第一部
第一部
初めて宝木涼というアイドルをテレビで見た時私は愕然とした。自分とほとんど変わらない年齢でもあるにも関わらず超絶的に美しいからだ。2005年にAKB48が誕生しその後もいろんなアイドルグループが生まれた。世はまさにアイドル戦国時代。たくさんの数のアイドルグループが生まれ特別アイドルに詳しくない人でもそれとなくアイドルグループの名前は知っている。CDが売れなくなって久しいけどアイドルグループの楽曲はさまざまな特典をつけてミリオンセラーを飛ばすケースもある。この販売戦略は賛否両論あると思うのだけど私は正しいのだと思う。どんな曲だって売れなければ人の耳に届かない。だからどんな売り方をしたとしても売れたものが正しいのだ。私はこの時それほどアイドルに詳しいわけではなかったのだけどテレビで見た宝木涼(愛称すずやん)に心惹かれるようになる。
こんなにも美しい人間がこの世界にいるのだ。
どうしてこんなにも美しいものに憧れるのか?その理由は恐らく私がいわゆるブスであり醜いからこそその裏返しとして自分にはない圧倒的な美というものに憧れるのだろう。美しくなりたいけれどそれは無理だから逆に美しいものを見て自分を慰めるというか醜い自分に足りない美しさを補填しているのかもしれない。
そんな私はいつしか美の象徴であるこのすずやんに会いたいと思うようになった。
私がすずやんを初めて見たのは十四歳の時。今から十年くらいの前の話だ。この時すずやんも十四歳で少女と女の間をいくような絶妙な時を過ごす彼女はその神々しいルックスからたちまち紅葉坂46の看板アイドルへと駆け上がる。すずやんはルックスが素晴らしいだけでなく歌唱力もあるしダンスも上手い。まさにパーフェクトアイドルで松田聖子の再来と言っても過言ではなかった。
すずやんは少しハスキーな声質をしているのだけどよく通るハイトーンボイスが魅力的でそれがアイドルの楽曲の歌詞とよくマッチし私は何度も励まされた。すずやんを知ってから私の生活は少しずつ紅葉坂46の色に染まり始める。私がすずやんに惹かれる理由は彼女が私にはない超絶的な美しさを持っているからだけでなくそれ以外の大きいものを言うとすずやんがアイドルになる前イジメを受けていたという事実を週刊誌の記事で見て知ったからだ。
実を言うと中学三年生に進級しクラス替えが行われ新しいクラスになったくらいから私もイジメを受け始め学校は地獄そのものだった。
年頃の女子というものは全ての人がそういうわけではないのだけどグループ意識が強い。つまりグループを形成して学校生活を送る。このグループにもいくつか序列みたいなものがありいわゆるスクールカーストが形成されている。上位のグループに所属する女子たちはそれこそ女王のような振る舞いをして下位のグループを見下している。それでもグループに入れるだけマシで私はどのグループにも属さないいわゆる孤独な学生だった。もちろん上位のグループの女子たちから聞こえるような声で「ウザい」「キモい」など言われたし話し相手も一人としていなかった。だから辛い学校生活を送る羽目になったのだ。
そんな中私の救いだったのがすずやんで彼女を見て彼女の歌を聞くだけで力がもらえた。カラカラに喉が乾いた夏の昼下がりに冷たいポカリスエットを一気に飲むような爽快感があったのだ。私はどんどんすずやんに惹かれていく。神々しく光り輝くすずやんは私にとってある意味神様に近い存在だったのだと思う。
すずやんは私と同じでアイドルになる前はイジメられていた。この事実が私を大きく大きく大きく勇気づける。女子というものはどこか友情にこだわるところがあると思う。これは友情を大切にするというよりもこだわりが強いみたいな感じだ。これはあくまでも私がイジメを受けた経験からの感覚なのだけど女子は友情にこだわり「好き」「嫌い」の境界線みたいなものがはっきりしているのだと思う。そしてその根幹にあるのが先ほども言った「グループ意識」なんだろう。とにかくこのグループが大事で女子はどこに行くにもこのグループで動くケースが多い。それに持ち物もお揃いだったりさらにトイレに行くタイミングも一緒だったりする。何があったとしてもこのグループに入ることが重要でありグループから弾かれたら最後地獄の日々が始まる。私はどのグループに入れず孤独な時間を過ごした。そしてグループに入れない孤独な存在だからこそイジメの標的になってしまう。特に私が何かしたわけではないのだけど私という存在が気に入らない人間がスクールカーストの上位のグループにいて私はイジメを受けたのだ。
でもすずやんもそうだった。私はすずやんがどんな風にイジメられていたのか知らない。すずやんが過去イジメを受けていたという事実を書いた週刊誌にはイジメの内容まで書いてはいなかったのだ。だけど私はなんとなく想像がつく。女子のイジメというのは陰湿になりやすい。男子のように肉体的な暴力という形で現れない。精神的に激しく追い詰められる行為ばかりなのだ。それに女子はグループを形成しこのグループでイジメをしてくる。つまり集団で一人をイジメるのだ。リーダー格の女子が私の悪口を言うとそれに呼応して他の女子も悪口を言ってくる。それがアメーバ状に広がっていきいつの間にかクラス中が私の悪口を言うようになった。私はイジメを受けていた時その都度泣いていた。いきなりキレてナイフを振り回すくらいの度胸があればいいのだけど私にはそれができなかった。しかしこれが結果的にイジメをさらに激しくする要因になってしまう。イジメられている人間が萎縮したり泣いたりすると加害者はそれに興奮する。つまり人が弱っているのを見るのが楽しいのだ。だからますますイジメはエスカレートする。私は負の連鎖の中にいた。生まれてすぐに捨てられてしまったみたいな圧倒的な閉塞感が襲う。何をされてもへこたれない強い意志があれば私はこの境遇を超えられたのかもしれないけど私にはそれができなった。
人が生きる意味というのはなんだろうか?多分いろいろあると思う。だけど「自分はここにいる」という存在の肯定感が重要になるのではなかろうか。自分はここにいてもいいという肯定感があると人は辛いことがあってもやっていける。つまり「自分は自分であっていい」「自分は他者にも認められている」という自己肯定感が重要になるんだろう。しかしイジメを受けていた時の私は「存在を否定」されていた。自分がそこにいるのにないものとして扱われいてる。私は人ではないように思えた。女子のイジメの最も恐ろしいところはこの自己肯定感を圧倒的な力で暴殺してしまうことなんだと思う。
私は学校に行かなくなる。もうあの場所にはいたくない。
私が学校を休むようになった時両親は深く何も言わなかった。私は自分がイジメられていることは言わなかったのだけどもしかすると気づいていたのかもしれない。だから学校に行かなくなっても何も言わなかったのだろう。この時の私は十五歳だった。中学が終われば高校に進学するのが普通だ。今は戦前のような時代ではない。高校に行かず中卒で就職する人間はほぼ皆無だしほぼ100パーセントの人間が中学校を卒業したら高校に進学する。これはいいチャンスなのかもしれない。私のことを誰も知らない新しい高校に行けば腐り切った人間関係をリセットできる。つまり再スタートが切れるのだ。中学はイジメを受けて不登校になってしまったけど高校からは新しい人間関係を一から築き始めるのだ。私は弱い人間だけど決して孤独が好きなわけじゃない。中学時代は孤独だったけど心の奥底では友達とありふれた話をしたいと思っていた。昨日見たテレビの話やゲームや漫画の話それに恋の話。なんでもいいけど友達と何気ない会話ができる関係を夢見て思い描いていた。私はすずやんが好きだからすずやんの話ができたらなお嬉しい。紅葉坂46は人気急上昇中のアイドルグループだからファンの人間はたくさんいるだろうしファンは何も男性だけではない。女性アイドルグループのファンの中に一定数の女性はいるのだ。
アイドルの話が友達としたい。こんな些細な願いさえ私には叶えられない。それがたまらなく辛く私は暗黒の日々を過ごした。私はいてもいなくても関係ない存在。自己肯定感を否定された私はミキサーで切り刻まれた野菜みたいにぐちゃぐちゃな心になっていた。そんな私をギリギリのところで支えたのが紅葉坂46のすずやんだった。彼女は神々しいほど美しい。私の中での絶対的な美の象徴だった。こんなにも美しい人がいて歌ったり踊ったりしている。すずやんの活躍は音楽活動だけではなく演技の世界にも羽ばたいていく。彼女は演者としての素質もあり人気ドラマのヒロインを務めたり映画で主演に抜擢されたりしてとにかくいろんな形で私を支えてくれる。辛い時すずやんを見ると力が湧いてくる。声を聞くと心が震えるほど感動する。
アイドルの役目ってなんだろう?とその時の私はよく考えていた。これには答えはないかもしれないけど私が導き出した答えというのは「人を幸せにして感動させる存在」ということだ。アイドルは偶像という意味だけどその裏に隠されている本当の意味は幸せや感動を与える選ばれた人間ということなんだと思う。人を幸せにする偶像だからこそ光り輝くのだ。そんなふうに考えるようになり私の中ですずやんは大きな大きな大きな存在になっていく。絶対的な美の象徴であり生きるエネルギーを与えてくれる重要な存在なのだ。
すずやんを応援するようになりいつしか私は本物の彼女に会いたくなる。それまではテレビや雑誌なんかでしか見られなかった憧れの存在をこの目で直に見ておきたい。圧倒的な美をこの体で体感したいと考えたのだ。
当時、私はまだ中学生であり両親の元で暮らしていた。同時に東京という大都会で暮らしていたわけではなく新潟県新潟市万代という地方都市で暮らしていたのだ。新潟市万代は新潟市の中では栄えている地区だけど東京に比べると随分田舎でNGT48というアイドルグループがあるのだけど当時は紅葉坂46のような全国区のアイドルのイベントはほとんどやっていなかった。今のアイドルグループは「会いに行けるアイドル」をコンセプトにしてやっているから八十年代などのアイドルに比べると会いに行くハードルは低い。それでも新潟県にいる限り私はすずやんには会えない。紅葉坂46のライブには全国ツアーがあるのだけどその中に新潟県は含まれていないし近くの県でもやっていない。それに握手会なんかのイベントも新潟ではやっていない。だからすずやんに会うためには東京に行かなければならないのだ。しかしそれが難しい。この時の私はまだ中学生だったから一人で東京に行くことなど両親が許さないだろうし何よりも旅費が結構かかってしまう。私は何度か両親に東京に行きたいと告げたのだけどそれは受理されなかった。
「大人になってから」
