13 シュリオン(1)
生まれてからずっと、比べられてばかりの人生だった。いつだって、より不利な条件で。
四つの歳に母を亡くし、立場の弱い第二王子として育った。
父王とも数度顔を合わせた程度しかお会いしたことはない。愛情などなければ強く庇護するつもりもないのだろう。俺自身には利用価値すらなく、王家の血を引いているという理由だけで生かされている立場だった。
そんな環境で成長すれば、自尊心など育たない。
本当の意味では自分を守り育む意思を持つ者など誰一人いない場所で、俺はずっと、一人きりで生きる獣のような気持ちで過ごしていた。
兄王子は、王妃の子であり、能力にも問題はなく、期待され人望もあった。
そんな存在と比べられる謂れもないはずなのに、常に比べられていたのは悪い意味でだ。
『兄王子の方がより優れている』その言葉で、側妃の子の評判を落とし、王太子を持ち上げるためだった。後ろ盾のないに等しい俺の存在がその程度のものだったのも理解していたし、それでいいと思っていた。
けれど兄は、人格者であった。
弟を不憫に思い、気に掛け、10歳を越えると時折共に剣の稽古を出来るように計らってくれた。
「シュリオン、お前は、強い。心も体もだ。剣だけならば俺より強くなるだろう。折れるな。俺はお前と国をつくって行きたい」
「兄上、お支え致します」
「表立って何もしてやれなくてすまない。だが、俺は、お前が居なければ、一人では自信がないのだ」
兄は、気弱な父王や、凶悪性を抱え持つ弟を憂いていた。
「兄上ならば立派な王になられます」
「アンドリューもそう思ってくれていればいいのだがな」
弟アンドリューや母親とその生家が、弟を王にと目論んでいるいることは知っていた。彼らが手段を選ばずことを起こせば国が荒れる。
「俺がお守り致します」
「シュリオン……」
兄は思いやり深さと強い心を持つ、正しくあろうとする立派な人だった。
その人柄が、俺は好きだった。
王家の血を色濃く表す金色の髪と青い瞳を持つ、美しい王子。きっと民にも臣下にも愛される王になるだろう。
それに比べれば、俺の存在は、兄が引き立つように添えられるだけの駒。
けれど俺は、比べられようが、貶められようが、兄の為になるのならどうでも良かったのだ。
生まれた頃にすでに決められていた婚約者がいた。
彼女の名前は、サファイア・フローレンス。侯爵家の令嬢だ。
婚約が結ばれた当時はまだ母も生きていて、そして祖父の家も力を持っていたそうだ。けれど今となっては、何もないに等しい。彼女は無力な第二王子の俺との将来を約束させられた哀れな娘だった。
「ごきげんよう、シュリオン様」
「久しぶりだな、サファイア」
定期的に顔合わせをしていた。茶会と言う名で会うことが多い。
フローレンス家の庭園に用意された茶会の席で、13の歳になったばかりの俺たちは笑顔を張り付けていた。
初めて会った7つの頃には、子供らしい交流もあったものだが、彼女はすぐに感情の分からない笑顔を浮かべるようになった。
長い銀色の髪、緑色の美しい瞳。華奢な体が風景に溶けてしまいそうに儚げで、まるで妖精のようだと例えられる美しい娘だ。
大事にせねばならないと分かっている。けれど、女と言う存在が俺にはよく分からない。
近況を聞き、意図を汲み、エスコートを欠かさず、将来ももちろん不実なことをするつもりもない。
そんなことだけでは、大事になど出来ていないのは分かっていた。
今日もとても美しい笑顔を浮かべて俺を見つめている。感情の伝わらない作られた笑み。だが長い付き合いだから、感じるものがある。笑顔が綺麗であればあるほど、おそらく機嫌が悪い。
「なんだ?サファイア」
「……庭を散歩しませんか?シュリオン様」
「ああ」
サファイアはエスコートする俺の腕に手をかける。
すでに背が伸びている俺の肩ほどの背丈のサファイア。小さな体だ。
美しい宝石のようだとも例えられる娘であるのに、俺にとっては近寄るだけで壊してしまいそうで、心元なくなる存在。
花壇に囲まれた場所で、サファイアがふいに体を寄せてくる。
「シュリオン様、こちらをご覧になって」
俺を屈めさせたサファイアは、小さな声を俺の耳元で囁く。
「……あなたが王におなりなさい」
びくりと体が揺れる。一拍置いてから、動揺しないように息を呑む。
「……そんな道はないのだ。サファイア」
俺が王になるには、人ならざる道を歩むしかない。そんな気はない。
「それはお前の意思か?」
そう問うと、サファイアは視線を逸らした。違うのか。ならば、侯爵家の意思か?
