9 旅の途中(熱)
「エミリア……?」
「……え?」
次の目的地に着いて馬車から降りて歩いていると、リオ様が声を掛けて来た。
ばさり、とリオ様のマントが翻り、私の視界を覆う。世界が暗い。すぐ横に、温かな体温を感じる。
私は今――リオ様のマントの中に入り込んでしまったようだ。
「……え、は、はいぃ!?」
「雨に濡れる。走るぞ」
夕方の曇り空に雨が降っている。この数日、ずっと雨模様だ。雨音は私の心を翳らす。
昔に帰っていくように。心が、体が身動き出来なくなっていく。まるであの時、森の中のリオ様が拘束の魔道具を付けられて歩けなかったみたいに。
ぐいっとリオ様に肩を掴まれて走らされる。
店の軒先に立ち寄らせてもらうと、リオ様は私にかぶせたマントでそのまま私の頭を拭いた。
「ぬ、濡れてしまいますよ」
「濡れているのはエミリアのほうだ。……どうかしたのか?」
言われて気が付いたけれど、どうやら先に馬車を降りた私は土砂降りの雨の中ぼーっと歩いていたようだ。
「風邪をひく。早く宿屋に向かおう。夕食は後で俺が買いにいく。エミリアは着替えて休んだ方がいい」
不思議な程リオ様が気を遣ってくれている。
「エミリア、寝ているのか?」
眠っていた瞼を上げると、外が暗くなっている。夕食を持っているだろうリオ様がベッドの横から覗き込んでいた。
「寝ていろ。机の上に置いておく。何かあったら隣の部屋に声を掛けろ」
「はい……」
眠くて眠くて、私はお言葉に甘えて眠らせてもらう。
旅の疲れが溜まって来ているのかもしれない。体が怠くて起き上がれない。心が、重い。
雨が降って、体が濡れて冷えて。
私は凍えるような時間を過ごしたことを、今日も思い出す。
元婚約者が学友たちと笑っている。
オーランドは絵画のように綺麗な容姿をしていた。金色の髪は光を浴びるとキラキラと輝く。子供の頃の彼は天使様のようだった。だけど大人になった彼はその瞳に侮蔑の色を浮かべて私を見下した。
「ずいぶんとみすぼらしくなったな」
彼はきっと没落した私と関わりがあった過去を消したいと思っているのだ。恥ずかしい汚点だと。自分の失態を隠すために私を貶めないといけなかった。仕方がなかったのかもしれない。けれどいつも彼の発言を皮切りに罵倒や嘲りの声が溢れていく。
「オーランド様に声を掛けられるなんて、身分不相応ですわよ」
「ずぶぬれでみっともないお姿ですこと」
「まぁ、こんなところで転んで、間抜けな方ね」
次々と行われる嫌がらせを黙々と受け入れ対処していく。
身分の壁のない学園内に、本当に身分の壁がなかったことなんてない。学校に告げたことはあるけれど、教師たちは黙認した。成績が急激に落ちた。そういう学園だった。そういう国だった。仕方ない、私には身分がないのだ。
――『君には魔法の特別な才がある。卒業資格は必ず助けになる。私の為にも卒業しなさい』
それはお父様の言葉。私を抱きしめてくれた、お父様とお母様。辛いこの場所から逃げる気はなかったし、逃げる場所もなかった。私はただ学んだ。学ぶことだけが私の生きる意味だった。何も出来なかった無力な子供の自分を消し去りたかった。寝食を忘れるように勉強に没頭していた学生生活は、少々狂気じみていたと思う。
だけど、だからこそ私は彼らの声を心に入れずに過ごせた。
片目を瞑るように、世界を閉ざした。感じる心を手放した。
あれは、私に必要のない『音』。それぞれ意思を持った人であるけれど、私の世界に入れなくてもいいもの。
大事なものは、この世界にはもう何一つないけれど、この胸の中にあるから。
両親はいない。両親の愛した私ももういない。いるのは身分社会で下に見られるしかない、力劣るみっともない私だけ。
私は、私の必要なものだけ、胸の中に抱えていればいい――。
そう、思っていたのに。
あの夜、第二王子の瞳がギラギラと輝いていた。怒りの籠った眼差しが、憎しみを込めて第三王子を睨みつけていた。