それが両親の口癖だ。中学校の修学旅行は東京に行ったらしいけど私はあの学校に行きたくなかったから修学旅行には参加しなかった。従って東京行きを諦め悶々とした日々を送る。同時に私の中ですずやんはどんどん大きな大きな大きな存在になっていき神様以上の存在になっていった。大人になって早くすずやんに会いたい。握手会に行けば少しだけど話す時間がもらえる。紅葉坂46をはじめとするアイドルグループには握手会というイベントがあってこの握手会に参加するための券が入ったCDを購入するとイベントでアイドルと握手できるというシステムだ。ただ一枚の握手券で大体三秒くらいしかアイドルと握手できないらしいから本当に限られた時間しか触れ合う時間はない。もちろん握手券を十枚持っていけばその分長く握手できるけどそんな経済力は私にはないし何よりも東京に行けないのだから握手会に参加できない。
早く早く早く…
すずやんに会いたい。
すずやんを推すようになり私の生活は彼女一色へと変わっていく。彼女が出ているテレビはほぼ録画し何度も見ているし特集されている雑誌なんかも可能な限り買ってスクラップブックにまとめている。ただCDや写真集などは値段が高くお小遣いしかもらっていない中学生の私には集められなかった。それでも私は陰ながらすずやんを応援していった。
どんな人間にも平等に月日というものは流れる。私は地獄のようだった中学校に行かなくなり毎日自宅で過ごしていたのだけどそんな私にも卒業という時がやってくる。卒業式くらい参加しないかと両親や担任教師から言われたのだけど中学校にはいい思い出がないから辞退する。高校は少し離れた場所を受験し無事合格する。そんなに頭のいい学校ではなかったし普通に勉強していれば誰でも合格できるような学校だったから私はすんなりと進学を決める。
高校に行って新しい生活をスタートさせる。それが私の目標でもあった。
高校の入学式の日、真新しいセーラー服に身を包み私は新生活の第一歩を踏み出す。私の進学したK高校は万代からは少し距離があるのだけどバスで通える範囲だし何よりも私の中学から進学した人があまり多くないというのも大きな大きな大きなメリットだった。
私はこのK高で新しい出会いをする。それは東条加奈子というアイドル志望の女の子との出会いだった。加奈子と初めて会話したのは入学式が終わりクラスに戻った時だ。私は知立という苗字、加奈子は東条だからあいうえお順に並んだ時席が上下に並んだのだ。そこで初めて会話する。会話のきっかけは私がすずやんの写真がプリントされたキーホールダーを学生鞄に付けていたからだ。
「すずやん好きなの?」
と突然前に座った女子が言ってくる。
慌てた私は咄嗟に声の方向を向く。するとそこには坂道系のアイドルみたいでセーラー服のリボンを緩く結んだ可愛らしい顔をした女子がニコニコと笑みを浮かべながら私を見つめていた。
「あたし東条加奈子、あなたは?」
「私は知立美沙」
「美沙っていうんだ。私は加奈子でいいよ。実はねあたしもすずやんが好きなの」
その言葉に私は驚く。
同時にそれは私が思い描いたシチュエーションでもあった。友達と大好きなすずやんの話をするという。
「私もすずやんが好き。会ったことはないんだけど」
と私。
すると加奈子はギャンブルで全財産を賭けて勝った人間のような顔を浮かべながら
「そうなんだ。あたしは一度だけ会ったことがあるの。東京でやってた全握(全国握手会の略称)に参加したのよ。そりゃもうすごかった」
「やっぱりキレイなの?」
「うん。異次元なレベルだよ。顔はちっちゃいしスラッとモデルみたいな体型をしているし何よりも手がキレイだった」
やはりすずやんはキレイなのだ。私も会いに行きたい。そんな欲望に取り憑かれる。私の頭の中のすずやんはどんな人よりも美しくそれでいて元気を与えてくれる存在なのだ。
この日から私はよく加奈子と話すようになる。これまで十五年間生きてきて全く友達がいなかったわけではないけれどこんな風にして自分が推しているアイドルの話ができる友達は初めてだった。加奈子もすずやんが大好きで私たちはいつか一緒にライブやイベントに行こうという約束をする。早く本物のすずやんに会いたい。
高校入学から一ヶ月経ち私と加奈子は昼休みの屋上にいた。K高校は昼休みになると屋上が開放されそこでお弁当などを食べる人たちもいて私たちもその中の一人だ。私はいつも母親の手製の弁当を食べているけれど加奈子は学校の購買でパンやおにぎりを買っていてそれを食べている。いつもと同じ日常の一ページが広がる。加奈子は買ってきたツナマヨネーズのおにぎりを食べ終えると恥ずかしそうに下を向きそして言う。
「ねぇ美沙、聞いてもらいたいことがあるんだけど」
改まった口調に私は少しだけ驚き
「何かあったの?」
「あったっていうかちょっと相談があって」
友達に相談を持ちかけられるというのは信頼の証であってそれは私を大きく大きく大きく喜ばせる。こんな友人関係にずっと憧れていたのだから。
「相談って何?」と私。すると加奈子は「実はね、あたしアイドルのオーディションを受けようと思って。美沙だから言うの、みんなには内緒だよ」その言葉は私を驚かせる。「みんなには言わない方がいいの?」「うん、言ったらバカにされるに決まってるもん。だから二人だけの秘密だよ」「判った。内緒にするね。でもアイドルって具体的にどのグループなの?」「紅葉坂46の三期生のオーディション。まずは書類選考だけど受けてみようと思ってるの?どう思う?」「加奈子ちゃんなら大丈夫だよ。可愛いしアイドルにも詳しいし」「でも紅葉坂46って人気アイドルだから倍率も高いみたいなの。二期生の倍率は約8000倍とも言われてるし」8000倍!これは東京大学に合格するよりも遥かに難しい。アイドルになるというのは本当に限られた狭き門を突破しなければならないのだろう。私は呼吸を整えてから告げる。「私あんまりオーディションとか詳しくないけど歌ったり踊ったりするのかな?」すると加奈子は「うん、それは書類審査に合格してからだと思うけどまずは何よりも書類選考に合格しないと。それで自己PRとか志望動機とかそういうのを書くんだけどね、どうやったら審査員の目を引くような文章が書けるのかなって思って」「う〜ん、私あまり文章が得意ってわけじゃないけど自分の正直な気持ちを書くのが一番だと思うよ。加奈子ちゃんはすずやんが好きなんだよね?ならすずやんというアイドルを見てどう思ってどんな風になりたいのかみたいなことを書けばいいんじゃないのかな?あとは先生に相談するとか」「先生に相談なんてできないよ。バカにされるに決まってるし。それに写真も送らないとならないから写真屋さんに撮ってもらわないとダメかもしれないんだ」「大変なんだね。私も協力したいけど私の力って微弱だからそんなに力になれるわけじゃないかもしれない。でもね私も加奈子ちゃんが合格するように志望動機とか自己PRとか考えてみるね」「ありがとう美沙。書類審査まではまで時間があるからこれからも相談に乗ってね」「うん」加奈子は好きな人に告白しそれが受け入れられた時のような笑みを浮かべていた。加奈子がアイドルになる?まだ判らないけどそれは現実になるのだろうか?
私はその日からアイドルのオーディションについて色々調べてみるようにした。加奈子が言ったとおりアイドルになるための倍率はかなり高いらしく本当に選ばれた人間にしかなれない世界だ。同時に私がアイドルのオーディションについて調べてみて判ったのは志望動機とか自己PRとかももちろん重要なんだろうけどそれ以上に重要になってくるのがその人が持つ能力や容姿なんだということだ。
今流行の坂道グループのアイドルたちは正直ルックスのレベルが高い。つまり容姿がいいのだ。メイクの力である程度はなんとかなるかもしれないけどやはり容姿がいい方が合格の可能性は高まるだろう。
では加奈子はどうなんだろう?加奈子はアイドルが好きというオタク気質なところはあるけれど基本的にルックスは整っていると思う。私は陰で男子たちが加奈子を可愛いと言っているのを少し聞いたことがあるしスタイルだっていい方だ。しかし何か決定打がないような気もする。正直な話加奈子クラスのルックスを持つ女子はたくさんいるだろうから何か決定打となる他の能力が必要になるかもしれない。
すずやんは他の追随を許さない抜群の美しさがあるけれど彼女はそれだけではない。歌唱力も高いしダンスも上手い。圧倒的なルックスの他にもそう言った長所がたくさんあるのだ。加奈子にもそういった他の人とは違う何かの能力があるといい。そうすればきっとアイドルのオーディションだって突破できると思う。
私と加奈子はそれからアイドルのオーディションを突破するために色々考えるようになる。アイドルのオーディションでビジュアル偏差値が重要になるのは判る。でもそれだけではダメだ。自分の思いを伝えるような志望動機や自己PRが必要になってくるだろう。だから私は加奈子を必死にサポートする。加奈子がアイドルになれるように。
まず重要になるのはどうしてアイドルになりたいかだ。ここがブレると全てが上手くいかなくなる気がする。加奈子にもあるはずなのだ。絶対的なアイドルになりたい何かが。ここを正直に書く。
「加奈子ちゃんはどうしてアイドルになりたいの?」
ある日の昼休み、私たちは穏やかな春の陽射しが降り注ぐ屋上で話し合う。春の風は柔らかく干したての布団の中にくるまっているみたいだった。私の言葉を聞いた加奈子は少し考え込んだ後答える。
「やっぱりすずやんかな。彼女みたいなアイドルになりたいんだよね」
「それだと漠然としすぎてると思う。すずやんを見てどう思ったの?」
「う〜ん、やっぱり元気をもらえるっていうか、辛い時にすずやんの歌声を聞くと力がもらえるんだよね。それでもう一回頑張ってみようかなって気持ちになるの」
「ならそれを志望動機に書くべきだよ。これはあくまでも私の考えなんだけどアイドルの存在意義って人を幸せにするか否かだと思うの」
「人を幸せに…確かにそうかもしれない」
「もう少し噛み砕いて言うと人を感動させるようなアイドルが本当のアイドルなんだと思う。だからね加奈子ちゃんには人を感動させるようなアイドルになってほしい。加奈子ちゃんの歌を聴いてダンスを見た人が幸せを感じ感動を覚えて力がもらえるような感じかな」
「そうだね。確かに美沙の言うとおりだよ。人を不幸にしてしまうのはアイドルじゃないよね。人を感動させるようなアイドルになりたいって志望動機に書いてみる」
「あとね、少し調べたんだけど自分らしさってものも大切になると思うの」
「自分らしさねぇ。それってなんだろう?」
「個性みたいなものかな。その人が持つ固有の特徴っていうか、そういうものも自分で分析して言葉で表現できるようになっておくといいかもしれない」
「個性って難しいよね。形があるわけじゃなし」
「無理に着飾ったりするんじゃなくてありのままを表現すればいいんだよ。私はね、加奈子ちゃんってすごく自然体で誰にでも平等に接するし優しいところがあると思うの」
「そうかな?」
「そうだよ。だってこんなブスな私とも付き合ってくれるしいつもお話ししてくれる。私は本当に助けられてるよ」
「だって美沙は友達でしょ。そんなの当然じゃん」
「その当然が当たり前にできるのが加奈子ちゃんの強みだよ。加奈子ちゃんはこれまでに困難を抱えたことある?」
すると加奈子はう〜んと唸りながら考え込む。たっぷり一分ほど考え込むと静かに口を開く。
