12 就職
働くって思ったより、体力仕事なんだな、と思う。
役人として採用されたのは、魔法課の事務員なのだけど、新人としてなんでもやった。
朝早く出勤して、掃除、飲み物の用意、書類の整理、そして先輩からの教育。学校で勉強していたときとは全然違う。分からないことを相談しながら、一つ一つ仕事を覚えていく。
「エミリアさんは覚えが早くて助かるわ」
「そんなことないですよ~」
先輩曰く、私は飲み込みが早いのだそうだ。
もちろんそんなことちっともない。そう言われた当初、そうなのかしら?と自分でも少し考えたのだけど、全然違った。こうなんだろうな、と思ったことは結局違うということが多々あった。一瞬でもそう思った自分が恥ずかしくなるだけだった。
たぶん学園で受けた高度の教育が人にそう思わせているだけなんだと思う。
「お昼一緒に行きましょう」
「アイシャさん」
同期で採用されたアイシャさんは、とても愛らしい容姿の女の子だ。
茶色の大きな瞳、柔らかそうなくるくるとした栗色の髪。おっとりとした性格をしている。
二人でお弁当を持って、役所の裏庭のベンチで毎日お昼を食べていた。
「仕事慣れました?」
「まだまだですよー。アイシャさんは?」
「私も……でも人には恵まれていると思います」
「そうですね。私もです」
二か月経った。毎日が忙しい。
一日仕事をして、買い物をして夕食を作って体を清めたら、もうクタクタになっている。だけど初めてお給料を貰ったときは感動して泣いてしまった。
私の通った学園の学費の、それはきっと何十分の一にも満たない金額。だけど確実に私の力で手に入れたもの。
「食事会エミリアさんも来られませんか?」
「食事会……?」
「男性と仲良くなる機会を作る会ですね」
「……」
時々、他部署の人たちと食事会を開いていて、恋人がいない人たちが参加しているらしい。
新人は若く人気があり、よく声を掛けられた。けれど私は参加したことがない。
「まだ……そういうことを考えられる余裕がなくて」
「分かります。毎日帰ったら寝てしまうんです」
「私もです」
異性とお付き合いする自分を想像することが出来なかった。オーランドの顔が一瞬頭に浮かぶ。侮蔑の表情を私に向けていた。思い出して真っ暗な気持ちになると、いつもリオ様の声が聞こえる気がした。『自分を卑下するな』と。きっと彼ならそう言うな、と考えるだけで元気が出た。
「なら私とご飯に行きませんか?」
「え?」
「休みの日にです。流行りのケーキ屋さんとか、カフェとか、気になっているところ沢山あるんですよ」
「え~!行きたいです。是非是非」
アイシャさんとは度々休みの日も一緒に出掛ける仲になった。
可愛らしいものや美味しいものをただ楽しみ合う。穏やかな優しい時間を一緒に過ごしてくれるアイシャさんのことが私は大好きになった。
四か月が過ぎた。
仕事が終わって寮に帰ろうとしてたら、夕日を背にして背の高い男性が立っていた。
「エミリア」
赤い巻き毛に親し気な表情。線が細く、女性のように美しい彼は、いたずらをした子供みたいな、無邪気な笑顔で私を見つめている。
「イシュハル様……!」
驚いて声を上げてしまうと、彼はふふふ、と笑った。
「元気だった~?」
「はい!イシュハル様もお元気でいらっしゃいますか?」
「うんうん。仕事多すぎて辛いけど!元気だよ~」
彼はこの国の第三王子の御身分なのだ。本来なら私が話してもいい方ではない。だけど、私たちは……。
「親友に会いに来る時間くらい作るよ」
彼は私を親友だと言う。
「イシュって呼んでってずっと言ってるのに」
「あの……二人きりのときだけなら」
「ん」
「イシュ……」
「うんうん」
満足げに彼は笑う。
「仕事、順調そう?ちょっとね、心配だから役場の人に話は聞いてたんだけど」
知らない間に気に掛けて下さっていたらしい。
「良くしていただいています。毎日勉強です」