彼は何も諦めていなかった。片目を閉じていなかった。純粋な怒りをぶつけていた。
見た瞬間、私の冷えた体の奥底が熱を持った。忘れていたものを思い出すように。
あの瞳に私はきっと……共感したのだろうと思う。私の腹の底には怒りが渦巻いている。
圧倒的な理不尽にただ押し潰されるだけだった無力な自分。父の死を前にして何も出来なくて、上手く立ち回れずなんの助けの手も得られなかった。婚約者と上手くいっていれば援助を続けて受けられたかもしれないのに。学校に行っていなければ何か出来たかもしれないのに。親戚に頼めていれば。対策が出来ていたら。全部をきっと私は生涯後悔する。
絶望と、恐怖と、悲しみだけの記憶。受け入れがたい現実と自分自身。
あの夜。
私は勝手に、『負けた』彼の中に自分の姿を見つけて、怒っていたのだろう。恐ろしい魔の森に一人で分け行ってしまうほど。私を傷つけたあの場所も、そこで虐げられる誰かがいることも、到底許すことなんて出来なかった。
ずっと見ないふりをしていたけれど、本当は私は毎日苦しくて息が出来なかったことを……彼の姿を見て思い出したのだから。
父が亡くなるかもしれないと不安だった日々も。亡くなった後の孤独な日々も。彼らは笑っていた。
私の居場所はどこにもなくて、まるで死人のように過ごしたあの学園で、神経をすり減らした私は――。
「……エミリア」
声が聞こえる。
「エミリア、起きろ」
頬に何かが触れる感触で目を覚ました。目を開けると、漆黒の瞳が私を見下ろしていた。
「起きたか、エミリア」
すぐ目の前に焦るような表情をしたリオ様がいた。私の頬を何度も撫でる。
「はわわわわ……あ、れ?」
目が潤んでいるし鼻声だ。どうやら泣きながら眠っていたらしい。驚いた。そんなことあるんだ。
「勝手に入ってきてすまない。まだ明け方だ。魘されていたのが聞こえて来た」
「それはそれはご心配をおかけして……」
机の上のタオルを取って顔を拭くと、リオ様が私の額に手を宛てていた。
「やはりな」
「……!」
固い掌が私の頭にある。
「熱がある。今日は一日寝てた方が良い」
「……え」
慌てて顔に触ると、本当に熱い。でも熱なのか、泣いたせいなのか、至近距離のリオ様のせいなのか分からない。え、これ発熱?混乱しているとリオ様が言った。
「体調が悪そうに見えていた。無理をしていたんだろう。俺が急がせていたせいだ。悪かった」
私をまっすぐに見つめて、真面目な顔でそんなことを言うものだから慌ててしまう。
「無理していませんよ。予定通りですし、毎日充実してます」
うんうん、と頷きながら言うと、リオ様は困ったような表情をする。そうしてベッドの端に腰を掛けると、少しだけ神妙な顔つきで私を見つめた。
「なぁ、エミリア」
「……はい」
「良かったら話してみないか?俺で良ければ、話を聞く」
見つめると、リオ様は真摯な瞳を私に向けていた。
リオ様は優しい人だ。きっと心配してくれたのだろう。けれど、ただの旅の同行者として何を話したらいいのだろう。
「昔、辛いことがあったんです」
「そうか」
これまでの私の人生を、どう語ったら伝わるんだろう。
「……リオ様は」
「なんだ」
「どうしたら、恐怖を越えられると思いますか?」
「……恐怖?」
私はお腹に手を当てる。
時々腹の底から湧き上がるような、理不尽に対する怒り。
それが怒りであるのは間違いないけれど……その感情が湧き上がるだけで泣きたくなるのだ。悲しくて、あまりに苦しくて……抱え持った圧倒的な感情を吐き出してしまいたいと願う。そして……どうしようもなく怖いと思う。恐怖で息が出来ない、死んでしまうと、もがいている。
誰か助けて、怖いの、と、今でも。あの時の全ての記憶が私を苦しめる。
まるで小さな子供のようではないか。
そう思って薄く笑ってしまうと、リオ様の頬がピクリと動いた。