「強いて言えば受験勉強かな。あたしね全然頭がよくないの。このK高って進学校ってわけじゃないけどバカだと受からないから中学三年生の時に結構頑張って勉強したの。もちろん頭のいい人に比べれば些細な進化かもしれないけど第一志望であるK高に合格できた。だからね勉強した時の努力は裏切らないっていうかしてよかったかなって思ってるの。これって困難に打ち勝ったっていうのかな?」
「それも自己PRに書いた方がいいと思うよ。その上ですずやんの歌声に助けられたって書ければ上手く志望動機とも紐づけられるし」
「ありがとう美沙、なんか上手く書けそう。もう少しで応募書類の締め切りだから今度は写真を撮らないとならないの。プロの人にお願いしたいけどそんなお金はないし。だから美沙に撮ってもらいたいんだけどいいかな?」
「私でいいの?」
「アイドルのオーディションを受ける女の子って結構スマホで撮ったりするんだって。今のスマホって高性能だからわざわざカメラを買う必要はないしね。だから美沙に撮ってもらいたいの。ね、お願い」
ちょうど私たちが高校生になったくらいからスマホが登場しカメラの性能なども一気に飛躍した。私は頷きながら
「うん、私協力するよ」
「じゃあ今度の日曜日に撮ろう。晴れるといいな」
こうして私たちは日曜に会う約束をする。
私は加奈子の役に立ちたい。だって私のただ一人の友達だから。加奈子にはアイドルになってもらいたいと本気で思ってるし今ではすずやん以上に大切な人になっている。だから私にできることはなんでもしよう。
学校を終え自宅に戻った私は自室でスマホを開きオーディション写真とはどんなものなのか調べる。判ったのはいい加減な写真では一発で落とされてしまうことで写真というのはビジュアル偏差値がかなり重要になるアイドルのオーディションでは合否に大きく関わってくる。
まずは画質だ。あまりに画質が悪い写真は審査員たちの評価を一気に落とす。それだけで落ちてしまうだろう。けれど加奈子も言ったとおりスマホのカメラはかなり高性能だからよほど変な撮り方をしない限り画質が悪すぎて落とされることはなくなるはずだ。
それと加工をしたりして自分をよく見せようとしすぎるのもよくない。審査では容姿は重要視されるけど小細工してはいけないのだ。その人のありのままをぶつける。無理やりよく見せた写真を使ってしまうときっとそれだけで落とされてしまうだろう。これも気をつけなければならない。それに仮に書類審査が通ったとしても書類に貼った写真と実物が違いすぎたらマイナス評価になってしまう。ありのままでナチュラルに見せる。すずやんだって過度に加工した写真を使っていないはずなのだ。清潔感さえあれば自分の中に流れる本当に美みたいなものを表現できるはずなのだから。
写真に写るのは加奈子一人が鉄則だけど背景をどうするべきか?写真のメインはあくまでも加奈子だけど背景がごちゃごちゃしてしまうとメインである加奈子が輝かない。物がないすっきりした場所を選ぶべきだろう。これはファッション雑誌なんかを参考にしてシンプルな壁がある屋外がいいかもしれない。それに撮影は晴れの日の方がいい。新潟の冬は天気が悪いけど春はそれなりに穏やかな天気が続く。予報を見ると次の日曜日は晴れだったからこの点はクリアできるだろう。
それ以外に気をつけるのはメイクをするべきか否かということだ。高校生になればメイクに興味が出るのが普通の女子の特徴だろう。ただ私はメイクをしていない。私はブスだしメイクなんてしても豚に真珠みたいなもので意味がないと思っているからだ。でも加奈子はうっすらとメイクをしている。K高の女子の中にはしっかりメイクをしてくる人間も多いけど加奈子はどちらかというとナチュラルなほうだ。年齢にあったナチュラルなメイクをしている。調べてみると濃いメイクというのは審査員も正確な判断ができないらしくマイナス評価になりやすいらしい。またカラコンも不自然になりやすいからやめた方がいいだろう。ただ加奈子はカラコンはしていないからこの点は大丈夫なはずだ。加奈子はよさは自然体な所にあるのだからあえてメイクをしなくてもいいのかもしれない。
写真を撮るのは私の役目だからしっかりした写真を撮らなければならない。この時重要になるのは光だろう。光は美しさを引き上げる重要なポイントだけど使い方を誤るとマイナス評価になってしまう。光によって表情が変わるのは事実だから加奈子が輝くように光の使い方だけは意識しなければならない。逆光や暗がりでの撮影はダメだろうし屋外で撮る予定なのだから陽の光が当たるようにするべきだ。目に光が入ればキラキラとした美しさがプラスされ明るい印象を審査員に与えられるだろう。光を反射するレフ板を用意するといいかもしれない。私は持っていないけど白い紙でも代替が可能なみたいだからそれを作って持っていこう。それで何度も撮って納得のいく一枚を作り上げる。私は陰ながら加奈子を応援したい。私にできることは全てやって一緒になって戦っていくのだ。
日曜日ー
前日の夜加奈子と連絡を取り合い私たちは昼の一時に新潟駅で待ち合わせする。私が住む万代は新潟市の中心でファッションビルや映画館、公園などいろんなものが集まっている地区だ。写真を撮る場所は公園なんかでもいいけど風景が殺風景だからデパートなんかが集まる新潟の伊勢丹やビルボートプレイスというファッションビルの白い壁を背景にして写真を撮るといいかもしれない。私は手製のレフ板を持って待ち合わせ場所である新潟駅へ向かう。
待ち合わせの時間の十分前に到着し加奈子を待つと彼女も五分前にはやってくる。オーディション用の写真は体のラインが判る方がいいから加奈子もそれを意識して半袖の白ブラウスにベージュのショートパンツを合わせている。足元は少し高いヒールでメイクはしていない。私たちは新潟の中心地でもあるビルボードプレイスというファッションビルまで移動してそこで写真を撮れそうな場所を探す。ビルボートプレイスの壁がシンプルでちょうどよさそうだったから裏側まで移動してそこで写真を撮る。私は手製のレフ板と母が昔使っていた楽譜の譜面台を改良し手製のレフ板スタンドを作ってそれを加奈子の後方に置く。レフ板は光源を反射させ被写体を照らす役目だから光源の反対側に置くの鉄則だ。光源と言ってもカメラマンが使うような明かりではなく私たちは太陽の光とスマホのライトを使う。ちょうどビルボードプレイスの壁一面に太陽の光が降り注ぐ絶好の時間帯だったから私は加奈子のやや斜め後ろにレフ板を置き何度かスマホで撮影してみて一番いい写真が撮れるように微調整を重ねる。
私が今回作ったレフ板はA3サイズのカラーボードを使い白い画用紙を粘着テープで貼った代物でスタンドは母の譜面台を改良する。これで自立する手製のレフ板が出来上がりである程度の効果を発揮したと思う。何度かスマホで撮影しポーズを変えたり場所を少しいじってみたりして最高の写真ができるように頑張る。加奈子の表情も本気でここだけ切り取って見ているとティーン向けのファッション雑誌の撮影をしているような感じになる。
恐らく改良に改良に改良を重ねてたっぷりと数時間ほどかけて可愛い写真が出来上がる。全身の写真は直立だったり少し斜めに立ったりあとは足をクロスさせたりと色々したけど足をクロスしたポーズが一番可愛く撮れたからそれを採用する。それ以外にはバストアップの写真も必要になるからそれも試行錯誤しながら何度も撮影して可愛い一枚を撮りそれを採用する。
何かにこんなに本気になったのは初めてかもしれない。私はこれまでイジメを受けてきて沈んだ人生を送っていたけど今最高に青春をしているって気分になる。嬉しいし楽しい。加奈子も何度も写真を撮ることによってカメラに慣れてきてどんどんいい表情を見せるようになる。もしかすると加奈子には素質があるのかもしれない。
加奈子には本当にアイドルになってもらいたい。そしたらブスで醜い私の価値も上がるような気がしていた。
撮影を終えたのは夕方になる頃だった。あたりは太陽が西に沈み始めて空が赤く染まり始める。私たちは撮影にかかりっぱなしで何も口にしていなかったからお腹が空いていた。そこでビルボードプレイスにあるフレッシュネスバーガーに行きハンバーガーを食べる。加奈子は疲労していたみたいだけど何かをやり終えた清々しい表情を浮かべているし何もかもが上手くいっているような気がする。
フレッシュネスバーガーは日曜日ということで混雑していて私たちは店内で食べるのではなくテイクアウトにしてビルボードプレイスのそばを流れる信濃川の河川敷まで行きそこでハンバーガーを食べる。
新潟には日本一長い川である信濃川が流れており新潟市を流れる信濃川沿いの河川敷にはやすらぎ堤という広場が広がっている。ここは憩いの場になっていてランニングやサイクリングができるように道が舗装されているし出店なんかも出ている。私たちはやすらぎ堤に設置されたベンチに座り込み話をしながらハンバーガーを食べる。
「今日はありがとう。いい写真が撮れたと思う」
と加奈子はチーズバーガーを一口食べそれを飲み込んだ後にそう言う。
それを受け私は答える。
「うん、あとは書類をまとめて送るだけだね。加奈子ちゃんなら大丈夫だよ」
「だといいけど。でもあんまり自信ない。やっぱりアイドル志望の女の子ってみんな可愛いのかな?」
「加奈子ちゃんもアイドルみたいに可愛いから大丈夫だよ」
「あたしより可愛い子なんていっぱいいるよ。でもそういう人たちと戦って勝たなくちゃならないんだ」
「うん」
全ての人間がアイドルになれるわけじゃない。憧れる人間が多いのだから当然なれない人間がたくさんいる。むしろなれない方が自然なのだ。でもアイドルになるためにはこの熾烈な争いを潜り抜けていかなければならない。すずやんもそうだ。彼女もこの熾烈な争いを潜り抜けアイドルの頂点に立っている。加奈子がそこまでのアイドルになれるかは判らない。というよりもまだ書類選考にすら通ったわけじゃないのだから考えるのは早すぎるかもしれないけどここまで努力したんだから神様だって微笑んでくれるはずだ。少なくとも私はそう信じたい。
加奈子は必要書類をまとめそれを提出したみたいだ。あとは結果を待つだけ。紅葉坂46のオーディションは全部で五つの審査があるみたいで最初が一次審査という書類審査だ。これは結構早く結果が判るみたいだ。その理由は一次審査終了から二次審査開始まで十日ほどしか間がないからである。そして基本的に郵送で合否が送られてくるみたいだ。この点は結構しっかりしている。応募者全員に合否の連絡をくれるのは応募者からしたらありがたいだろう。通過者にしか連絡がいかないとなると落ちた人間は悶々と待ち続けて否定されたような気分になってしまうからだ。受かるといいな、加奈子。
人生は厳しい。そんなに簡単にいかない。誰でも東京大学に合格できるわけでも大リーガーになれるわけではない。加奈子が書類を送ったのは締め切りギリギリでそれから十日後に合否の連絡があったのだ。
結果は落選。一次審査すら通らなかった。やはりアイドルになるのは難しいのだ。加奈子は表面上は平気そうな顔をしていたけど内心はショックだったんだと思う。憧れのアイドルになりたくて自分の全てを賭けて挑戦したのにあっさりと玉砕してしまったのだからそのショックは計り知れないだろう。私もそれとなく励ましたけどそれが伝わったかは判らない。私が不安だったのは加奈子との関係がこれで終わりはしないかということだ。私が写真を撮ったから落ちたのかもしれないしそう考えた加奈子が私から離れて行くような気がしたのだ。