そうなると厄介だ。何を企むか分からない。俺の意思を置き去りにされる可能性がある。
「あなたは、いつもそうね」
サファイアが、ふふ、と笑顔を浮かべて言った。
「欲しいものなどないのかしらね?」
あるに決まっている。生き残るのだ。
「それではだめなのよ、シュリオン様……」
彼女はそれ以上語ることもなく、茶会は終了した。
それから数か月後、兄王子が亡くなった。
吐き気がするような現実に慟哭した。立派な王になるはずの兄が居ない!
俺は真っ先に、侯爵家を疑った。けれど、なんの証拠も手掛かりも得られなかった。
兄は十八歳だった。誰も王太子の早すぎる死を想像していなかっただろう。
すると今度は、俺は比べられる対象が異母弟になった。
十四歳になった俺と、弟王子のどちらかが王太子になるのだと競い合わされたのだ。
出来が良くなく、歪んだ性根を持っている弟よりも、人望だけなら俺の方があったのかもしれない。
けれど母を亡くした俺は最低限な教育しか受けておらず、後ろ盾もなく人脈も築けない。もともとが、弟の下になるように育てられていたのだ。俺はまた弟を持ち上げるための駒になるのだと思った。
弟の残虐性は幼い頃から際立っていた。使用人に対する厳しい罰や拷問の話を伝え聞いていた。父王の叱責など聞き入れないと言う。ある日、血だらけの死体のようなものが廊下に転がっているのを見た。使用人だった。まだ生きていた。
「待て!アンドリュー!これはなんだ!?」
歩き去ろうとしていた弟を問いただした。
「俺のものを穢したんだよ」
汚らわしいものを見るように俺に視線を投げ、兄に似た美しい容姿を持つ弟は嗤った。
「生きている価値などないだろう?」
弟は本気で言っていた。
「……何を穢したんだ?」
付き人に問えば、彼の持ち物を落としたのだと言う。ただの紙切れ一枚を。
「ああ、汚らわしい」
立ち去るアンドリューの台詞は、使用人にも俺にも向いていた。
その時、俺の心に湧いた怒りの意味が、今でも掴めない。
弟の人間性に対してなのか。
不当な体罰のせいなのか。
己の青い正義感のせいなのか。
こんな人間と比べられている自分の立場のせいなのか。
その上で下に見られる自分に対してなのか。
理由も分からないのに、これを王にしてはいけないと、本能が言っていた。兄が目指そうとした国を、こんな奴には任せてはおけない。俺が彼と争うことにしたのは、ただそれだけの理由だった。
争うことは、自分の身を危険にさらす。
母の死は毒殺が疑われていた。その声は、王家の医師により消されてしまった。その日まで病気もなく元気であったが食後に不調を訴え、そのまま亡くなったのにだ。何が心臓の不調による突然死なのだ。身内である俺が一番にその死に疑いを持っている。
「まるで、闘技場で戦わされる奴隷だな」
もちろん、俺のことだ。
ここは、かつて存在していた闘技場の中のようだと思う。奴隷同士を死ぬまで戦わせていたという、負の歴史の中にあったもの。生き残るには、俺は死ぬまで戦うしかない、王家の奴隷だ。
凡庸であるように育てられた自分の境遇を知っている。そしてそれが己の命を守る術だ。
比べられようが負け続けなくてはならない。
なのに……その時の怒りは俺を変えた。
体を支配したその怒りを、生きる意味にしてしまった。
いらぬ存在として育てられた王子として、生きる理由などどこにもなかったのに、死に導かれる短い道を歩んでいるというのなら、せめてたった一つの生きた証を見出したかった。
「闘技場で勝ってみせよう」
無理だろうと分かっていても、俺が俺であるために、命を懸けることを決意したのだ。
学園に通う歳になった。
都から遠い学園では寮で暮らすことになる。
どういう気まぐれか、サファイアが初めて寮へ向かう日、同じ馬車で送ってくれるように願い出て来た。
荷物を別の馬車に詰め込み、俺たちは同じ馬車に乗った。
分かっている。おそらく、二人きりで話したいことがあるのだろう。
馬車の中、旅装に身を包むサファイアは優雅に微笑んだ。
「シュリオン様、私は、婚約解消のために動きます」
