそれを支える木材や拳銃の銃弾の材料だ。
日本では拳銃を所持するためには厳しい審査が必要だし銃に使う火薬についても許可証が交付されないと購入すらできない。もちろん私の目的はすずやんの殺害だから当然許可が下りるわけがない。となれば一般ルートでの銃弾の購入は難しいだろう。残された可能性は闇ルートみたいなものを辿り購入するというものだけど私がいくら調べてもそのようなサイトは確認できなかった。無論、このような闇サイトが存在したとしてもそこを利用するだけでリスクがある。警察だって監視しているだろうしそこを利用したがためにすずやん殺害前に検挙されてしまっては意味がない。となれば残るは銃弾の元を作るしかない。YouTubeの情報を解釈していくと花火の火薬でも代役が可能みたいであった。ただ殺傷力は判らない。とりあえず試作で作ってみる必要がある。いずれにしも時間が少ないからより高速で。
すずやんの最後の握手会は一ヶ月後。そして私はその一週間前にようやく初めての手製の拳銃を作り上げる。拳銃の長さは三十五センチ。ホームセンターで買えるプラスチックのパイプ筒と木材でできている。銃弾も花火の火薬などを調合しそれらしいものを作り上げる。動画サイトの情報では一度で数発打てるという話であったけど私が作り上げたのは金属ではなくプラスチックでできているため一度銃弾を発射するとプラスチックの筒の部分が熱で溶けてしまう。それにみてくれが悪く弾を発射するためのパイプ筒の部分が短いためなのか一度使うと拳銃自体がばらけてしまった。つまり一度しか使えない使い捨ての拳銃だ。しかしその殺傷力はまずまずで枕を撃ってみたのだけど見事に貫通していた。恐らく近距離で発射すれば絶命させるほどの殺傷力はあるだろう。握手会は近距離で接する。カバンの底を二重にして一番奥に手製のピストルを隠し握手会の会場の内部まで持って行き、握手する前にポケットに入れて忍ばせよう。いずれにしてもチャンスは一度きりだ。たった一度のチャンスをモノにできるかは私の行動にかかっている。しかし私はそれとなく成功を感じ取っていた。今までこれだけ不幸だったのだからこの時くらいチャンスが舞い降りてもおかしくはない。私は根拠のない意味不明な自信に満ちていた。
しかし私の大いなる作戦は頓挫する。アイドルの握手会は私が予想していたよりも警備が厳しく手製の拳銃を持ち込める可能性は限りになくゼロに等しいということが判った。手荷物検査ではいかに底を二重にしていたとしても厳しくチェックされるし全身を金属探知機で検査される。金属探知機は主に鉄に反応するから私の作った手製に拳銃の銃弾に反応してしまうだろう。これではすずやんに会えない。残す可能性は強行突破ということだけど女でそれも体力のない私にはそれは難しい。いくら正面を強行突破してもすずやんに辿り着く前に捕まってしまうだろう。やはり神様は私には微笑まないのか?私は脳内をフル活動して考える。すると微かだが希望が見えたような気がする。会場内で荷物や全身のチェックをされるのは握手をしに来たファンだけだ。関係者も最初にチェックされるかもしれないけどファンがやってきた後はチェックされないだろう。なら関係者に変装して中に忍び込めばいいかもしれない。しかしどうやって?警備員も派遣されるだろうから警備の仕事に就けば会場内に潜り込めるかもしれないけど私は新潟在住だ。どうしたって東京の握手会の警備員になれるわけがない。第一、警備の仕事に就けたとしても都合よく紅葉坂46の握手会の警備ができるとは限らないのだ。ならば当日関係者から関係者の着ている服を奪えばいい。しかしどうやって?スタンガンなどを使って気絶させるのか?いやそれは無理だ。確か本物のスタンガンを使ったとしても映画のように一瞬で気絶させられないのだ。それならば殺せばいい。障害を患っているふりでもしてトイレについて来てもらい個室に入った瞬間に殺す。それで服を奪いその服を着て関係者のフリをして忍び込む。それができるかどうか判らない。綿密にシュミレートしていくのだ。