「そっか~相変わらずだねぇ」
相変わらずなのはイシュハル様の方だと思う。機嫌が良さそうになでなでと私の頭を撫でてくる。
「真面目で、一生懸命。君の美徳だけど、無理しすぎないでね。君の場合はほどほど位が丁度いいよ」
「はい……」
優しい眼差しを向けてくれるイシュハル様に胸が熱くなる。
「イシュはどうされてますか?」
「僕はね~他国を巡らされててうんざりだよ。大事な仕事もあるけど、面倒な雑用が全部僕に回ってくるっていうかねぇ」
イシュハル様のお立場はこの国で弱いのだと聞いている。
成人後も国を補佐する仕事をし続けているそうだ。
「イシュにだから任せられるんですよ」
「ん?」
「学園で誰にでも好かれる、素敵な人でした。きっと今も、あなたになら出来ると任されるんですよ」
「ふふ。ありがとう。エミリアも?」
「え?」
「僕のことどう思う?」
「とても……とても大事な……友人です。そう思ってもいいのなら」
ひとりぼっちの学園で、ただ一人、笑顔を向け合うことが出来た人。
損得とか、利害とか、何もなかった。ただ楽しい話題を分かち合っただけの人。
「僕もだよ」
イシュハル様は満足げに笑った。
「楽しかったね。仕事も、立場も、何もない時間が、あんなに楽しいなんて知らなかったよ」
「はい……」
図書館の秘密の友達。
誰に関係を知らせることも、問いただされることもない、二人だけの関係。
イシュハル様は私の手を握って言う。
「僕がいるの、忘れないでね?」
「忘れていませんよ」
「本当はね、もっとずっと前に、この国に連れて来ちゃおうと思ってたの」
「え……」
ずっと前……?
不思議に思いながらイシュハル様の瞳を覗き込む。
「でもね、君が元気で幸せでいるには、それじゃダメなんだろうなって思って」
「……?」
「見守る方が辛いなんて、君たちで初めて知ったよ」
イシュハル様は楽しそうに笑う。
「辛い時、しんどい時、ちゃんと頼ること」
「……」
「一人で限界まで抱えないこと。分かった?」
「……はい」
私の返事にイシュハル様は笑っている。
「友がいるのに、一人だなんて思わないこと」
「イシュ……」
泣きそうになってしまう。
繋いだ手から温かさが伝わってくる。
その熱が少しずつ心に元気をくれる。人の想いが力を与えてくれることを彼は教えてくれるみたいだ。イシュハル様は不思議な人だ。学生時代から何も変わらぬ友情を私にずっと与え続けてくれる。
「イシュも、辛い時は話してくださいね」
「……ん」
「私に出来ることはなんでも手助けしますから。忘れないでくださいね」
「ありがとう、ね」
イシュハル様は、ふっと笑みを消して言った。
「ねぇ、エミリア」
「はい?」
「また国を出るんだ。しばらく戻れないかも。何か聞いておきたいことはない?」
「え……」
私の頭にはリオ様のお姿が思い浮かんだ。
四か月前に別れたきり。今どうしているのかも分からない。きっとイシュハル様なら知っているはず。だけど聞いてどうするんだろう。私は彼に会えるような立場じゃない。会って何かするわけでもない。
「……二人とも、同じ顔するんだね」
楽しそうにイシュハル様は言う。
「会わせたら、絶対気が合う!って思ってた。似てるんだもん。本質が似通ってる。あんなに会わせようとして出逢わなかったくせに、勝手に知り合って仲良くなって、僕も入れて欲しかったよ」
「……」
「三人で遊べたら絶対楽しいのに!あーあ。学生時代もっと頑張っておくんだった」
イシュハル様は、何を思い浮かべているのか悔しそうにしている。
「『リオ』は、元気にしてるよ」
「!」
「今度は三人で遊ぼうね?」
イシュハル様はウインクをすると「ふふ、またね」と言って手を振って歩き去っていく。
唐突にやってきて、嵐のように去って行った。きっとお忙しいのだろう。
