6 旅の途中(夕食)
寮では、毎日朝起きると、憂鬱な一日の始まりだった。
ほとんど誰と話すこともない学園生活。あるのは、私を傷つける誰かの視線や直接的な言葉。私は耳を塞いだ。目を塞いだ。どうしようもないものに心を揺らされないように。学ぶべきものだけを吸収しようと。目の前の辛いことに、片目を閉じた。小さくなった世界は、窮屈で息苦しかった。まるで両手両足を縛られて動かせなくなったみたいに。
「あ……」
宿屋で目を覚ました朝、見知らぬ天井を見つめる。私は旅に出たことを思い出す。
「ここはもう……ミーニアムじゃないんだわ」
窓から差し込む朝日と、さわやかな鳥の鳴き声。まだ静かな朝方の気配に、心を落ち着かせる。
「……そうだ、リオ様を起こさないと」
ぼんやりと呟く。不思議。朝から話す相手がいるなんて。
旅に出たのだと、やっと認識出来ていく。いろんなことがあって気持ちが付いて行かなかったみたい。そういえば、あんな風に誰かと話したのは久しぶりだった。リオ様はとてつもなく身分の高いお方のはずなのに……普通に話してくれていたのだ。ますます不思議に思う。夢じゃないかしら?
着替えて旅の支度をしてからリオ様のお部屋の扉を叩くと、彼はもう起きていて、支度も終わっていた。
「おはようございます。お早いですね。眠れましたか?」
「ああ、おはよう。……少しは寝た」
疲れていそうだったのにあまり眠れなかったみたい。
出発の為にリオ様が部屋から出て来た。フードを被り容姿を隠している。
「早いですので朝食を買いに行きませんか?」
「ああ」
私の横に、背の高い彼が歩いていて、普通に受け答えをしてくれている。嫌じゃないわ。嫌がられてもいない。お互い良く知らない相手。だけど当たり前の会話が、なんだかほっとする。
昨日の食べ物屋のおじさんから食料を買う。リオ様は別の店で買っていた。
「おまけしておいたよ!もう行くんだね。気を付けて行っておいで」
「ありがとう、おじさん!」
フルーツを一つ多くくれている。馬車待ちの広場に腰かけて、私たちは朝食を簡単に済ませることにした。リオ様もパンを齧る。
「リオ様、おまけにもらったんです。一ついりますか?」
なんちゃって、言ってみただけだけど。食べないよね。この国の名産フルーツ。一応声を掛けてみると、リオ様は差し出したフルーツを手に取った。
え……と思う。リオ様の大きな手に包まれた赤く丸いそれをぼんやりと見つめる。
「いただこう」
「……」
見守っていると、豪快にその果実に齧り付く。食べるんだ、とか、警戒心は、とか、いろんなことが頭の中に浮かぶ。
……どうして?
なぜだかドキドキとしていた。心が騒ぐ。少しだけ楽しいことが起きたように。
「なんだ?」
「い、いえ」
なぜ食べたんですか、などと聞けない。
「お前は……たった一日で知り合いになるんだな」
「え?」
「こんなものを貰ったり」
「ああ、普通ですよ。平民はこういうものです!」
「……昨日の御者もそうだったのだ」
「御者の方?」
最後に換金の出来る店の前で見かけた姿を思い出す。何かあったっけ?
