10 旅の終わり
それからの私は旅を今まで以上に楽しんだ。
「見てください!あの大きな動物!人が乗ってますよ!」
「あれはゾウと言って……乗りたいのか?」
「高いところ好きです」
「吟遊詩人さんの歌ですよ。ロマンチックですね……」
「俺にロマンチックは分からんぞ、エミリアには分かるのか?」
「……いえ、私もまだまだお子様のようです」
「エミリア、あの鉄板焼き料理を買おうと思う」
「食に積極的なリオ様珍しいですね。確かに食欲をそそる香り……!!」
「こんなところで寝るな、無防備過ぎるぞ」
「リオ様がいらっしゃるから大丈夫です……」
「大丈夫じゃないだろ」
そうして長い旅の末、馬車を降りたら、海が広がっていた。
見下ろす岸壁の先の、大きな海原。太陽を反射して無数の光が輝いて揺れている。晴れていた。青空の元の壮大な光景に、興奮を抑えられずに私は言った。
「リオ様!海ですよ!初めて見ました!!船ですよ!!」
「初めてなのか」
子供のようにはしゃぐ私にリオ様は若干引いていた。
飛び出す子供を押さえるように、私の腕を掴んでいる。
「分かったから。乗り出すな。お前泳げないだろう。落ちたら死ぬぞ」
「魔法で浮力を上げられますから」
そう言って胸を張ると、想像したのか噴き出すように笑われた。そう、リオ様が笑うようになった。
その笑顔を見ていると、彼も同い年の男の子なんだと自然と思えた。
「魔法が使えない状況と言うのもある。魔法を過信するな。フィリアに行くのなら、いずれ泳ぎを覚えた方がいい」
「泳げるようになりますかね?」
「俺が教えてもいい」
教えてくれるほど長く一緒にいるのだろうか。
「リオ様は泳げるのですか?」
「ああ。体を動かすことは大抵得意だ。教えるのもな」
「教えてもらいたいです」
「ああ、フィリアでは国民が皆海水浴を楽しむ。海辺の街は観光地として栄えている」
「……リオ様と行けますか?」
「もちろんだ」
不思議に思っていると彼はただ口角を上げて笑った。
私たちは海を渡る。その先はもうフィリアだ。きっともうお別れは近い。なのに、リオ様はこの先の話をする。
彼は私を友だと言った。この友情は、この先も続いていくのだろうか。未来への約束は果たされるのだろうか。
だけど、私たちが今どう思っていても、私たちの未来は圧倒的な重さを持って私たちを待ち構えている。一人ぼっちで生きて行く私。国から追われて、命を狙われているかもしれないリオ様。
例え私たちが友情を育みたいと願っても、叶えられるかどうか分からない。
数年後に生きているかも……分からない。それを分かっていて、確実な未来の約束をすることも出来ない。
「おいしい食べ物もありますか」
「そうだな。海産物だな。海辺には屋台が多い。食べ応えがあるぞ」
「海の幸……!」
「貝は、海辺ならではだな。お前の好きな魚ももちろん多い」
もうリオ様は私の食の好みまで把握している。
「楽しみですね」
「ああ」
叶うかどうかも分からない未来の話をする。この旅が終わったあと、もう一度、彼と今のような関係に戻れることがあるんだろうか。
船に一晩乗ると、フィリアに着く。
私たちは他の乗客たちと一緒に、船室で雑魚寝をすることになった。
そんな経験は初めてで、どうしたらいいのか分からないでいたら、リオ様が壁際に座るように促してくれた。隣にリオ様が座る。
夜になり震えていたら、リオ様がそのマントの中に私を包んでくれた。
密着するような距離感に慌てていたら、リオ様の方が自分のしたことに気付いたようで狼狽えだして「あ、いや、すまない」と言った。
「リオ様入れてください」
「いいのか」
「はい」
彼の体温は私を安心させる。どきどきと心臓が跳ねて、どうしたらいいのか分からなくなるけれど、とても好きだと思う。
きっとリオ様にとっては犬猫を温めるのと一緒だ。そう私はわんこやにゃんこと同類。
船室のランプはか細くて、暗くて良く見えないけれど。
顔を逸らしたリオ様の耳やお顔が赤くなっている気がする。この人も、異性に慣れていないのかもしれない。
学生時代が終わり、子供から大人になっていくこの時。
この人と同じ時間を過ごせたことを、いつか嬉しく思う日が来るのかもしれないと思う。
気持ちの良い風を感じるように、温かな太陽の日差しを浴びるように。