リオ様は視線を伏せ考えるようにしてから言う。
「その克服は俺自身も考え中だ」
「……」
「……だが」
リオ様は私をまっすぐに見つめて言った。
「過去は変えられない。けれど、次に同じことがあったときには俺が守ろう。君は命の恩人だ。俺の命に代えても、君を守ると誓う」
リオ様の言葉に、頭が真っ白になる。
「え。リオ様がですか!?」
「そうだ、未来を恐れないで済むなら、恐怖は薄れるだろう」
「え……そういうものですか?」
「そうだと思うが」
「えぇっ?なにか違和感ありません?」
「どこがだ」
真面目な顔のリオ様に思わず笑ってしまう。
守ってくださるって。旅の間、確かにリオ様は私の体を守ってくれた。
けれど、フィリアに着いてお別れしたら、もう二度と逢えるかも分からないのに。
「もう一つある」
「?」
「感情をため込むと体を壊す」
リオ様はそう言うと私の頭にぽすりと手を乗せた。
「泣きたいだけ泣いた方が良い。押し殺すと、また一人で泣くことになる。友として、君の悲しみに寄り添うことも誓おう」
「友……」
友人のように親しくなれている気はしていた。だけどこうして言葉にしてもらったのは初めてだった。
「何が悲しかったんだ?」
「父が……亡くなって」
それは旅の道づれ、やっと友人になりたてくらいの仲だけど、それでも、心を分けてくれようとするくらいには、リオ様に気に掛けてもらえている。
そのことは、私をどうしようもないほどに素直にさせる。
「亡くなったのか」
「婚約者が酷くて」
「婚約……?」
「破棄されて……何度も罵倒されて」
「そうか」
「物が盗まれたり閉じ込められたり水をかけられたり、食事を摂れなかったり、誰も口を利いてくれなかったり」
「……そうか」
「母も亡くなって、大事なものは何もかもなくなったけど、でも、卒業出来て、私は、恵まれていて……」
そこまで言ってからポロリと涙が溢れてしまう。
「あ……」
リオ様にそっと抱きしめられて、子供のように頭を撫でられると涙が止め処なく流れる。
「悲しかった……」
「ああ」
リオ様はただ話を聞いてくれていた。
「辛かったの……」
「そうか」
否定せずに側にいてくれる人の温かさを感じるというのは、こんなにも落ち着くのかと私は初めて知る。
「ひとりぼっちで……ずっと寂しくて」
「ああ、当然だ」
温かな手が、まるで私を受け入れてくれているように思えた。一人ではないと思うことを、彼は教えてくれているようだった。
「俺はお前の味方だ。もう一人で怯える必要はない」
「……はい」
味方。敵ばかりに思えたあの時に、得ることが出来なかったもの。
「恐ろしい未来にも、辛い記憶にも、耐えなくていい。一人ではない。未来の困難は俺が守る。忘れるな」
本当なら、どこまで本気なのかと疑うような台詞。
だけどリオ様の言葉はいつだってまっすぐで嘘がなかった。
他の誰とも違った。諦めないその眼差しが、私の閉じた目を開かせた。確かな信頼を私に向けてくれた。綺麗なその瞳の中に私を入れてくれた。大事な人を想う気持ちをお守りに込めてくれた。味方である、という言葉をくれた。
そうして、こうして心に寄り添ってくれる。
旅の間に、リオ様の言葉に嘘がないことを、リオ様自身の行動が示してくれていた。
リオ様は私が私であることを思い出させてくれるみたい。
毎日、リオ様が私をじっと見つめている。どんな人間であるのかをその瞳に映すように。
ただのエミリア。両親に愛され育ち、学ぶのが好きで、誰かの役に立ちたかった。傷ついて悲しくて怒っていた。本当は上も下もない、ただの私。蔑まれる中で、見失っていた、私の心。それを彼はただ受け止めてくれていた。
安心する――。
大きな胸の中は温かかった。彼の熱を心地よく感じる、そんな自分を嫌いじゃないな、と思う。
たくさん泣いた。涙が止まらなかった。泣き疲れて、朝だったのに……私はもう一度眠ってしまっていた。