「随分前から馬車を手配してくれて前金も貰っていたのに、それとは別に高価なものを貰ってしまったと気にしていた。返せるなら良かった、と、わずかな金で指輪を引き換えてもらえたのだ。気を付けて、と言付けられている。俺一人ならそんなことを言われなかっただろうな」
「……まぁ」
知らなかった。人が好さそうな男性だったけれど。それなら悪いことをしてしまったんじゃないかしら。
「昨晩眠れなかったから、少し考えていた」
リオ様は視線を伏せるようにしながら言う。
「おそらくお前はただ通りがかっただけなのだろう。好意に甘えてしまっていたが、嫌な顔一つせずに世話を焼いてくれた。きっとお前は、良い種類の人間なのであろう」
思わず口を開けてリオ様を見つめ返してしまう。一晩の間に何を考えていらっしゃるのだ。良い種類の人間とはなんだ。
リオ様は顔を上げて私をまっすぐに見つめた。朝の太陽の光を浴びて、ローブの隙間からこぼれる艶やかな黒髪が煌めている。
「動物を保護するように連れて来ただろう。本来なら面倒ごとであるはずなのに、たいして気にしてもいないようだ。おおらかなのか、世慣れているせいなのか。ありがたいが……とても普通のことだとは思えない。人との距離感が、近いのか?」
考えるようにしながらリオ様が言う。
心臓がどきどきとしていた。
弱っている様子のリオ様は、自分のことで精いっぱいで、きっと私のことなんて考えてもいないんだろうなって思っていた。でもそんなことはなかったみたい。なんだかすごく考えてくださってる。
どうしよう、少しだけ……嬉しい。たぶんきっと、同行者にほんの少しでも気に掛けてもらえるだけで嬉しいものなんだ。それも、好意的に捉えて気に掛けてくれているのだから。
「ふふふ」
「……」
楽しくてなんだか笑ってしまう。
真面目だな、って思う。すごく素直な捉え方。まっすぐ過ぎるくらいに伝えてくれるのは、気持ちがいいな。ああ、そうだ。イシュハル様も言っていたもの。まっすぐな人だって。本当なんだ。
リオ様の言葉は、朝日のようにどこかすがすがしく私の中に届いていく。
「考えすぎですよ」
「考えすぎ?」
リオ様は、私の反応が分からない、という表情をしている。
「平民はこういうものなんです。目の前にいる人が辛そうだったら放っておけないじゃないですか。出来たら笑顔で送り出したい。笑い合って過ごしていたい。それだけなんです。リオ様だって倒れている人がいたら放っておかないでしょう?」
「それはそうだが……」
納得していないようなリオ様だったけれど、次の街に向かう馬車が来たのでおしゃべりは終了。私たちは一刻も早く南の大国に渡った方がいい。しばらくは無理をしてでも移動に集中していた方が良いと思っている。
夕方次の街に着くと、「買い物に付き合ってくれないか」とリオ様が言った。
古着を買いたいそうだ。ふらりと街の古着屋入ると、旅装一式と鞄を選んでいる。
地味な茶色のフード付きのマントと目立たないシャツとズボンを手に取ると、私にどう思うかと聞いて来た。問題ないと思いますよ、と答える。今の黒の魔導士のローブは顔は隠せるけれど、背の高い真っ黒な巨体が歩いていると目立ってしまうもんね。これから魔導士の少ない国を巡っていくわけだし。
雑貨なども購入して宿屋に着いてから私は言った。
「石鹸を購入してきました。洗濯をしますので、着替えられましたら洗い物を渡してください。今日は風が強いから朝までに乾きますよ」
「分かった」
肌着は体を洗ってからでもいいけど、大きいものは先に洗っておこう。
私も着替えてから洗濯物を持って廊下に出ると、リオ様が待っていた。
旅人のような、なんでもない服装に着替えているのに、目を引く容姿だなと思う。鍛えられた体なのが伝わってきて、ぱっと見の印象が、強い剣士や冒険者なのではないかと思わせる。フードの隙間から覗く瞳が私を捉えた。
「待っていた」
「受け取ります。浴場に行っていていいですよ」
「なぜお前がしようとするのだ」
「……」
「洗濯場があるのだろう?」
きょとんと見つめ返すと、リオ様は視線を伏せた。
「驚くかもしれないが、身の回りのことを一人でしたことがない。それに気が付いた」
そうだよね。王族だもの。学園にだってお付きの人と来ていたんでしょう。
「自分で出来るので場所を俺に教えてくれないか」
驚いた……本当に驚いた。気付いたからって、自分でやってみようと思うものなのかしら?