しかし問題は全く別の方向からやってくる。私と加奈子の友情を切り裂くような問題が。
「ねぇ、知立ちょっといい?」
ある日の放課後、私はある女子に声をかけられた。それは加奈子ではなく別の女子。田中結菜というメイクもバッチリしているような私とは住む世界の違う人間。制服のリボンを緩く結びライトブラウンの髪の毛がツヤツヤとしている。おまけにスカートは短く足もスラッと長くモデルのような体つきをしている。早い話が今風の色気づいた女子だ。
「なんですか?」
と私。
すると結菜は
「聞きたいことがあるの」
「何が聞きたいんですか?」
「東条のこと」
「加奈子ちゃんがどうかしたの?」
「あいつがアイドル目指してるってホント?」
「ど、どうしてそれを知ってるの?」
「やっぱりそうなんだ。マジウケる。なれるわけないじゃん。バカなの?」
結菜は高圧的な態度で言ってくる。
その言葉に私はメラメラと怒りが湧いてくる。何かに必死に頑張ってる人をバカにするのは絶対によくない。何よりも私の親友を汚されたのだ。けど私は臆病な人間だから何も言えずに黙り込む。すると結菜は人の不幸を喜ぶ悪魔みたいな表情を浮かべてその場から去っていく。同時にこれが大きな大きな大きな問題の引き金になってしまう。私が加奈子がアイドルを目指しているという事実を肯定してしまったから。
噂はあっという間に広まる。江戸の大火事みたいにあっという間に。その結果加奈子は白い目で見られるようになり嘲笑の対象になってしまう。それに深く傷ついた加奈子は学校に来なくなってしまったのだ。私は一人取り残され加奈子に連絡を取ってみたのだけど全く返事が来ない。加奈子が傷ついているのに私は何もできない。辛い時間が流れた。加奈子と連絡が取れなくなり季節は春から夏に変わり学校は夏休みになる。私は暗黒の日々を送っていたのだけどとうとう加奈子から連絡が来たのだ。連絡はメールで着て明日話があるから来てというものだった。
私はようやくできた友達を失ってしまうという恐怖から加奈子に会うのが怖かった。でも会いに行かなくちゃ。そして謝らないと。
翌日ー
私は待ち合わせ場所である新潟駅のバス乗り場前へ向かった。私がバス乗り場前に行くと既に加奈子はやって来ていた。夏らしくショートパンツに少しゆったりとした白のTシャツを着ている。加奈子は私を見つけるなりキッと睨みつけ
「美沙が言ったんでしょ。私がアイドル志望だってクラス中に」
その声は凍てつくほど冷たい。
南極の海に裸で飛び込んだみたいな気分になる。私が何も言えず黙り込むと恐ろしいほど静かで滑らかな声で加奈子が言う。
「さぞ楽しかったでしょうね。あたしみたいな普通の女の子がアイドルを目指してそれでダメだった。心の底では笑ってたんでしょ?」
大地震が来る前の静けさみたいな沈黙が界隈を覆う。
ようやく硬直が溶けた私はなんとか一言絞り出す。
「違う」「違うくないよ。笑ってたんでしょ。どうせアイドルになんかなれないって笑ったんでしょ!」加奈子の声が何段階も大きくなる。彼女はわなわな震えながら涙を浮かべてさらに続ける。「酷いよ美沙、信じてたのに。友達だって思ってたのに。こんな風に裏切るなんて酷すぎる!」「裏切ってない。私は本当に加奈子ちゃんにアイドルになって欲しかったし笑ってなんていないよ」「でもみんなに喋ったじゃない。約束したよね?あたしがアイドルを目指すっていうのは二人だけの秘密だって。でも美沙はそれを破った。それって笑いものにしたかったからでしょ。もうあんたなんて友達でもなんでもないしあたしは絶対にあんたを許さない!」衝撃の絶交発言。私は恐ろしいほど震えてしまうし涙が流れてくる。それを見た加奈子は拳をぎゅっと握り締め「泣きたいのはこっちだよ。K高にはもう行けないし、私の人生を滅茶苦茶にしたあんたが殺したいほど憎いんだから。もう会いたいくない。今すぐあたしの前から消えて」「加奈子ちゃん!」「名前で呼ぶな!さっさと消えろ!!」
加奈子は吠える。
その狂気を纏ったオーラに私はこれ以上対話は通じないと本能的に察する。
私はこうしてかけがえのない友達を失ってしまった。
高校に入って最初の夏休みは暗黒だった。誰もいない宇宙空間に一人投げ出されてしまったみたいな感じだ。私はどこまでも孤独で何もなかった。ようやく手に入れた友達は離れていってしまったしもう関係は修復はできそうにない。あれだけすずやんについて語り合いアイドルを目指す彼女を応援した日々は帰ってこない。私は自室で人知れず泣いた。でも泣いても泣いても泣いても何も変わらない。加奈子が戻ってくるわけじゃないしこの空白の心を満たしてくれる何かはある一点を除き何もなさそうだった。
ある一点とはやはりすずやんだ。絶望の淵にいる私を救ったというか支えたのはやはりすずやんで苦しい時に私はすずやんが歌う紅葉坂46の楽曲を何度も聴いた。彼女の歌を聞くことでズタズタに傷ついた心の痛みが少しは晴れるような気がしたのだ。辛い時寂しい時苦しい時、いつもすずやんの歌を聴いてきた。それが私の処世術みたいなものだったし一つの希望だったのだ。加奈子を失った今、すずやんだけが心の支えだったし彼女の存在がかつてないほど大きくなっていくのを感じていた。
本物のすずやんってどんな人なんだろう?会いに行きたいけどこの時の私はお金もないし新潟にいる限りすずやんには会えないのだから考えても仕方ない。高校を卒業したら東京に行こう。大学でも専門学校でもなんでもいいから新潟を離れたい。そして美しいすずやんに会って生きるエネルギーみたいなものをもらうのだ。
トップアイドルにはそれだけの力があると感じていたし人を幸せにして感動を与えられる存在が本物のアイドルなのだから私はなんとしてもすずやんに会う必要がある。
暗黒の夏休みは終わる。
二学期の始業式の日に学校に行くと担任教師が加奈子が別の高校に転校した事実を告げる。もう加奈子はいなくなってしまった。実を言うと限りなくゼロパーセントに近いかもしないけど始業式の日に仲直りできる可能性もあるような気がしていたのだ。しかし人生はそんなに甘くない。一度亀裂の入った人間関係はそう簡単には修復できないのだ。人には感情がある。最悪の場合人は人を殺すケースだってある。加奈子と決裂した日、彼女は私を殺したいほど憎いと言っていた。世が世なら殺されていてもおかしくなったかもしれない。
でもこれだけは言っておきたい。私は決して加奈子を笑いものにしたかったわけじゃない。ただ少しだけボタンをかけ間違えてしまったのだ。あの時結菜に私が加奈子がアイドルを目指しているということを正直に言わなかったらきっと運命はもっと別の形に変わっていただろう。ほんの少し歯車がずれただけなのだけどその亀裂があまりにも大きく修復できないほどずれを大きくしてしまったのだ。
アイドルを目指していた時の加奈子は本当に輝いていた。人は何かに熱中している時覇気みたいなオーラを纏うような気がする。加奈子にはそれがあったしたとえアイドルのオーディションの書類審査で落ちてしまったのだとしてもアイドルを目指して一心不乱になった努力というものはきっと別の形で花開くだろう。ただその場に私がいないのがとても悔しいのだけど。
いずれにしてももう加奈子には会えない。転校した事実を聞くために彼女のスマホに連絡したら既にその連絡先は使われていなかった。加奈子は完全に私の前から消えた。
私の高校生活は色を失いつまらなくなってしまう。学校に行っても話す相手はいないし一人で小説を読んだり音楽を聴いたりするしかなかった。高校生活も半年程度経つと既に友人関係のグループは出来上がっているし今更どこかのグループに入るなんてできそうになかった。私はまた一人になってしまう。あれだけ憧れた友人と青春を送るという日々は粉々に砕けてしまった。
不幸だったのは私は再びイジメの標的になってしまったことだろう。首謀者は結菜。彼女はアイドルを目指した加奈子を嘲笑した張本人だけど加奈子が転校してしまいからかう対象がいなくなり別の生贄を探していたのだろう。そして不幸にも選ばれてしまったのが私だったのだ。靴を隠されたりカバンの中にゴミを入れられたり最初はそういった陰湿なイジメから始まり私に対するありもしない噂を流し始めた。その噂とは私がアイドルを目指しているというものだ。
ここまで何度も話しているけど、私はビジュアル偏差値がかなり低いと自覚している。つまりブサイクなのだ。それは自分でも判っている。あと少し鼻が高かったらとか顎がシャープだったらとかそういう次元の話ではない。もう何もかもブサイク。鼻は豚みたいにペシャンコだし眼も小さくて吊り上がっているしおまけに一重だから人相が悪い。背も低いしスタイルがいいわけではなく少し肥満気味だ。こんな私に興味を持つ男子生徒は皆無だろうし一人になった私は格好のイジメの対象者としてはふさわしかった。
こんなブスがアイドルを目指しているというありもしない噂を流されて私は笑いものにされる。
「調子こくな」「キモい」「ウザい」「こっちみんなバカ」
とにかくクラス中から否定されて私の高校生活は中学時代に戻ってしまったかのようだった。
私みたいなブスはどこに行ってもイジメられるのだ。もちろんこれは私の勝手な偏見でありブサイクだからイジメられるわけではない。ブサイクであっても友達がたくさんいる人はいるだろうし彼氏がいる人だっているだろう。ただ私は顔が問題なだけでなく内面も根暗だからイジメの対象者になってしまうのだろう。私はイジメられるために生まれてきたのだろうか?だとしたらはそれはとても寂しいし辛い。人は誰だって幸せになりたいし幸せになるべきだ。でも私が望む幸せというのは決して大金持ちになりたいとかイケメンと付き合いたいとか頭がよくなりたいとかそういったものではない。友達がいてその人たちと青春を謳歌したいだけなのだ。話が合う友達がいてその人とアイドルについて話したいし一緒にライブなんかも行きたい。一緒に勉強したり休日は遊んだりしたい。たったそれだけなのだ。
きっと多くの人間が当たり前にしていることだろう。でも、その当たり前が私には手の届かない夢物語みたいに思える。夢の中で必死に逃げているのになかなか上手く走れないみたいなそういった歯痒い時間が流れる。同時にイジメられるようになり私は再び不登校になる。つまり元の木阿弥だ。イジメられたら逃げ場所として自宅を選ぶ。それしかなかった。もうK高には行きたくないし行く価値はないと思えた。
高校は義務教育ではないのでその学校に応じた単位の取得が必要になる。そして出席日数というものが大きな大きな大きな問題になる。ただ高校に出席しなくても別の場所で勉強したりすればそれが出席したことになるケースもあるにはある。学校外の施設に通いその施設が適切な指導をしていると校長が判断してくれれば高校に通わなくても一応は出席扱いになる。ただ高校生の場合はそれだけでは卒業できない。