手製の拳銃を二丁用意して一つはすずやんを殺害する用、もう一つを関係者を殺害する用に分けてもいいのだけど拳銃は音が出てしまう。これではダメ。すずやんを殺す時は音が出てもいいのだけど関係者を殺す時は音が出てしまったら逆に捕まってしまうだろう。ナイフでもいいけどそれでは血が出てしまう。人間は生きたまま刺すと勢いよく血が噴き出る。これではいくら服を奪い取っても血が付いてしまい見つかってしまうはずだ。なら絞殺しかない。
私が思いついた作戦というものは実にシンプルだ。車椅子を用意して会場に向かい関係者に障害者用のトイレまで来てもらう。そして中に一緒に入ってもらい別れ際関係者が後ろを向いた時立ち上がってロープで首を絞めるのだ。さらに服や備品を奪っていたいは個室に隠して私は関係者のふりをして会場内に入りすずやんを殺害する。私は何度も頭の中で考えて握手会当日を迎える。
握手会当日ー
会場内は厳戒態勢であるのだけど握手会会場に入るまではチェックはされない。私は新潟から東京まで歩けるのに車椅子に乗って向かい、さらに会場であるビッグサイトへも車椅子で向かう。握手会会場はすずやんが最後に参加する握手会というだけあってかなり混雑している。私は会場内に入る前ビッグサイトのコインロッカーに用意した拳銃を隠しまずは会場内に入ってみる。当然危険物は持ち込んでいないのですんなり通れる。会場内にはスタッフと書かれた青いジャンパーを着た関係者とインカムをつけているスーツの関係者がいた。スーツ姿の関係者は女性もいたのだけど男性も多くスーツを奪うのは困難だと考え青いジャンパーを着ている関係者に照準を定める。ちょうど四十歳くらいの女のスタッフがいたので声をかけて足が悪いので障害者トイレまで案内してもらえるか聞く。するとスタッフはすんなりOKを出してくれて一緒にトイレまで向かう。ビッグサイト内には障害者用トイレがあるのでそこに一緒に入る。個室まで一緒に入ってもらい歩けないふりをして便座に座らせてもらいスタッフが振り返り立ち去ろうとした時素早く立ち上がり服の中に隠しておいたクレモナロープで中年女性の首を絞める。
人を殺すのはこれが初めてであったため力加減が判らない。関係者はジタバタと暴れるが不意をつかれたためなのか抵抗が激しくない。首を絞めているから声も出せないという状況も私に味方していた。かつてないほど力入れて私は関係者の首を絞める。キリキリキリ。嫌な音が頭の中で鳴り響く。時間の感覚が曖昧になる。ものすごく時間が過ぎたような気もするし大して経っていないような気もする。ただ恐らくだけど数分は首を絞めていたと思う。はっと我に返ると関係者の体がぴくりとも動かなくなった。ふとクレモナロープを離す。するとガクッと関係者の体が崩れ落ちた。顔が毒蝮を飲んだ時みたいな顔をしているし青紫色になりやや膨らんでいる。死んだのか?私は咄嗟に関係者の顔を叩いてみるけど身動き一つしない。絶命しているのだ。人はこんなにもあっさり死ぬのか?その事実に私は驚くのと同時にもう後戻りはできないという激しい恐怖が湧き上がってくる。私は人を殺してしまった。すずやんを殺すためとはいえ何の罪もない人間を殺してしまったのだ。しかし覚悟はできている。急がなければならない。可及的速やかに動かなければ。時間は待ってくれないのだ。私は死んだ関係者のスタッフと記載された青色のジャンパーを剥ぎ取り後はズボンも頂戴した。先ほど会場内に入った時、スーツ姿の人間はインカムなどをつけて連絡を取り合っていたけどこの青いジャンパーを着ている人間はインカムをつけていない。いずれにしてもこれで危険物を持ち込みながら会場内に入れる。