「……こちらです」
内心どきどきとしながら、やっぱりどこかで嬉しく思っている。
この人は本当に王子様だったのに、平民の私に普通に教えを請える人。内心は分からないけれど、なんて素直に見える人なんだろうな。
元王子様と過ごすなんて、どれだけ気を遣って過ごさないといけないんだろうと少し心配していたのに。これではむしろ気を遣ってるのはリオ様の方だ。きっと同行者の私の負担にならないように考えてるんだろう。
……この人は本当に、いいな。
足早に歩いて、宿の庭にある水場に向かう。桶や洗濯板が置いてある。教えるほどのことじゃないけれど、リオ様も普通に洗い物をし出した。その姿は……普通の旅人にはやっぱりちょっと見えない。ジロジロと見てしまったようで、リオ様が気が付いて顔を上げた。
「服は途中で埋めていく」
「は、はい……」
今洗っているのは肌着などだけみたい。
それにしても、埋めていく、か。この人はどこまで私のことを信用しているんだろう。何も事情を聞いていないのに、そんなことを言うなんて。もう私を秘密を教える相手に選んでしまってるんだろうか。それはちょっと怖いなぁ……。
「分からないことがあったら聞いてくださいね。浴場の使い方も分かりますか?」
「周りを見ていれば分かる」
「……はい」
なるほど。だからこの人は私のことも必要以上に見ていたのかと理解する。
たぶん、逃げ延びることに必死になっていて、平民に紛れられるように神経を張り詰めているんだろうな。少しやつれているその横顔を見ながら、心配になって声を掛ける。
「夕食はどうされますか?私はなにか買ってこようと思うんですが」
きっとまだ怪我も治っていないだろうに、無理しているんだろうな。私にも何か出来たらいいのに。
「リオ様の分も買ってきましょうか?」
「なら終わったら買いに行こう。良かったら一緒に食べないか」
一緒に……食事を?もう警戒されていないのかな?
リオ様のまっすぐな視線を浴びながら私は承諾した。
「お邪魔します……」
リオ様の部屋で夕食を食べることになってしまった。
あまり危機感は抱いていなかった。普通の人より魔法が使えることもあるけれど、とても真面目そうなこの人が何かしてくるように思えなかった。それよりも、毒を盛れそうな距離感に私を入れることに驚いた。
狭い部屋の中、私が椅子に座ると、マントを脱いだリオ様はベッドの上に腰かける。
リオ様がちらりと私に視線を向ける。なんだろうな、と思う。何か話したいことがあるんじゃないのかなって。けれど何も言ってこない。
「……おいしいですね」
「ああ」
静かな空気だけが漂う。気まずいよ。会話が弾まない。王族と話す世間話なんて想像も出来ない。
「聞きたいことがあるだろう」
そう、リオ様は切り出した。顔を上げると、漆黒の瞳が私を見つめている。
「何でも答えよう」
その気真面目そうな表情に、私の方が慌ててしまった。聞きたいことって。そんな直球で言われても。何を聞いたらいいのか。
「えっと……お怪我は?」
「うん?」
「お怪我はされていませんか?傷の治療は必要ありませんか?」
我慢されているんじゃないかとずっと心配していた。
リオ様は少し驚いたように私を見つめた。視線を自分に落とし、もう一度顔を上げると言った。
「大きな怪我はしていない。そのうち治るものばかりだ。そんなことを気にしていたのか」
「良かったです……」
本当なら大事には至らないだろう。あんまり無理はしないでもらいたいけれど。我慢強そうな人なのだもの。
「他には何もありません」
そう言うと、リオ様は何かを言おうと大きく口を開けて……言わずに口を閉じた。
「……そうか」
「はい」
沈黙がまた落ちてくる。腕を組んだリオ様が気まずげな視線を投げてくる。
何か聞いた方がいいのかな……聞いて欲しそうな空気は感じる。自分からは説明しづらいのかも。そうは言っても……何を聞いたらいいんだろう。
追放されたお気持ちは?とか、聞く人いる?いないよ……。復讐するんですか?って聞いてするって言われたら、とっても困るよ……。毒を盛ったんですか?亡命するんですか?お国はどうされるんですか?
何を言っても失言になってしまいそうで、結局何も聞けなくなってしまう。頭がぐるぐるする。
「あ……」
「なんだ」
「知りたいことがありました。でもご迷惑かも……」
「なんだ、言ってみろ」
リオ様が前のめりになっている気がする。気のせいだろうか。
「魔物って、いるんですか……?」
「……」
「魔の森の噂って本当なんでしょうか」
ずっと気になってた。魔法感知にリオ様は引っかかったけれど、後は鳥っぽい生き物くらいしか見つけられなかった。あの場所に魔物が生息しているようにはとても思えなかった。夜になると出てくるのかもしれないけれど。
「魔物は、いる」
「いるんですかー……」
怖いなぁ。お伽話の世界だけじゃなかったんだ。
「いるが、俺は魔の森では会っていない」
……なんですと!?