全てのしがらみから解放されて、何も持たない私は、自由な旅を満喫した。
学園ではずっと息が出来ないような苦しい気持ちで過ごしていたのに。嘘のように心も体も軽くなった。
まるで『非日常』。
ただの私は、こんなにも生きることを楽しめるんだって、不思議な気持ちになって。
私は、見失っていた自分自身を取り戻していく。
誰かの目を通して、自分の心を通して、私という人間を再構築していく。ずっと見ないようにしてきた私自身。ああ、こんな姿をしていたのかと知っていく。
後悔も、受け入れがたい現実も、何も出来ない自分も知っているけれど、それだけじゃない。もっといろいろな私がいる。そう、誰かが蔑んだ私自身にだけ捉われている必要なんてなかったんだ。
笑ったり感動したり、時々ぼんやりしたり。
心に光が差していくような旅の間、リオ様は、楽しい旅の仲間だった。一緒に楽しんでくれる人がいるのは、それだけで救われるように思えるんだと知った。
リオ様は尊大で、自信に溢れているような人で、私のような下々の者とはいつだってどこか違っていた。目を離すと、その聡明そうな瞳で遠くを見つめている。
今は国外追放なんて憂き目に遭っているけれど、本来なら国王になってもおかしくなかった人なのだ。
きっと、フィリアに着いたら彼は自分の人生の為に行動を起こすのだろう。
これからどうするかなんて、彼は少しも話さない。
旅の間はただの若者のようで、本当にどうでもいいような会話に付き合ってくれている。立場も何もなかったら、彼は本来はこういう人だったのかもしれないんだな、と不思議に思う。
なんていうか、思っていたよりも普通なのだ。良く笑って機知に富む、旅の同行者として気遣ってくれる人。気やすい会話で和ませてくれる。
あの国で、ただの男の子の彼を知っている人はどれだけいたんだろう。
もしかしたらいなかったのかもしれない。
だってリオ様も、なんのしがらかみがない私との旅を、楽しんでいるように見えた。
彼は、立場の弱い第二王子として生まれてきて、自由なんてきっとどこにもなくて、王太子になるようにと期待されていた。本人の意思や望みに関わらず、背負っているものが生まれつきとても多くて、だから努力して鍛えて学んで、それでも……あの夜『負けた』と言われた人。
リオ様が、若い男の子らしく、肉汁したたる焼肉料理が好きだとか。
甘すぎるものは好まないとか。クセが強い香辛料が効いている方が好きだとか。人の料理への感想を聞くのが好きだとか。寡黙なのに一人でいるより人といる方が好きなところとか。
そんなの全部、あの国の人たちにはきっとどうでもいいようなこと。だけど私には大事な、大切な、尊敬すべき一人の男性の姿だった。身分に関係なく敬意を払ってくれる人。あれだけの目に逢っていて、心折れず、未だ人の善性を信じているように見えるリオ様に、私は泣きたくなってしまう。
この人の資質に、あの国の人は気付いていない。
この先どうなるのだとしても……この人の笑顔が曇ることがありませんように。リオ様がリオ様らしく生きていけますように。
ぎゅっと、花の祝福のお守りを手に握る。
私はリオ様の体温を感じながら目を瞑り、そっと暗闇の中、彼の幸福を祈った。
船の揺れに目を覚ますと、窓からの日差しに明るくなった船室で、リオ様が私を見下ろしていた。
「起きたか」
「……はい」
私はまだリオ様のマントの中のようだ。今更だけどモジモジと縮こまる。
「天候が悪いようだ」
「え?」
「雨が降っている。悪天候にならなければいいが」
「そうですか……」
ぼんやりと窓の向こうに視線を移して……雨粒を映しても、心が陰らない自分に気が付く。
いつもならそれだけで真っ暗な気持ちになって、体が固まってしまうように思えていたのに。
「晴れるといいですね」
「ああ」
自由に伸ばせる手足。そうだわ。きっとこれが私が手に入れたもの。私は何も持ってないし、大切なものは失われてしまったけれど……だけど、きっと、生きて行ける。そんな気がする。
暫くして、甲板に続く扉から入ってきた乗客が言った。
「おい、外、出て見ろよ!」
興奮気味に人々が騒めきだして、私もリオ様と顔を見合わせた。何かに襲われているとか……そんな嫌な雰囲気ではない。フィリアでも見えだしたのだろうか?