たとえばフリースクールや自宅学習などで勉強はできるのだけど単位の取得ができないのだ。単位を取るためには定期試験で一定の点数を取らなければならないからだ。高校によっては出席日数さえあれば補講や課題の提出でフォローしてくれるケースもあるけどK高にはそういった制度がなかった。つまりK高を卒業するためには定期試験を受けて出席日数を満たす必要がある。しかしそれが私にはできない。そこで両親や担任教師を話し合った結果、私は定時制の高校に転校することになった。
定時制高校は昔は四年かけて卒業するようだったけど今は制度が変わっていて三年で卒業できるようになっている。ただ定時制高校に通うのだとしても結局は学校に行かなくてはならないから環境が変わるだけでまたイジメられる可能性がないわけではないのだ。
ただ私が転校した定時制高校はかなり自由な高風で私みたいな十六歳の人間だけではなく大人が混じっていたりしていろんな人がいる環境だった。それに毎日学校に通う人間もあまり多くなくて何処か穏やかな空気が広がっている。
なんとか高校には通うようになったけど話の合う人はいないし結局は一人ぼっちだ。でもそれも慣れた。もう一人でいいし加奈子の時みたいな友達を作ったとしてもまた問題が起きて傷つくかもしれない。そう考えると友達はいらないかもしれないし私みたいなブサイクに友達ができるはずがないのだ。一人でいい。もう一人で。あれだけ友達が欲しいと願っていたのに傷つくのが怖くて臆病になっていたのだろう。
定時制高校に転校し季節は冬を迎える。私はとりあえず学校には行っているけど友達はおらず孤独な日々を送っていた。この高校には私みたいに一定のペースで通学してくる人間はあまり多くない。気が向いたら来るという感じでこれだと本当に三年で卒業できるかどうかは怪しい。私の当面の目標は東京の大学に進学するということだ。そして東京に行ったらすずやんの握手会に参加したりライブに行ったりするのだ。絶対的な美の象徴であるすずやんに会えば私の暗黒の人生にも一筋の光が降り注ぐかもしれない。それこそ闇夜を切り裂く稲妻のように。
本当ならば今すぐにでもすずやんに会いたいのだけど今はお金もないし会いに行く手段がない。我慢するのだ。すずやんはまだ十代だから卒業するわけないし仮に卒業があるのだとしてもまだまだまだだいぶ先の話だろう。
友達はいないけど加奈子を失った苦しみから私は少しずつ解放されてきた。ちょっと前までは加奈子を思い出して泣きたくなるほど辛かったのだけど時が流れてそれを忘れさせてくれる。それでも加奈子にはもう会えないだろうし彼女みたいな友達ができるとは思えなかった。しかし私はこの定時制高校である出会いをする。それは私よりも七つ年上の二十三歳で夜はキャバクラで働いている女だった。
彼女の名は美月。千田美月という。この女と初めて会話したのは冬の定期テストが近づいたある日の昼休みだった。
「ねぇミサミサちょっといい?」
と私が弁当を食べようとしていると目の前の空いた席に美月が座る。突然ミサミサという聞き慣れない名前で呼ばれ私は面食らう。
「え?」
「美沙って言うんでしょ?だからミサミサ、可愛いじゃん」
私は生まれてこの方可愛いなどと親以外から言われた経験がない。だからこの突然現れた美月の存在にどう対処していいかのか判らない。もう友達なんていらないと心に誓っていた時期だったから少し面倒に感じる。
「何か用ですか?」
「うん、ミサミサっていつも学校来てるじゃん?だから勉強を教えてもらおうと思って。あたしさ、全然勉強できないんだよね」
「私だってできませんよ」
「そうかな?でもこのクラスで一番できそうな顔してるよ」
「そんなことないです。私を過大評価しています」
「とにかくさ英語教えてほしいの」
私はその言葉に愕然とする。
この定時制高校の英語のレベルははっきり言って最低クラスである。中学一年生レベルをやっているのだ。それも初歩の初歩でbe動詞の使い方とかそんな感じ。つまり私にはとても緩く感じられた。とは言っても私も決して英語が得意なわけではない。中学一年レベルの英語ならなんとかなっても高校生クラスの英語になると歯が立たない。これで大学に行こうとしているのだから能天気なものだ。
「教科書見たらいいんじゃないですか?」
と私は言う。
とにかくこの人とあまり付き合っていたくない。何しろここは高校だと言うのにキャバクラで働いている時みたいなメイクをしているし香水の匂いがキツすぎる。定時制高校には制服の指定がなく私はユニクロの服を着ているけど美月は今風のギャルというのだろうか?体のラインがハッキリ判るタイト目のトップスにパンツが見えそうなくらい短いスカートを穿いている。何というか派手なものが大好きな感じな服装をしている。
「そんな冷たいこと言わないでよ。ねぇミサミサ、一緒にご飯食べよう」
「いいです。私は一人が好きですから」
「ダメ、あたしはミサミサが勉強を教えてくれるまで動かないからね」
面倒な人だ。逃げられそうにない。
仕方なく私は一緒に昼食を食べる。定時制高校は給食ではないから自宅から弁当を持ってくるか近くのコンビニで買うしかない。K高の時は校内に売店があったのだけど定時制高校には存在しない。従って私はいつも母が作ってくれたセンスのない手製の弁当を食べている。対する美月はコンビニで買ってきたらしくサンドイッチにオレンジティーを用意してきている。
机を向かい合わせにして一緒に食事を摂る。今思えば定時制高校に転校してから初めて誰かと一緒に食事をする。いつも一人だったし一人でいいと思っていたのだ。だからこの突然の展開に面倒さを感じる一方でどこか嬉しさみたいなものも覚えていた。
私は一人でいいと誓っていたのだけど心のどこかでは人と触れ合いたいと思っていたのだろう。一人は一人では生きていけない。どこかで必ず人と繋がっているのだ。つまり完全な孤独など存在しない。それこそ地球上の人間が死滅したった一人生き残らない限り孤独なんてあり得ないのだろう。
「ねぇミサミサ、バイトとかしてる?」
とたまごサンドを口にした美月はそれをゆっくりと咀嚼し飲み込んだ後に言う。
それを受け私は少し間があった後答える。会話のキャッチボールが久しぶりな私は返答するまでに時間がかかってしまう。
「…いえ、してないです」
「じゃあどうやって欲しいものとか買ってるの?」
「親からお小遣いをもらっているのでそれで買います」
「へぇお小遣いってどのくらい?」
「月五千円です」
「ふ〜ん、でも五千円じゃほとんど何も買えないよね?今の時代Tシャツだって二千円くらいするよ。服とかどうしてるの?」
「私、あまり服に興味ないです。だから親とユニクロとか行った時についでに買ってもらいます」
「可愛い服とか着たいとか思わないの?」
「思わないです。私ブサイクですしこんな女が着飾ったところで虚しいだけですよ」
「そんなことないよ。勉強を教えてもらう代わりにあたしがメイクを教えてあげようか?」
「いいです。メイクとか興味ないんで。それに私が急にメイクをし始めたら親が卒倒します」
「そう、じゃあ何か好きなものとかないの?」
好きなもの。
それはアイドルであり私の中ではすずやんだ。しかしここでそれを口にするのは躊躇してしまう。オタク文化が浸透しているからアイドルが好きだと言ってもなんら問題はないのかもしれないけど加奈子の一件もあり私は誰かにアイドルが好きだというのを言わないようになっていた。どうせバカにされるだけだし美月のような女はきっとアイドルソングなんて聞かないだろう。多分エグザイルとかジェネレーションズとかそういうのが好きな感じがする。英語が苦手ならおそらく洋楽なんて聞かないだろうし。
「まぁ音楽を聞くとかは好きですけど」
と私はぼかして答える。
すると美月はオレンジティーを一口飲んだ後姿勢をやや前傾にしながら尋ねる。
「好きなアーティストとかいるの?」
「う〜ん、いるにはいるんですけど言いたくないです」
「どうして?教えてよ。私今はあまり聞かなくなったけど昔はジャニーズの歌とかよく聞いてたよ。ジャニオタってわけじゃないけど若いころは結構好きだったし」
今も十分若いのだけど二十三歳になると感覚が違うのだろうか?しかしジャニーズが好きとは意外だ。ただその理由はなんとなく判る。ホストにハマるのは実はキャバクラ嬢だという話をどこかで聞いたことがあるから似たようなものだろう。
「私ジャニーズはあまり知りません。嵐とかスマップとかトキオとかは知っていますけど」
「嵐はいいよね。で、ミサミサは何が好きなの?」
「言ったらバカにします。だから言わないです」
「バカになんてしないよ。趣味を持つのはいいことだしあたしはその人の趣味をバカにしたりしないよ。あたしさ、夜はキャバクラで働いているけどお客さんってホント色々なんだよ。会社の重役なんだけどアイドルが好きとかそういう人とかいるしね」
「そうなんですか?実は私もアイドルが結構好きだったりします」
ついに言ってしまう。
言いたくなかったのだけどこの美月という女には独特の空気感みたいなものがあってケバいオーラとは別に人を包み込むような柔らかいオーラがあるのだ。美輪明宏とは少し違うけどなんかスピリチュアルに近い何かを感じる。
「アイドルか、今だとAKBとか?」
「AKBもいいですけど私は紅葉坂46が好きです」
「なるほどね。今人気だもんね。あたしあんまり詳しくないけど女性アイドルのファンって男性だけじゃないんだね」
「はい、紅葉坂46のファンは男性だけでなく女性も結構いるんです」
「ふ〜ん、46ってことはたくさんいるんだよね。46人なの?」
「ええとそういうわけではないんです。最初は46人だったんですけど今のアイドルって卒業したりするから新陳代謝が激しい感じで今は三期生までいて全部で40人です」
「ゲゲ、40人もいるの?そりゃ名前覚えるだけで大変だね。ミサミサは誰が好きなの?」
「私は宝木涼という人です。多分紅葉坂46の中で一番有名だと思いますけど」
「あぁ聞いたことある。ドラマとかも出てるよね?」
「はい、出ています。宝木涼は愛称がすずやんっていうんですけど多彩な才能を持っているんです。歌だけでなくダンスも上手いしそれ以外には演技力も抜群なんです」
私は興奮して一気に喋ってしまった。途端恥ずかしくなり縮こまる。
するとそれを見ていた美月はにっこりとした笑みを浮かべる。その笑みは女の優しさに溢れた慈愛に満ちた笑みだった。
「いい顔してるよミサミサ、笑った顔は可愛いね。いつもブスッとしていたから判らなかったけど好きなものを話す時のあんたの顔は最高に輝いてるよ」
その言葉を聞き私の北極の流氷のようになっていた心の傷が少しずつ溶かされていく。
この人いい人なんだ。まだ全てを知ったわけじゃないけど私の本能がそんなふうに言っていた。この日を境に私は美月と話すようになる。
美月はキャバクラの仕事が忙しいためなのか毎日学校に来るわけではない。だから彼女と話すようになったからといってもそこまで親密な関係になったわけではない。ただ少しだけ彼女の背景を知った。美月は中学を卒業してから一般高校に入学したのだけど三ヶ月で中退しその後はフリーターとして生活していて二十歳を過ぎてからキャバクラで働き始めたらしい。