ついにそうなるのか、と俺は、ただ思った。
「そうか。それはお前の意思か?」
俺の問いにサファイアは一瞬きょとんとしてから、ふふ、と笑った。
「まぁ。私の意思ならば叶えるような言い方ですわね」
「お前たちにとって俺との婚約など、今となっては、何の利点もないものだろう」
楽し気なサファイアの笑みから、きっと彼女の意思があるのだろう、と分かった。
ならばアンドリューに付くということか。
息子を亡くした王妃は心を病み、静養に出ていると聞く。今のアンドリューの一派に敵などいないのであろう。
後ろ盾を失い、これだけ立場が弱くなれば、俺は殺されることすらなくなるかもしれないな、そう考え皮肉気な笑みが浮かぶ。
「陛下が許しません」
「だろうな」
だからサファイアは解消に動くと言ったのだろう。
「学園では私への接触は必要ありません。解消まで、公の場での最低限のエスコートをお願いすることはあるかもしれませんが、それ以外は不要です」
「了解した。侯爵の意思でもあるのだな?」
「もちろんです」
なにもかも、彼女たちの中で決まっていたことなのだろう。
「貴方にお願いしたいことは、私が動いた時に了承してくださることだけ」
「分かった、了承しよう」
俺の即答に、サファイアがじっと俺を見つめてくる。
「もう少し、なにか言いたいことはございませんの?」
「俺に選択肢などない。今まで付き合ってくれたことを感謝している。サファイア、今度こそ、お前を幸せにできる男を見つけろ。まぁ、アンドリューでは無理だと思うがな」
侯爵なら、アンドリューを婚約者へと定めて動きそうなものだが。
サファイアは表情を失くしたかと思うと、急に美しく笑った。
感情の分からない、妖精のような美しい笑顔。
「シュリオン様」
「ああ」
「貴方では無理なのです」
「なにがだ?」
「貴方では、私を幸せに出来ないのです」
「……」
「貴方などでは、私のことが、何も分からない。永遠に!」
急に激しく叫ぶサファイアの様子に驚く。こんな女ではなかったのに。
「燃え盛る炎。枯れることのない器。天性、などというのもおこがましい。あなたのように、生まれながらに何もかも持っている人に、私のことなど分からない!」
何もかも、持っている――?
彼女の言葉に、頭を殴られたような気持ちになる。
何も持たない俺に、何を。
「お前は、何を、言っているのだ?」
怒気を孕んだ声を出してしまうと、サファイアが嬉しそうに笑う。
「ああ、嬉しい。最後に、貴方のそんな顔が見れるなんて!もう満足だわ」
「何を言っているんだ……」
サファイアは笑う。
俺を怒らせようとしているのか。
「ふふ。塞がらない穴の空いている人のことなど、貴方には……」
意味の分からない言葉を繰り返す。
そうだ。思えば、ずっと分からなかった。
サファイアが考えていること、望んでいること、何をしたら満たされるのか。俺は何も知らない。
狭い馬車の中で、狂人のような彼女の笑い声が響き渡ると、心の奥底で不快のようなものを感じている自分に気が付いた。それは俺の中にずっとあったもの。
そうだ俺はずっと――サファイアの視線が怖かったのだ。
「ハ……ハハッ」
笑ってしまう。
そうか俺は、子供じみた感情をずっと抱えていたのか。
無自覚に、気付かぬようにしていた。小さくか弱い女に怯えている自分に気が付きたくなどなかったのだ。
彼女は笑顔で俺を観察するように見つめ続けていた。その瞳の奥に見え隠れしていたのは、諦念のようなもの。取るに足らない俺のような存在をただ確かめるような視線。まるで、この世界は俺を見限り続けているのだと俺に教える……最後の烙印のように。
――俺は、かくも幼いのか。
大事にするどころではない。守るどころではない。
俺は彼女の隣に並び立ったことすら一度もなかったのだろう。
哀れな王子と、哀れな婚約者。
長い時間に、心の交流一つ育むことはなかった。
「幸せになれ、サファイア」
彼女は何も答えなかった。長い馬車の旅路が終わり、学園に着くと、サファイアはその言葉通りに、俺との接触を断った。
そして、俺の孤立する学園生活が始まった。