「獣に襲われたが、魔物ではなかったな。動きを封じられていたから手間取ったが」
「良くご無事で……!良かったです」
あの血は獣の血だったんだね。
でもそうすると、魔の森への追放が死刑ってことじゃなくなっちゃわない?きっと本当にリオ様の死を望まれていたはずなのに。
「魔物の生態はあまり知られていない。お前が知らなくてもおかしくない。あの森はまだ入り口だ。奥の山の中には多く生息していると聞く。魔物は、人に見える姿のものも居れば、人の目には見えない姿をしているものもいるんだ。とはいえ、あまり人の前まで降りては来ないな。やつらは魔力を好むのだ。山そのものが生み出し続けている魔力がやつらを引き付けている。わざわざ生息地から離れようとするものは少ない。何度か討伐に参加したことがあるが、人里に降りてくるのは稀なことだ」
饒舌なリオ様にちょっと驚く。
馬車の中長く黙り込んでいたから寡黙な方なのかと思っていたよ。
「稀なこととはいえ、一人で魔の森に入ることなどとても勧められない。何が起こるか分からない場所だ。お前はもうあんな無茶はやめた方が良い」
「そ、そうですね」
まぁもう二度とする気はないけど……リオ様の中では私は危険な場所に一人で遊びに行くような命知らずだと思われているようだ。でも、きっと、本当にそうなんだろうけど……。
私はなんであんなことが出来てしまったんだろう。
あの夜私はとても怒っていたんだ。どうしても許せないという気持ちが膨らんでしまって、ただその怒りに突き動かされて動いてしまった。想いを止めることは出来なくて、それは私にはとても自然なことだったのだけど。
もしそれをリオ様に聞かれても……きっとうまく伝えることは出来ない。
「俺は本来、あの森の奥に捨てられるはずだったのだ。無知な兵士たちに入り口に捨て置かれただけだ」
決意を秘めたような眼差しをリオ様から向けられる。
心臓がどくりと跳ねる。
あ……と思う。
「本当に助かった。お前……エミリアが居なければ、この国まで到底辿り着けなかっただろう。感謝している」
「そんな……気にしないでください」
とうとうリオ様が追放に付いて触れてしまった。
何も知らない平民と訳ありの王子様の関係が崩れてしまう。きっと正直な人だから。黙っておけなかったのだろう。私は少し困ってしまう。だってそれほど覚悟して彼を助けたわけではないのだ。
「巻き込むつもりはないから詳しく話さないが、俺はおそらく追われている」
「……はい」
「どうにか秘密裏にフィリアに入りたい」
「はい」
「危険から守ると誓う。改めて言うが、どうか手を貸してくれないか」
「……」
「俺自身にはやましいところはない。今後落ち着いたら力になることも誓う。お前の善意に甘えることは分かっているが、今の俺は信用できそうな人間をエミリアしか知らない」
なぜ、とただ不思議な気持ちになる。私だって出会ったばかりなのに。
「私で……いいんでしょうか?」
「ああ。俺と共に居てくれるだけでいい。目立たず、平民に紛れられるように助言してくれ。俺のことを人に話さず、詳しく聞かずにいてくれる同行者として。何かあったときは何も知らなかったと言えばいい」
「……それなら、構いません」
「そうか」
リオ様は満足げな笑みを浮かべ、そして思い出したように言った。
「目の前にいる人が辛そうだったら放っておけないか……」
「え?」
「今朝お前が言った言葉だ。今のお前はそんな気持ちなのだろうと思ってな」
「……」
今の私はそんな思いでここにいるんだろうか。それだけではない気もする。心配するような気持ちだけではないのだ。だけど自分でも良く分からない。
リオ様は手を差し出して来て、私と握手を交わした。
「フィリアまでだ。頼んだ」
「かしこまりました」
「この街までは追われるものだと思っている。この先の行動は細心の注意を払って行う」
「はい」
固い手だった。剣を握って生きて来ている男の人の……戦いを知っている人の手だ。
力強さを感じる掌の温かさが、ランプの灯りのように私の心を揺らしていく。
リオ様といると不思議だ。自分でも分からないのに、心の中の何かが動かされていくみたい。
何もかも失ったはずの私が、何も持たぬ元王子様との旅を、こうして改めて選んだ。