新潟駅の前には繁華街があって数店のキャバクラがあるみたいだけど東京などのそれに比べるとかなり規模は小さく小ぢんまりとした田舎のキャバクラなのだという。私は女だし年齢的にそのような場所には行けないからキャバクラがどんな世界なのかは知らない。それでも美月の話を聞く限りなんだか賑やかそうだけど厳しい世界だとは感じた。
美月は決して売上がナンバーワンというキャバ嬢ではなく真ん中くらいらしい。そこそこ売上には貢献しているのだけど自分がいなくなったとしても誰も困らないという位置みたい。彼女は高校を卒業していないためなかなか普通の仕事に就くのが難しい。今の時代中卒で働ける場所は本当に限られた世界でしかないのだ。だから彼女は高校卒業の資格を取るために二十三歳になってから定時制高校に通い始めた。それでもキャバクラと高校生を両立させるのは難しい。キャバクラの仕事は明け方まであるしその後高校に行くというのは若い体を持ってしてもしんどいのだろう。
それ故に彼女はあまり頻繁に学校に来ない。ただ定時制高校は基本的に単位制が多い。私たちが通っている高校も単位制を導入しておりテストを受けて一定の点数を取り単位さえ取得できれば出席日数は問題にならない。これが全日制の高校になると出席率が重要になってくるのだけど定時制高校は出席日数でいちいち文句を言われないのでこの辺は楽である。だからこそ美月のようにキャバクラで働きながら高校に通うという選択肢も取れるのだろう。
それでも問題は単位の取得になってくる。前述したとおり私たちの通う定時制高校は決して学力レベルが高いわけではない。高校生なのにやることは中学校の復習が多いし勉強ができる生徒はあまりいない。私はこの高校では比較的できる方だけどそれはこの高校のレベルが低いからでありおそらく普通の高校に行ったら赤点ぎりぎりを彷徨うことになるだろう。
つまりこの高校では余程のことがない限りテストで赤点にはならない。にもかかわらず美月の成績は芳しくなかった。前述の通り英語が苦手でbe動詞すら判らないからThis is a pen.というフレーズが理解できないし、これはペンですを英文に直させるとThe pen.と書いたりする。英語は全然できないし数学も壊滅的にできなかった。彼女は小学校で習う掛け算すら怪しく分数などの計算ができない。国語はまだマシだったけどそれでも難しい漢字になると読めないし今までどうやって生きてきたのか怪しくなるくらい勉強ができなかった。
私は彼女が学校にやって来た日、昼休みなどを使って勉強を教えたのだけどあまり理解できているかは判らなかった。ただ私は彼女と触れ合うようになり少しずつ心を開き始める。加奈子の一件以来人と付き合うのが嫌になってしまった私だけど心の奥底では人の愛に飢えていた。普通の友情を育むのは難しくても学校で話す友達くらいは欲しかったのだ。
美月はキャバクラで働いているだけあって色々な話題を私に提供してくれるし何よりも面白い人だった。そんな彼女との付き合いが始まり一年生が終わり進級を控えた春のある日、美月が私にアルバイトをしてみたらどうかと提案してきた。
「ミサミサ、バイトしてみたら?」
「でも学校があるし」
と私が言うと美月は窓の外を眺め
「この学校出席とかあんまり関係ないじゃん。それにさミサミサは勉強ができるんだからテストは大丈夫でしょ?なら空いた時間にバイトとか始めればお金も貯まるし社会経験も積めるから一石二鳥だと思うけど」
アルバイト。
私は今十六歳だから一応アルバイトはできる年齢だ。この定時制高校に通う学生の多くもアルバイトをしたり別に仕事を持ったりしているからアルバイトに対してうるさいことは言われない。しかし私にアルバイトなんてできるだろうか?今思えば私は緩い人生を歩んできた。イジメを受けて嫌になったら逃げ出して逃避の連続の人生でゆるゆるだ。そんな私がアルバイトなんてできるはずがない。きっとまたイジメられて終わりになるはずだ。
「ミサミサ、紅葉坂46のライブとか行ったことあるの?」
「ないです。紅葉坂46って全国ツアーはあるんですけど新潟は入っていなくて。北海道とか名古屋とか福岡とかそういう大きい都市ではあるんですけど」
「見に行きたいと思わないの」
「大学生になったら行こうかなって思ってます」
「今行っちゃいなよ。そのためにはバイトしてお金貯めてさ。夜行バスを使えば往復で一万円かからず東京まで行けるよ」
「でも私がバイトなんて」
「スーパーとかコンビニがいいかもね。レジ打ちや品出しがメインだから正直な話誰でもできるよ。あたしもね前の高校を辞めたたあとしばらくスーパーでバイトした時期があるんだけどなかなかよかったけどなぁ。そりゃまぁキャバクラみたいに稼げないけど東京に紅葉坂46のライブを見に行くだけのお金なんて一ヶ月フルで働けばすぐに貯まると思うしね」
紅葉坂46のライブに行く。それはつまりすずやんに会うということだ。私の憧れであるすずやんに会う。それが長年の夢だし、確かに高校生になったのだから長期の休みを利用すれば東京に行くことだって両親も許してくれるかもしれない。
「働いてみようかな」
私は漠然と言う。最後に背中を押したのは美月だった。
「大丈夫、ミサミサならできるよ」
その言葉には聞くものを落ち着かせる不思議な魅力がある。よしやってみよう。いつまでも逃げてばかりじゃダメだ。あの碇シンジ君だって新劇場版では逃げずに立ち向かっているのだから。
私はコンビニやスーパーでアルバイトを募集していないか見るようになる。ただ不幸だったのは近所のコンビニでは高校生は募集していないらしく高校生の募集があったのはスーパーだけだった。スーパーはレジ打ちの募集で高校生もOK。私は自宅に戻り両親にアルバイトをしたいとお願いしてみる。両親は初めは不安げな表情を浮かべていたけど私の社会勉強がしたいという言葉に折れてくれた。但し条件があって高校生活はきちんと送ること。それができるのならアルバイトをしてもいいと言われたのだ。定時制高校は出席率は関係ないしテストも難しいわけではない。私は大学志望だけど東京大学や早慶上智などの難関大学を狙うわけではないから受験勉強は二年生の後半から始めてもいいだろう。となると後半年以上はアルバイトができるわけだ。私は本屋で履歴書を買い、恐る恐るスーパーに電話してなんとか面接の予約をしてもらう。こうして私の新しい日常が幕を開けようとしていた。
スーパーのアルバイトの面接は拍子抜けするほどあっけない。志望動機とかどんな仕事ができるかとか色々聞かれるかと思ったのだけど私を面接した店長らしき人間は「いつから来れる?」と最初に聞き私が「明日から来れます」と答えるとその場で採用が決まる。店長の名は澤田というらしく坊主頭に近い短髪だけど白髪がところどころ混じっている人間で多分歳は五十歳を超えるだろう。私の両親と同じくらいの年齢だから親近感は湧いたけど率先して話そうというタイプの人間でなかった。
採用が決まり私は翌日からスーパーで働くようになる。私が担当したのは夕方からのシフトでとても忙しい。私はレジ担当なのだけど最初はできないので後ろに社員が一人ついて恐る恐るこなしていく。レジの作業は単調だけど初めてなので何がなんやら難しい。商品のバーコードをスキャナで読み込み全てが終わったら金額を告げてお金をもらってお釣りがあれば渡す。最初はてんてこまいになっていたけど一時間ほど経つと幾分か慣れてきた。
夕方の時間帯はスーパーが最も混む時間帯でもあるからレジはフル稼働で動いている。私が働くスーパーはそれほど大きな規模ではないけどそれでもレジが四台ありその全てが動いている。「ピッピッピ」とバーコードを読み込む音が頭の中でこだましていく。嵐のような夕方の時間帯が終わり八時を過ぎるころになると客足は少なくなり暇な時間がやってくる。他のレジ担当の人間もおしゃべりをしているしかなり自由な職場なんだと察した。
私は高校生なので夜十時以降は働けない。従って九時には仕事が終わり帰宅する。およそ四時間レジを打っていただけなのだけどずっと立ちっぱなしだったから足は疲れている。明日は朝から学校に行かなくてはならないしそれが終わったらまたアルバイトだ。このスーパーは慢性的に人不足らしく私は週五日で働く羽目になるのだけど単調なレジの作業はそれほど苦痛ではない。同僚に高校生はいなかったけど四〇代くらいの女が一人と専門学校生の女が一人、後はフリーターをしている若い男がいてそれ以外にもそれなりにアルバイターたちはいるのだけどシフトがよく重なるのはこの三人だった。
レジ打ちの仕事はすぐに慣れる。最初はこの世の終わりみたいな顔で必死になってやっていたけど一週間もするとスムーズにレジ打ちができるようになる。既に一人でレジを打つようになり細かいミスはあったけど怒られるような大きなミスはしなかった。一ヶ月ほど経つと周りの人と同じようにレジ打ちができるようになり最初の給与が支給される。
初めてもらった給与の額は三万五千円。一日四時間程度しか働いていないし新潟市は時給も低いからこの辺が妥当だ。それでもこれまで月額五千円のお小遣いしかもらっていなかった私にとってはかなり額になる。新潟から東京まで行く方法はいくつかあるけど一番早いのは新幹線を使うことだろう。ただこれは結構費用がかかってしまう。新幹線を使うとなると往復で二万円前後必要になる。今回の給与があるから東京に行けないわけではないけどせっかく東京に行くのだから少しは観光したいし日帰りではなくホテルなんかにも泊まりたい。さらに初給与を使って何か両親にも恩返しがしたいし。そうなると手持ちの三万五千円だけでは不安だ。東京行きはもう少し先にしよう。紅葉坂46のイベントは定期的にあるから急ぐ必要はない。
しかしこの時私に再び暗黒の影が忍び寄っていた。
「ミサミサバイト代出た?」
ある日の昼休み、私は美月と一緒に昼食を食べていた。美月はいつものようにしっかりメイクをしてきて金髪に近い髪の毛をポニーテールにしている。食べているのは卵のサンドイッチで飲み物に缶のコーンスープを飲んでいる。対して私は母親が作ってくれたセンスのかけらもない普通の弁当を食べている。
年が明けしばらく経ち冬も本番になる二月の寒い風にはピリッとした芯の強い刺激がある。教室はストーブがついており室内は暖かいけど外はちらほら雪が混じっている。新潟の冬は雪が降るから厄介だ。
美月は今バイト代が入ったかどうか聞いている。私は弁当の卵焼きを咀嚼しお茶で流し混んだ後答える。
「入りました」
「何円?」
「三万五千円です」
「よかったねぇ。すずやんに会いに行くの?」
「もう少し貯めてから行こうと思います」
「そう、ならさちょっとお願いがあるんだけど」
「お願いですか?」
「うん、あのさお金貸してくれない?」
「え?」
突然の美月の言葉に私は固まってしまう。私はこれまで人にお金を貸した経験がない。お小遣いしかもらっていなかったから貸せるほどお金を持っていなかったという理由もある。
「いくらですか?」
「う〜ん、三万円くらいかな、今月ちょっと厳しくてさ」