私はスタッフ用のジャンパーとズボンに着替え車椅子をトイレの中に置き捨てた。遺体は便器の傍に隠しておいたけど見つかるのは時間の問題だろう。恐らくだけど障害者用のトイレは普通の人はあまり使わないと思うけどそれでもそんなに猶予はない。私は素早く動き手製の拳銃を保管してあったロッカーに行き酷く見てくれの悪い拳銃と切り札である代物を取り出しそれをポケットの中に入れる。今回作ったのは二十五センチ程度の拳銃だからなんとかポケットに入る。何度もテストにテストを重ねてきたからこの一発もきっと上手くいくだろう。
青いスタッフ用のジャンパーを着ているためなのか私は検査を受けずに会場内に入れた。すずやんのいるレーンはもう調べてある。これは事前に公式サイトで発表されているから調べるのは容易だ。彼女は今日のメインキャラクターでもある。そのために一番最初のレーンに陣取っている。すでに握手会は始まっておりすずやんの前には長蛇の列ができている。時間がない。急げ急げ急げ急げ。そして…
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ
殺せ
意外とスムーズにすずやんのレーンまで辿り着ける。すずやんは笑顔で握手しているし近くには警備らしき人間が数名いる。私は徐々に近づく。すずやんまでの距離は五メートルくらい。このくらいなら射程圏内だ。私は手製の拳銃を取り出しすずやんに向ける。すずやんはアイドルらしくフリルのついたロング丈のドレスのような衣装を着ている。ピンクと白が弾けるとても可愛らしい衣装だ。
その時だった。すずやんが神々しいオーラを纏い始めこの世のものとは思えない圧倒的な美しさに包まれた。こんなにもキレイで美しい人間はかつて見たことがない。それは私の理想を遥かに凌駕した美しさだ。宇宙から見た地球の姿みたいで海の青のコントラストと妖艶な白い雲の渦巻がファンタジックな雰囲気を纏ったかのような感じ。こんなにも美しい人間を殺すのだ。しかしこの美しさは長続きしない。今この瞬間が一番なのだろう。ならばこの瞬間を目に焼き付けて殺さなれければならない。すずやんがこちらを向く。私は拳銃を向けている。すずやんが異変を察し叫ぼうとした瞬間、私の拳銃が咆哮を上げた。
パン!
それは一瞬だった。
同時に時間が止まったかのようだった。
私の放った弾丸はすずやんの額に直撃し彼女はばたりと倒れる。途端悲鳴が上がる。もちろん警備員が私を取り押さえるために駆け寄ってくる。私の目的は果たした。もうどうなってもいい。しかし最後は美しく散りたい。それがブサイクに生まれ人に拒絶され続けた私なりのけじめの付け方だった。私はもう一つ隠し持っていた切り札である包丁で勢いよく自身の腹を突き刺した。
さらに悲鳴が轟く!
腹を突き刺したというのにアドレナリンが出ているためなのか全く痛みがない。
私が切腹を選んだ理由はそれが私なりの美学だからだ。私は絶対的な美の象徴であるすずやんをこの世界で最も美しくするために散り際の華やかさを選びその神々しい美を目に焼き付けた。確かにこの瞬間すずやんは宇宙で一番美しい人間になったのだ。それを見た私は責任を取らなければならない。同時にこの瞬間のために私は決死の覚悟と決断があった。決断というのは決して断じるということだし物事を覚悟を持って抜刀するが如く決めるという意味だろう。同時に決断は爽やかでなければならない。私はすずやんを殺すために最初に切腹を覚悟した。すずやんを殺したらその責任を取り切腹して死ぬ。見苦しい振る舞いなど一切せず黙って腹を裂いて潔く死ぬのだ。それがブサイクに生まれた私なり最後の美意識であり醜さに対する永遠の反逆でもある。切腹というのは貞節と忠節の証でもあるだろう。一途、純潔、純心の証だ。貞節も忠節も二心なく一途に尽くす。これが不幸の連続であった私に最後の人間らしい振る舞いだ。私は穢れを知らない人間であったけど今回の一件で穢れに塗れた堕天使のような人間に堕ちた。何もない人生だった。幸せとは程遠い人生。しかし最後には私の理想の絶対美を感じ取れた。
意識が遠のく。私は警備員に取り押さえられたけどもう身動き一つできない。力が抜けていく。干したての暖かな布団の中に包まっている感覚が身を包むと私の生命力は完全に途絶えた。