私は学園生活を思い出して胸がきゅうっとする気持ちになった。身分差のある秘密の友人だったのに。何も変わらず今でもこうして会いに来てくれる人。
イシュハル様の心の中に、私と言う友人がいる……それはまた一つ、私と言う自分を形作っていくように思えて、心を温かくするように思えた。
半年が過ぎ、一年が近づいて来た。
仕事に追われる日々の中、忙しいながらも充実していた。
私は心のどこかで、必死だったのかもしれない。
両親が亡くなったときのことや、学園で一人ぼっちだったときのことがいつも心を占めていた。
そんな私を見かねたのか、先輩が声を掛けて来た。
「エミリアさんと仕事するの私好きよ」
先輩が飲み物を差し出してくれながら言った。
「もっと肩の力を抜いていいのよ」
「はい……」
温かい飲み物と先輩の言葉に、少しずつ緊張が解れていく。
「頑張ってくれる子は皆好きだけど……。あなた、不思議なくらい素直なんだもの。一緒に仕事するの、楽なの」
「素直……ですか?」
先輩は笑いながら教えてくれる。
「そうねぇ。どうしてかしら?たとえばね、間違いが見つかったとき。新人だもの、失敗も間違いも誰にでもあるの。気にしなくていいのだけど、あなたはすごく素直に受け止めてくれて……もしかして、もうどこかで働いていたことがあるの?」
間違いや失敗?
「え……と?働いていたことはないですよ。祖父の研究の手伝いはしていたんですが」
「まぁ研究?」
「そうです。魔法国家だったので、魔法の。聞かないと分からないことだらけで……。研究ですから、成功しないことの方が多いくらいで、試行錯誤の連続だったんです。作業を間違えることだってありました」
「魔法……想像付かないわね。大変そうだわ。実験みたいな感じ?」
「はい。でも失敗からしか学べないこともあって……。本を読んだだけじゃだめで、自分で間違えないと、実感として本当に理解して分からないみたいで、間違えるからこそ考えて、新しい道が開けたときは嬉しかったです」
「ああ、でもちょっとだけ、それは分かる気がするわ。間違えるほど覚えるものね」
先輩が笑っていう。
「お恥ずかしいんですけど、失敗に慣れているのかもしれませんね」
「慣れるかぁ、それも辛いけれど、いいことでもあるのね」
先輩は苦笑する。
「今までね、この課は辞めていく人も多かったのよ。魔法関係は専門用語も難しいでしょう?でも仕事そのものじゃなくて、職場って仕事が出来ることだけじゃだめじゃない?あなたはそれを分かっていて、まわりに聞くことを怠らないし、失敗もすごく素直に受け止めてくれて……とてもやりやすいのよ」
「先輩……」
辛い経験も、今の私を形作る要素の一つになっているんだろうか。
災害に遭って、一人ぼっちになって、死にものぐるいで学んでいたとき。
より良いものを作るには、結局、間違いを繰り返さないといけなかった。どんなに良いものを作ろうとしても……結局は辿り着かなかった。自分を壊しながら限界を超えてでも、なし得たいものがあったのに。私には何も叶わなかった。
「はぁ、なんか凄いわね……。なるほどね。経験を積んでるのねぇ……。納得だわ」
先輩は笑って言った。
「それなのにあなたどこか自信がないのね。ここでは十分役に立ってるわ。そろそろもっと自信持って良いと思うわよ」
自信はないのかもしれない。いつもこれでいいのかと不安になる自分がいる。
「気負いすぎなくても平気よ。みんなで助け合うものなのだもの。あなたが助けてくれるようにね」
私は確かに、職場に恵まれている。
良い先輩がいて、同僚がいる。風習が違う他国の私にもいつもよくしてくれた。
これから先に、私でも何か少しでも助けることが出来るなら、とても嬉しいことだと思う。
アイシャさんが言った。
「今少し揉めちゃってて」
「え?」
昼休み、アイシャさんが浮かない顔をしていた。
「ほら食事会行っていたじゃない。そのうちの一人とデートするようになってね」