テヘッと可愛らしく舌を出す美月。私はどうするべきか迷う。お金の貸し借りだけは慎重になったほうがいいと思っているからだ。それに三万円も貸してしまったら私の元に残るお金は五千円しかなくなってしまう。そうなったら夢の東京行きは永遠に叶わなくなってしまうだろう。第一美月はキャバクラで働いている。キャバクラで支給される賃金がどのくらいなのか私には見当がつかないけどスーパーの給与より圧倒的に高いはずだ。さらに美月はフルタイムに近いくらい働いている。そうなると同年代の普通のサラリーマンより稼いでいても不思議ではないのだ。にもかかわらず彼女はお金に困っている。これは大いなる謎だった。
「お金の貸し借りはよくないと思います」
「えぇ〜、いいじゃん貸してよ。少し利子つけて返すからさ。お願い、あたしたち友達でしょ?そうだこれあげる」
と美月は言い化粧ポーチの中から新品のルージュを取り出した。そして
「これディオールの新作、キャバクラのお客さんにもらったんだけどあたし同じのを持っているからミサミサにあげるよ。友達だからあげるんだよ。ねっ!」
友達。その言葉に私は強く惹かれた。人が困っていたら助けたいと思うのが人の正直な気持ちだろう。私だってそうだし人は助け合って生きている。だからここまで進化してきたのだろう。美月が困っているのなら少しくらいお金を貸してもいいか?その時の私はあまり深く考えずお金を貸してしまう。ただこれが悪夢の引き金になってしまう。
美月に三万円貸した時私は特に借用書などは書かせなかった。そんな存在を知らなかったし美月は友達だから必ずお金を返してくれると信じ切っていたのだ。しかしそれは甘かった。一週間、二週間、一ヶ月経ち進級を間近に控えても美月は一向にお金を返してくれない。私の方もどう切り出していいのか判らずただただ迷っている。それにもらったルージュもある。これはもらった手前したほうがいいのかな?私はメイクなんてしないけど試しにルージュを塗ってみる。うっすらとピンク色の唇になる。唇以外メイクをしていないのでチグハグな感じになってしまったけど初めてのメイクに少しだけ浮き立っていた。私みたいなブサイクがメイクしても意味ないと思うけどルージュを塗るくらいならいいかもしれない。
「あの、そろそろこの間貸したお金返してもらえませんか?」
と私は美月が学校にやってきた時勇気を出して言ってみる。
しかし美月は
「ごめん、今は無理。来月ね。ミサミサは実家で暮らしているし生活費とかは問題ないでしょ?それにそろそろバイト代は入ったんじゃない?」
「入りましたけど東京に行くために貯めています」
「そう、ならまた少し貸して欲しいんだけど」
「は?」
「だからお金貸して」
「無理言わないでください。この間貸したお金だってまだ返してもらってないのに。そんなことできないです」
「友達が困っているのに見捨てるの?酷いよミサミサ」
嘘泣きかもしれないが美月は心底しょんぼりとしてしまう。その姿を見ていると力になってやりたくなる。けれどこれ以上お金を貸すのは問題だろう。
「今度はいくら必要なんですか?」
「う〜ん、五万円くらいかな、なんとか用意できない?」
「無理ですよ。私のアルバイト代三万五千円なんですから」
「前借りとかしてさ。お願い!この通り」
スーパーのアルバイトで前借りなどできない。これはいくら世間に疎い私であっても理解している。つまり私には五万円用意などできないのだ。友達が困っているのだから助けてやりたい気持ちはあるのだが今の私にはどうしようもない。
この時ちょうど授業が始まってしまいその話は流れる。しかし私は美月の本性を知ってしまう。
昼休み私がトイレの個室に入っていると電話をしたままの美月らしき人物が入ってきた。声のトーンで美月だと判ったのだけど電話の内容が衝撃的だった。
『もう少し待って、多分用意できるから』
しばしの間があったと再び美月が言う。
『いいカモが見つかったの。あたしがあげたルージュだけつけてきてさ、ブスが何やっても無駄だろってこと判ってないマジウケるやつなんだけどスーパーで働き始めたみたいで五万くらいなら用意できると思うんだよね。友達って言えばなんでも言うこと聞きそうだし。少し優しくしてやったから信頼してると思うしクソみたいなやつだけど金にはなるからもう少し待ってよ、お願いだから』
私は愕然とした。
美月の今ままでの態度は全て偽りだったのだ。全ては私を欺くための。彼女は私を友達なんて思っていない。私はただの金のなる木なのだ。だから彼女は私にバイトするように促したしそれは全て稼いだ私の給与を搾取するためだったのだろう。これ以上美月と関係を持ってはいけない。
やがて電話を終えた美月はトイレから出て行く。私はトイレットペーパーで唇に塗ったルージュを拭き取りトイレのゴミ箱にもらったルージュを捨てた。こんなものはもういらないし美月は悪魔だ。恐らく私だけ絞れるだけ絞り取って返す気なんてさらさらないんだろう。残念だけど貸してしまった三万円は戻らない。先生に頼んで強引に返してもらう方法も取れるけど美月は夜の仕事をしているし裏から怖い人が出てきたら嫌だ。あの三万円は悔しいけど諦めよう。手切れ金だと思えば安いものだ。
私はその日から再び学校に行かなくなった。嫌なことがあったら逃げる。それが私の処世術だし逆に嫌なことから逃げ出して何が悪いんだと開き直ったくらいだ。ただ美月はヒルのようにしつこい奴で連絡先を教えていたから頻繁に連絡が来るようになる。しかし全て無視する。スマホの電源を切り私は徹底的に美月を無視した。学校にはテストだけ受けに行けばいい。やっていることは中学校の復習なのだから自宅学習でも十分である。今はスーパーで働いて東京に行くだけのお金を早く稼いですずやんに会いに行くのだ。それができればこの悪夢は全て終わる。すずやんというアイドルが私の窮地から救ってくれるはずなのだ。
二年生になり夏の定期テストの時期になる。行きたくないのだけど学校に行かなければならなくなる。テストを受けて点を取って単位を取得しなければ卒業の条件を満たせない。恐らくテストの時期だから美月も来るだろうけどなるべく関わらないようにしよう。
私が学校に行くと既に美月がいて私を見つけるなり鬼の形相でこちらにやってくる。
「ちょっと来いよ。話がある」怒りの声。その声は聞いたことがないくらい恐ろしい響きを持っていて同時にヤクザ映画に出てくる姐さんみたいな狂気がある。「や、やめてください。先生に言いますよ」「お前のせいであたしがどんな目にあったか知ってる?テメェが金を渡さねぇから風俗に売られそうになったんだけど、どうしてくれるの?」「そ、そんなこと知りません。元から私のお金が目当てだったんでしょ?」「いちいちうるせぇな、テメェは絶対許さねぇからな」なんという逆恨みだろう。元はと言えば全て美月本人が悪いのである。どういう事情があったにせよ私のせいではない。「ま、前の三万円はもういりませんから私の前から消えてください」「当たり前だよ。返すもんか。いいか見てろ絶対後悔させてやるから」
そう言うと美月は静かに私の前から消えて行った。しかし問題はそれだけで終わらない。どうやって調べたのかは謎なのだけど美月は私のアルバイト先の店長にクレームを入れたみたいだ。そのクレームというのが私を名指しして態度が悪いだとかお釣りを間違えて渡されただとかそういう幼稚な嫌がらせをしたのだけどこれが結構問題になってしまい私はアルバイト先にいづらくなってしまう。ここで辞めるのは簡単だけど給与が入らなくなると東京行きが遠のいてしまう。既に十万円ほど貯めているから行こうと思えば行けるのだけど生まれてから一人で新潟県を離れたことのない私はなかなか勇気が出ずに東京行きを渋っていたのだ。
スーパーに私宛のクレームを入れた人間というのがはっきりと美月であるかは判らない。しかし店長の話では若い女の声だと言っていたし私の周りでそんなことしそうな人間は彼女しか思い当たらなかった。私はテストをなんとか乗り切って単位を取得したのだけどその頃くらいからスーパーの同僚たちに悪口を言われるようになる。もしかするとこれも美月の策略かもしれないと思ったくらいだ。
私は普通にレジ打ちをしてるだけなのだけど「お前のレジだけいつも混む」だとか「商品を袋に入れるのが雑」だとか言われるようになったのだ。その中心にいたのが坂本真琴という四十代くらいのこのスーパーのお局様みたいな地位にいる主婦だった。天海祐希の鼻をぺしゃんこにしたような顔をしていていつも人を睨みつけるような目をしている。真琴は家庭が上手くいっていないのか絶えずイライラしていて私のような少し鈍い人間をいびるのが大好きなタイプの人間であった。他のアルバイターたちも真琴に楯突くと自分が被害に合うと察しているためなかなか強く言えない。頼みの綱である店長も見て見ぬふりである。
つまり私はここでもイジメられるようになった。どこに行ってもイジメられる。なんという恐ろしい磁力なんだろうか?私はイジメられるために生まれてきたのかもしれないとそんな暗黒の考えが頭をよぎる。決定的に私を切り裂いたのは誰かが私のスーパーで着るユニフォームを油まみれにしたことだろう。これで私はもうこの場にはいられないと察しその日に店長に「辞めます」といい店を後にする。もう嫌だ。本当に死にたい。
スーパーのアルバイトは辞めてしまったけどそれで何か痛手になったかというとそうでもない。確かに月三万円前後の給与がなくなるのは辛いけど私はまだ子供で養われている身である。つまり給与がなくなったところで食べられなくなるわけではないし学校に通えなくなるわけでもない。だから嫌なアルバイトを辞められてむしろ清々とした気分だった。
夏が終わり秋が始まったけど相変わらず私はほとんど学校には行かなかった。テストさえ出席し単位を取れば問題ないのでこの辺も楽だった。ただ依然として暗黒に近い日々を送っている。世間の高校生たちは皆青春を謳歌しているように見える。私は十七歳になったけどとても寂しい十七歳だ。友達はいないし何か誇れるような力があるわけでもない。残っているのはすずやんへの気持ちだけで早くすずやんに会わなければならないと心の底で思っていた。
冬に紅葉坂46の全国ツアーが始まると聞き日程を調べると一月に東京公演があるとのことだった。それが一月二十六日。この日に東京に行こう。まだ三ヶ月くらい先だけどスーパーで貯めたお金があるし勇気を出して東京に行くのだ。もしかしたらライブ会場で気の合う人間と出会えるかもしれない。
私の暗黒だった日々に一筋の光が差す。それは暗い夜空に光り輝く一等星のように煌びやかで私を煌々と照らし出してくれるように思えた。ただその光はあっさりと挫ける。羽を痛めた鳥が飛べなくなるように。
「美沙、お父さんが癌になったの」
秋の終わりが見え始めた十一月中旬、いつもの食卓で母が言う。
「癌って治るんだよね?」
と私は尋ねる。
すると母は泣きながら
「末期の胃癌なんだって。もう助からないの」
「そんな…嘘でしょ」
「うぅぅ、お父さん、持って今年中だって」
唐突の父の余命宣告。
私の父は大の病院嫌いであまり病院に行かず調子を崩してようやく病院に行った時末期の胃癌に侵されていて余命は二ヶ月だった。それもスキルス胃癌というタチの悪い癌だったから手の施しようがなく父はどんどん弱っていく。父が病院に入院するようになり母は毎日看病しに行った。私もできる限り父の病室に行き話をする。どうして私にばかり嫌なことが起こるんだろう。
