5 『図書室』
暗い暗い、それはもう真っ暗な気持ちになるばかりだった学生時代、私は図書室に籠っていた。
魔法国家でも最高の魔法学園の図書室は、生徒で賑わう本校舎の中にあったけれど、そこは人目が多すぎて、落ち着いて本が読めなかった。
けれどもう一つ、蔵書を保管している別校舎の中にも、小さな図書室があり私はいつもそこに入り浸っていた。
本校舎から程よく離れ、緑に囲まれた静かな場所で、教師に頼まれた本でも探しにくる生徒が居ない限りは誰も訪れないような人気のない図書室。一世代前の、古びたテーブルや椅子が置かれているのも心が落ち着いた。何より、恐ろしいほどの貴重な本を手に取れるのだ。こんなに嬉しい場所はない。
本の世界は私の心を落ち着かせた。
目の前にある現実は辛くなることばかりだった。授業が終わっても辛かったことが頭を巡り、ずっとこの苦しい場所から逃れられないのではないかとそんな風にも思えた。
けれど本の世界が、私をひととき別の場所に連れて行ってくれる。
それは空想の世界のお話だったり、色々な知識の話だったり、多様な種類の本だったのだけど、私が狭い世界で生きていることを教えてくれたのだ。
広大な星空を見上げる時のように、世界が広いことを思い出させてくれる。一冊の本を読み終わったとき、いつも私は、読む前の私とほんの少し変わっている。少しずつ、視界が開けていくように。それは誰にも分からないくらいの微々たる変化だけど、それでも確実に変わっているもの。
本の世界は、私の心を傷付けずに、そっと世界を広げてくれる。
「なになに……西の国の、お姫様のおとぎ話?」
窓際の机で、物語に夢中になっていると、聞きなれた声が頭上から降ってきた。
顔を上げると、長い赤毛のくせ毛を腰まで垂らす、いたずらっぽい表情をした青年が私を見下ろしていた。
「イシュハル様……」
「イシュって呼んでよ。僕ら親友だろう」
楽しそうに笑って隣の椅子に腰を下ろした彼は、南の大国からの留学生だ。
線が細く、女性のように美しい容貌を持ち、赤いくせ毛が光に透けて彼を輝かせている。だけど少年らしさも感じさせる彼の親しみある笑顔が、警戒心を薄れさせる。
「本当に色んな本を読むね。面白い?」
「はい。この学園の蔵書であるのも分かる本です」
「ふむ?」
「お姫様が民の苦しみを一つずつ解決していくおとぎ話ですけど……魔法を使っていたんじゃないかと推測されるような描写がいくつかあります」
「へぇ」
「干ばつに雨を降らせたり、病気を治したり。はるか昔にも魔法を使いこなしていたのかもしれないですね」
「魔法だったらすごいね」
「そうですね。まるで魔法は、そう願う人間の想いから生まれて行ったような……不思議な物語です」
にこにこと興味深そうに聞いてくれる彼につい色々話したくなる。こほんと、咳ばらいをしてから私は言った。
「こんなところに居ていいんですか?みなさんきっと探していますよ」
イシュハル様は人気者だ。それはすごいことなのだ。
この国と違って南の大国は、魔法が使える人が少ない国。物作りの優れた技術を発達させる勢いが凄く、とても素晴らしい国なのに、なぜか魔法国家の国民は魔法を使えない国を少し蔑んでいる。
だからイシュハル様がいらした当初は孤立しそうに見えたのに、イシュハル様はその笑顔で生徒たちの懐に入り込んでいってしまった。話せば、みんながイシュハル様を好きになる。不思議な人望のある人だ。
うーん、とイシュハル様は少し伸びをしてから、笑って言った。
「ちょっと疲れちゃって。今日いろいろあって」
こんなことを言うイシュハル様は珍しい。
「どうかされたんですか?」
「うーん」
くせ毛をいじりながら、なんでもないことのようにイシュハル様は言う。
「あれがほしい、これしてほしい、なんで分かってくれないの、とか。言わないでもやってほしい、とか。そーいうの」
うーむ、聞いてもなんだか私には難しそうな人間関係のお話のようだ。
「僕が言うなって話だけど、まっすぐな人は一緒に居て落ち着くな」
「まっすぐ……ですか?」
「それはもう心配になるくらい馬鹿正直で、頑固なくらい自分を持ってるからすがすがしいくらい情熱があるんだけど、だからこそ自分で自分を楽しませることが出来るからいつもキラキラしてるの。一緒にいると楽しくなる」
「まぁそれは素敵な人ですね」
私の言葉にイシュハル様は楽しそうに笑う。
「僕のおすすめの本も聞く?」
「ええ!是非!」
イシュハル様は時々こうして図書室に現れては、私と本の話をしてくれる、不思議なお友達だ。
きっとイシュハル様は学生皆と平等に親しいのだろうから、私だけが特別なわけではないのだろうけど、貴族から平民になった私には友達などいなくて、恐れ多い人なのに……私は心のどこかで話してくれることがとても嬉しかった。
「フィリアの本でもいい?」
「ええ!是非!イシュハル様の国、いつか行ってみたいです」
「うん。卒業したらおいでよ。大丈夫、この国と違って、身分に関係なく役人になれる制度もあるよ。試験受けにきたら?」
「え、本当ですか?ちょっと考えてみます」
「ご飯もおいしいよ。君好みの香辛料をたっぷり使った肉料理が多いから、きっと気に入るよ」
「わ~お肉……」
話をしていると、カタ、と扉が開く音がして、私は慌てて口を閉ざして顔を伏せる。
隣でイシュハル様が立ち上がって歩き出した。こっそり様子を窺うと、イシュハル様の綺麗な髪の後ろ姿と、そうしてもう一人青年が立って居る。長い黒髪の大きな体。鋭い眼光の……あれは、第二王子シュリオン様だ。
「この本を探している」
「ああ、この本なら……」
イシュハル様が私を振り返り、私に声を掛けたそうな顔をしている。たぶん一緒に本を探して欲しいんだろう。
「えーと、エ、」
だけど私は思いきりぶんぶんと首を横に振った。
「うーん……たぶん、こっち、シュリオン来て」
「ああ」
遠ざかっていく足音を聞きながら、ほっとする。
平民の私が、他国の王子様であるイシュハル様と話すだけでも本来あってはいけないことなのに、身分制度の厳しいこの国の王子様の視界に入るなんて、考えるだけでも恐ろしい。
でも……イシュハル様がシュリオン様と一緒に居るお姿はよくお見掛けする。
遠目からだけど、イシュハル様がとても良い笑顔をしているのだ。普段多くの人に囲まれている時とは違う、無邪気さを感じる笑顔。だから、イシュハル様がさっき言った『まっすぐな人』は、もしかしたら……シュリオン様なのかもしれない、って思う。
この国の第二王子、そんな王族の方が、まっすぐだなんてことあるのかしら。しかも馬鹿正直とか言われてたけど。
私は少しだけ、ふふ、と笑ってから、差し込みはじめた夕日を見つめた。そして、今日は良い日だったな、と思う。
辛いことが多い日々で……悲しい思い出は消えないけれど、こうして少しだけ楽しい会話をすることもある。夕日が心に沁み込んでいくような、こんな穏やかな気持ちで日々が過ぎればいいのにと、願うように思った。