「まぁ、おめでとうございます!」
「そうしたら、他の女の子たちと仲たがいすることになってしまって」
「え……」
「酷いこと言われたり、色々あったの」
アイシャさんが力なく笑った。
「そこで人気の男性だったから。仕方ないのよ」
「そんな……アイシャさんが悪いわけじゃないです」
「そうね。みんな分かってると思うけれど……感情的なものなのかしらね」
同じ職場の中でそんなことが起きていたことも、私は知らなかった。
「楽しかったのよ、食事会自体はね。でもほら、どうしても欲望が渦巻くじゃない?男性を取り合うとか、優劣を競うとか……どこにでもそういうことはあるけれど、エミリアさんはそういうこと気にしていないから、私一緒にいて楽しいわ」
「……気にした方がいいとは思ってるんですけど」
「ふふ。そうね、気にしても気にしなくてもいいのかも。でも、楽しくただケーキを一緒に食べてくれるエミリアさんが私には貴重で、大事よ」
「私もアイシャさんとご飯食べられて楽しいですよ!家族もいなくて、知り合いのいないこの国で、本当に嬉しかったんです」
「一緒に入ったのがエミリアさんで良かったわ」
「え?」
「ありがとう……」
アイシャさんが涙を零した。ハンカチを貸し出して、その晩は夕食を共にして話を聞いた。
こうしてアイシャさんとは同僚の関係を越えた、友人のようになっていった。
先輩や同僚、職場の人たち、街で知り合う人たち。いろいろな人たちの中で、新しい『私』が作られていく。誰かの中に生まれて行く私は、本当の私自身と少し違う気もするし、私以上に私な部分もあるのかもしれないとも思う。だけど、それを感じているうちに、私の心は段々と落ち着いて行くような気がした。
学園にいたときとは全然違う。
誰も蔑まない。要らないものとして排除したりしない。
ただ穏やかな日々を過ごすだけで、心の奥に抱えた辛かった記憶が少しずつ薄れていくのを感じていた。
踏みつけられても良いと思われている『私』が、ここには居ない。
「ちょっと、エミリアさん飲み過ぎてない?」
「みなさんが優しくて、私っ、嬉しくって……」
「な、泣いてるよ?ほら、ハンカチ」
「役立たずって言わないし、突然婚約破棄とか言わないしっ」
「は?」
「みっともないとか、出て行けって言わないしっ」
「なにそれ!」
職場の飲み会の席でそんな心情をぽろりと零したら、そんなことは当たり前だと、泣かれたり怒ってもらえたりした。
「こんな頭のいい子に役立たずとか!」
「え?こんな美人さん捕まえてみっともないなんて言ったの……?」
「その国変じゃない?」
「環境がおかしいんだよ。気にしなくていいよ」
飲み会の席だし、他国であるし、私の味方をしてくれるのは当たり前ではあったのだけど。それでも気持ちだけでも汲んでくれるのは嬉しかった。
そしてふと、リオ様のことを思い出した。
リオ様は泣いても怒ってもいなかったけれど、ただ寄り添ってくれた。あの行動が私にはとても好ましいものだったな、と思う。あんなにも心を満たしてくれたのは初めてだったのだ。
リオ様以上には、誰も、心の奥に入り込んでしまうような人には出会えない。
時々……時々だけど、心の奥底から消えないこの想いは、もしかして恋なのではないかと思うことがあった。
そんなことを思うことすら許されない人なのに。なんでもないような会話しかしなかった。何も彼のことを知らない。だけど私の心の大事な部分にリオ様が入り込んでしまっている。
思い出すだけで、心が温かくなって、そして切なくなる。
困難な人生に抗うようにぎらぎらとした眼差しを向けていた王子様。聡明な瞳で物事を語るときの知的さ。魔物にさえ剣を振るったんだろう、強い身体。尊大なのに寛大で、小さな私の悩みなど大きな心で受け止めて、寄り添ってくれる優しさを持った人。
――彼の存在が、私の心からいつまで経っても消えない。
次話からシュリオンパート