当然ではあるけどこれで東京行きは流れてしまうだろう。紅葉坂46のライブはまだ先だけど父がこんな状態なのに私一人が浮かれて東京まで行けない。このまま永遠に東京に行けないような気がする。まるで永遠に完成しないサグラダファミリアみたいな感じだった。
「美沙は本当にいい子だねぇ」
ある日私が父のお見舞いに行くと彼はそんな風に切り出した。胃癌に侵され弱っていためほとんど食事ができなくなった父は見る影もなく痩せていた。一時期は肥満で痩せろと医者から言われていたのに今では痩せすぎて骨と皮だけの状態になっている。
「私はいい子じゃないよ。学校にも行けないし、お父さんには迷惑かけてばかりだもん」
「そんなことないよ。若い頃の苦労は身になるから、うんと苦労しなさい。美沙は将来やりたいこととかあるのかい?」
やりたいこと。咄嗟に考えるが思い浮かばない。暗黒の青春を送っている私には夢などなかった。強いて言えばすずやんに会うということだったけどそれは夢と語るには少し小さすぎるような気もする。
「判んない。でも高校を出たら働こうと思う」
「大学に行かないのか?」
「うん、だってお父さん大変だし」
「俺のことなんて気にするな、生命保険だってあるし美沙が大学を卒業するまでの費用はある。お前は何も心配しなくていいんだ」
「でも…」
「お前は今までずっと辛かっただろう。学校に行かなくなって。友達とかいるのか?美沙は家に全く友達を呼ばないから」
「友達はいないよ。欲しくもない」
「そうか、だけどな若い頃の友達はいいもんだぞ。大人になってからは疎遠になることが多いけど友達といた時間というのは尊い」
「私はいいよ。すずやんがいるし」
「お前の好きなアイドルだね。話の合う人は学校にはいないのか?」
「うん、定時制高校はちょっと変な人が多くて。これは偏見かもしれないんだけど、あまり付き合いたいと思えるような人はいないよ」
「なら大学へ行って新しい人生を歩みなさい。俺の人生は後少しで終わってしまうが美沙はまだ先が長いんだからね。いろいろ経験して素敵な人生を歩んでほしい」
素敵な人生。それってなんだろう?暗黒時代を生きている私にとっては想像のつかない世界だ。でも本当に些細でいい。気の合う友達がいて好きなことに熱中できるだけの時間があってそして趣味に使えるお金がある。決して大金持ちになって六本木ヒルズとかに住みたいわけじゃない。私の願いは本当に極々些細なものなのだ。なのにその願いは聞き届けられない。
「美沙、人は何のために生きると思う?」
父は病室の窓から外を見つめ言う。
その唐突な言葉に私は黙り込む。急に言われても全く判らないし私は答えを持っているほど長く生きたわけじゃない。
「人の役に立つためなんじゃないかな」と父。
「人の役に?」
「そう、お金を稼ぐっていうのはもちろん重要だけどそれ以上に人の役に立つという姿勢が大切なんだ。だからね、俺は美沙に人の役に立つような人間になって欲しい」
「人の役に立つ。なんだか難しいね。私にできるかどうか」
「できるよ美沙なら。お前はずっと苦労してきたんだ、苦労する人間は傷つく人間の痛みが判るはずだよ。そんな人間ならきっと人の役に立てると思う」
その日の父との会話は終わる。ただ私は頻繁に父のお見舞いをして過ごすようになる。父に残された時間は少ない。もう末期の胃癌なのだ。医師からは今年の終わりまで生きられないと言われているし別れの時間は着実に近づいている。
それまで私と父の関係は比較的よかった。私が学校に行かなくなっても暖かく見守ってくれたし思春期特有の父親を毛嫌いするというのはなくどこにでもいる普通のお父さんだ。だからこそ父がいなくなるという事実を受け入れられない。今までずっとそばにいてくれた存在が急にいなくなるのだ。その喪失感は計り知れないだろう。
十二月を迎え父は本当に弱り始めている。いつもベッドに横になっているし私がお見舞いに行ってもなかなか起き上がれなくなっている。母は懸命に看病を続けているけどその甲斐も虚しく父の生命力は限りなくゼロに近づいている。
この時、私は依然として学校には行っていなかった。テストの時だけ出席し単位を取得する。今の所テストの成績は上々だからこの分であれば卒業の単位を全て取得するのは時間に問題であるように思えた。ただ私はこの先何をして生きていけばいいんだろう?これまで自分なりに自分を変えようと努力してきたつもりだ。けどそのどれもが不発に終わりいつもイジメられて終わりという結果だった。その都度私は逃げ出して家に閉じ籠りすずやんの唄う歌を聞いた。
すずやんだけが私を満たしてくれる。神様以上の存在だった。すずやんの歌を繰り返し聞いていると嫌なことが吹っ飛んでいくし私の中ですずやんという存在はなくてはならないものになっている。本当ならすぐにでも会いたいけど今の私の環境ではそれができない。本物のすずやんってどんな人なんだろう。歌なんかで声はいつも聞いているけどきっと本物のすずやんの声は天使みたいなんだろう。それにきっと風体だって素晴らしいはずだ。こんなにも神々しい存在は他に類を見ない。私の中で絶対美なのだから息が止まるほど美しいんだろう。
母は毎日遅くまで父の看病をしているから私は余計に一人の時間が増えた。父のお見舞いに行き帰ってきたらスマホですずやんの歌を聞いたり映像を見たりする。すずやんが出ているテレビドラマは全て見ているしすずやんのセリフは全て暗記している。そうすることで私はすずやんに会えない鬱憤をなんとか解消させていた。
十二月の中旬、父の容態が急変し危篤状態に陥る。私と母は父の病室で一日中看病する。この時の父はほとんど意識がなく声をかけても全く反応しない。彼の命はもはや風前の灯火だった。そして日が変わろうした十二月二十日の午後十一時二十九分に静かに息を引き取った。最後は癌の痛みを少しでも緩和するために大量のモルヒネを打っていいたから父の意識は朦朧としていた。結局最後は何も話せずに父は天国へと旅立った。
父が亡くなり私の心はぽっかりと穴の開いたような状態になる。どこまでも空虚だ。結局紅葉坂46のライブにも行けずぼんやりとした気分のまま日常を送っていた。ただ私はまだいい。問題なのは母の方で彼女は父が亡くなってから亡霊のようになってしまう。いつも虚で正気がないというか今までの明るかった母とは百八十度変わってしまったのだ。私も母を励ましたのだけど私の力は微弱すぎて母を支えられなかった。私の家庭環境は父が亡くなってから少しずつおかしくなっていく。
父が亡くなってから三ヶ月経ち三年生に進級が決まった時、母が急に明るくなって家に帰ってきた。最初はその理由がよく判らなかった。しかし話を聞くと父に会ったのだという。私は母がおかしくなってしまったのだと思い愕然とする。死人にはどう足掻いたとしても会えない。だからこそ死は尊いのだろう。なのに母は毎日父に会いに行くといい何処かに出かけて行くのだ。母が出かけて行った場所はこの時は判らなかった。しかし後日親戚の叔父からの告白でそれは判明する。
母は新興宗教団体「久遠優麗会」に入信していたのだ。この団体はいわゆるインチキ宗教であり信者から多額のお布施を集めていた。久遠優麗会のトップはビッグマムという初老の女で美月を遥かに凌駕するようなヒルみたいな人間で信者たちに死んだ人間と交信できるという餌を撒きそれで多額のお布施をかき集めていたのだ。母は父を失ったショックからこの団体にハマるようになり父が残した遺産の多くを使い込んでしまった。
父が残した遺産というのは私や母が生活できるようにするための大切なお金であり決して宗教団体に巻き上げられていいようなものではない。しかしこの時の母はすでに普通の人間ではなかった。恐らく亡くなった父と交信したというインチキを見せられてすっかりビッグマムの虜になってしまったのだろう。私が何を言っても聞こうとしないし生活の中心がビッグマム一色になってしまったのだ。
私の人生に再び暗雲が立ち込める。今のままで大学はおろか定時制高校の学費すら払うことができなくなる。三年生の後期の学費が未納になっているという催促状が届き私は困惑する。この時の私は卒業まで一年を切っていたからなんとか高校だけは卒業したいという気持ちが強かった。けれど母の中では私という存在は薄れてしまっていてインチキという名の奇跡を見せるビッグマムの存在がどんどん大きくなっていった。
宗教は容易く人を狂気に変える。新興宗教にハマってしまった母を誰も助けてはくれなかった。私たちには親戚はいるのだけど皆余計な面倒を抱えるのが嫌みたいで母を見捨てしまっているのだ。彼女を救えるのは私しかいないのだけど私はまだ高校生で力があるわけではない。それに母はビッグマムに染まっていて何を言っても聞かないのだ。妄想に取り憑かれた統合失調症の患者のように手が付けられない。問題なのは統合失調症は薬を飲めばよくなるのだけど母の場合は薬というよりもビッグマムとの関係を断ち切らないとならない。だけどそれができない。ビッグマムは母を金のなる木だと思っているし、お金があるうちは母を逃したりしないだろう。
結局私はどうにもできずただ生活が困窮していくのを見るしかなかった。父が残した遺産はわずか半年ほどで底をつく。私は高校の学費が払えず休学という扱いになり卒業すらできそうにない。もはや私の人生は悲惨の色に染まっている。母はというと金が尽きたということもありビッグマムにも捨てられている。家の中には母が久遠優麗会で買わされた金属のベルや絵画、壺なんかで溢れ返っている。そのほとんどは使えそうにないものであり極端な話ゴミだ。母は多額のお金でゴミを買わされている。同時にそれを私は止められなかった。その時の母はすでに人ではなかった。
高校の学費が払えなくなりいつまでも休学していられないため私は高校を中退する。ただ不幸中の幸いだったのは私の家は父がローンを組んで買ったものなのだけど三大疾病保障特約付住宅ローンを組んでいたため所定の癌と診断確定された結果ローン残高が0円となった。だからこのまま家に住み続けることはできる。ただ今度は私が働かなければならない。母を支えていかなければならないのだ。
しかしながら不幸は連鎖する。久遠優麗会のビッグマムにも見捨てられ路頭に迷った母が自殺を図ったのだ。彼女は失意の底に沈み電車に飛び込み結果即死だった。つまりごく短期間の間に私は両親を失ったのだ。私に残されているものは何もない。高校も卒業できず夢だった東京の大学に進学することすら叶わない。この時の私は精神をズタズタにされビッグマムに復讐する気も起きなかった。憎いのだけどお腹に力が入らないという感じだ。またたとえ復讐する気力があったとしても高校生の私にはどうしていいのか判らなかっただろう。私も死のうかな。何度もそう考えたけど私は死ねなかった。死ぬ勇気が出なかったしギリギリのところで私を救ったのはやはりすずやんという存在だったのだ。
「すずやんに会いに行こう」
極限状態の中私はそう決意する。この時私は十八歳だったー