気になってリオ様と扉をくぐる。朝の明るい日差しに、止む寸前のような小雨が降っている。
「虹だぞ」
「まぁ綺麗ね……」
人々の視線の先には、海の上に大きな虹が架かっていた。
日が昇る方向とは逆の、消えていく夜の方角。朝日に輝く水面の端から端まで、水滴が生み出す美しい光のアーチが架かっている。
顔に当たる小雨を感じながら、私は何か懐かしいものを思い出す。
子供の頃、両親と一緒に見た美しい領地の虹の光景。両親と、綺麗ね、素敵ね、そう言い合いながら過ごしていた。
ふと心に寂しさを感じて気が付く。
今でもどこかで両親に伝えたいと思っている。綺麗だね、って。
ああ、あれって……一緒に、同じ思いを共有できる人がいたから余計輝いて見えたんだわ。
両親はもういない。大切な人はもう誰も……だけど、隣にリオ様がいる。
見上げると彼もそのまっすぐ過ぎるような瞳に虹を映している。この光景は、リオ様の世界をより美しくするのかしら。この人の心の中を見てみたいな、って思う。
「綺麗ですね、リオ様」
声を掛けると、リオ様は私を見下ろしてから驚くように目を瞠った。
私は泣いていた。溢れる涙が止まらなかった。
「綺麗ですね。嬉しくて私。リオ様と綺麗なものが見られて幸せです」
雨の中、泣いて、笑って、私は言った。
「エミリア?」
リオ様が驚いている。私はその戸惑ったような表情がなんだか楽しく思えて、余計に笑ってしまう。
「嬉しくて!分からないですよね。ごめんなさい」
「……」
「綺麗だって思えた自分が嬉しかったんです。それから隣にリオ様が居て嬉しかった。綺麗ですね、って伝えられて幸せだった。自分でもよく分からないんです……」
私が気が付いてしまった。
「今までで……一番、世界が綺麗に思えたんです」
体のとても深いところまで、目の前で輝く光が届いたのだ。
それは私の感情を昂らせて、涙が止められない。
辛い思いをしなければ、心を壊さなければ、きっとこんなにも体の奥まで染みこむように光の輝きは差し込んではこなかっただろう。
そんなこと望んでなんていないし、戻れるのなら何もなかった頃に戻りたい、取り返したい過去がある。
それでも。
「世界が、綺麗なんです」
本当は、綺麗なだけじゃない。同じだけの哀しみを感じてる。泣き出しそうな慟哭が私の中に未だある。
だけど間違いなく綺麗で。それが嬉しい。そう感じられる自分が嬉しい。
自分を嫌いになって、ボロボロになって、今だってきっとみっともない泣き方してる。私は哀れなほどにちっぽけで、なのに、感じられることが、私が私であることが嬉しい。
リオ様が腕を伸ばして来て私の頭を撫でる。複雑そうに揺れる瞳が私を見ていた。
「そうだな。綺麗だな」
リオ様の瞳は、虹なんかじゃなくて、私を映していた。
彼の指が私の頬を撫でる。指先から作られていく私の形。リオ様の瞳に、どんなふうに『私』が映っているのだろう。
潮風が私と彼の間を吹き抜けていく。雨も風も彼の熱も全てが私を幸福で満たしていく。
「お前は、俺の守りたいものだよ。エミリア」
吸い込む潮風が体に心地よい。
リオ様はそう言ってから視線を伏せ、私の体から手を離した。
暫くすると、船はフィリアに到着した。
街の景色が私の心を現実に引き戻していく。お別れの時が来てしまった。




