机上の殺人
茹だるような熱気に包まれたビル街を抜け、薄汚れた雑居ビルの2階にあるファミレスの扉を開く。とたん吹き付けて来るキンキンに冷えた空気に、俺はふぅ、と小さく息を吐きながら視線を巡らせた。
そろそろ日が傾き始めた頃合いのファミレスは、ティータイム気取りの学生やら時間潰しのサラリーマンやらでそこそこ席が埋まっている。その中のいくつかがこちらに視線を向けて来た気がして、俺は一瞬だけ身を竦ませた。
「先生、こっちこっち!」
店の少し奥まった席から手を振る男の声に従って、背を丸めて早足で席に向かう。丁度衝立で視線を遮れる席に滑り込んで、ようやく俺はへらり、と笑みを浮かべる余裕が生まれた。
「お久しぶりです、山本さん」
「いやぁ苦労してますなぁ、矢嶋先生。少し痩せましたか?」
無精髭の生えた顎を撫でながら、俺はそうかもしれない、と苦笑した。食事も不規則で睡眠もあまり取れていないので、その可能性は十二分にある。
「ったく、本当に勘弁して欲しいですよ。叔母が死んで相続だのなんだのと山程雑務が増えてるってのに、警察もマスコミも連日俺のところに押し寄せて来る。ひでぇ話です。見ましたか、この前の〇〇社の記事」
「見ましたとも。あの三流ゴシップ記者達の中ではすっかり先生が犯人扱いのようですねぇ。心中お察し致します」
脂ぎった額の汗をハンカチで押さえながら愛想笑いを浮かべる目の前の男だったが、どうせこいつも裏では熱心に俺のゴシップを集めているんだろうな、と俺は心の中でひとりごちた。この山本という編集者のがめつさは界隈では有名で、一番誹謗中傷が酷かった時期は一言も連絡を遣さなかった癖して、金の匂いがし始めた途端俺を呼び出して「矢嶋先生」などと媚び諂ってみせる。正直に言って、俺はこの男が苦手だった。
山本は、元々は小説家として名の売れていた俺の叔母、『矢嶋千秋』の編集者だった。叔母は小説に関しては天賦の才があったがそれ以外はからきしだった為、なにかとこの山本に世話になったのだと聞く。しかし叔母の影響で文筆家の道に踏み込んだ俺は、この男に悪辣な条件の仕事を次々と回されて首が回らなくさせられるという手荒い歓迎を受けた。それ以来別の編集者経由でなんとか食い繋いでいた俺とこの男の縁は切れていたわけだが、再びこの男は俺の前に現れるに至った。
原因は、先日の叔母の死だ。
山本の担当する文芸誌でヒット作『残影』の連載を行なっていた叔母は、一週間ほど連絡が取れなくなった。丁度連載はこれが最終回、スランプなのかと心配した山本が叔母の住む家を訪れたところ、何者かに刺殺された叔母の死体が発見された。
現場からは何かが持ち去られた形跡はなく、代わりに床に血文字で「人殺し」と書かれていたという。警察は殺人事件としてこれの捜査を開始し、叔母の唯一の血縁であり遺産相続人である俺が第一容疑者として浮上した。酷い冤罪である。
なまじ有名な作家であった叔母の不審死は、ここ最近刺激的な話題に欠いていたワイドショーを騒がせた。犯人は?動機は?アリバイは?一度その舞台に乗せられた容疑者のプライベートは丸裸。マスコミに追い立てられた俺がようやく外に出られるようになるまで、実に1か月以上の時間がかかった。
それでも未だにマスコミの視線を感じる気がするのは、俺が過敏になりすぎたのかどうなのか。とにかく落ち着かない体を小さくして手短にと目で訴えると、山本は丸っこい手で鞄からいくつかの契約書を取り出し、俺の前に並べ始めた。
「こちらがね、うちの出版社で扱ってる千秋先生の本。一躍有名になりましたからいくつか重版をかけさせてもらおうと思ってるんですがね。それと短編をまとめた短編集なんかもいくつか出させてもらって」
「あぁはい、どーぞどーぞ。そこら辺はお好きなように」
版権、印税、その他様々な契約の説明に、俺は適当に返事をして流した。既存作品の重版による印税などたかが知れているだろうし、下手に揉めても手間が増えて面倒だ。こちらに負債が回って来ない限りは好きにしてくれというのが本音だった。
帰りてぇな、という言葉を噛み潰して渋いコーヒーを啜れば、俺の顔をチラリと見た山本はテーブルに広げた書類を一度端にまとめ、テーブルの上に肘をついてニヤリと笑った。
「さて、ここからが本題なのですがね、矢嶋先生」
「はぁ、まだ何か?」
「先生のお好きなお仕事の話ですよ」
先生の今後のご予定はいかがです?と愛想笑いを向けられ、俺は視線を泳がせた。
多少ノイローゼ気味になりながらも溜まっていた仕事は片付けたばかりで、更にこの事件の成り行きを気にしているのかいくつかの出版社からは新規の依頼を控えられてしまっている。遺産相続や整理、警察やマスコミの煩わしい聞き込みのことを差し引いても、時間はある方と言えた。
だがしかし。だからと言って即答するのは山本向きの対応ではない。日本人お得意の「まぁまぁですかね」という曖昧な対応で返答を保留し、俺は山本に本題を促す。
「先生もご存知だとは思いますが、千秋先生の『残影』、完結直後にお亡くなりになってしまったんですよ」
「らしいですね。完成原稿も見当たらなかったんですっけ」
軽く頷くと、山本は声を潜めて俺の方に顔を寄せた。随分と卑下た笑みがよく見えた。
「千秋先生は今これだけ注目を浴びているんです。もし今完成原稿が見つかったら、それはそれは盛り上がると思いませんか」
「…………はぁ、まぁ、あれば確かに盛り上がるかもしれませんが、見つからなかったんでしょう?」
まさか俺に本格的に家探しをしてこいという依頼だろうか。鈍い頭を軽く捻ると、山本は乾いた笑いを漏らす。
「なぁに、見つからないなら作れば良いんですよ。何せここには千秋先生に教えを受けていたもう1人の矢嶋先生がいらっしゃる。……原稿料はこれぐらいで上に話を通してるんですが、いかがでしょう。読者の方々も、未完で終わるよりもちゃんと結末を見届けたいと思っているに違いありませんよ」
目の前に出された新しい契約書には、随分と羽振りの良い金額が書かれていた。要は俺に矢嶋千秋のゴーストライターになれという依頼。その後ろ暗い部分含めての金額なのだろう。
俺はしばし、亡くなった叔母がこれを見たらどんな顔をするだろうと考えた。
『私の作品はね、みんな腹を痛めて産んだ子も同然。大切な大切な家族なのよ』
夢見る少女のようにうっとりと語る叔母の横顔をよく覚えている。読み手がどう受け取るとか、売り上げや巷の流行り廃りだとか、そういった機微はとんと持ち合わせていない女性だった。読者の為に完結させましょうなどと語りかけても、叔母はぼんやりとした顔で首を傾げるだけだろう。
まぁいいか。どうせ死人だ、墓の中から這い出て文句を言えるわけもない。
俺は自分の通帳の残高に思考を移し、それから胸ポケットのボールペンを書類へと走らせた。訂正線を2本、そして数字をさらりと書き換える。
「矢嶋千秋先生の遺作なら、この程度の価値はあるのでは?」
ニヤリと口の端を釣り上げると、しばし唸った山本はそれでも最後には大きく頷いた。ーー交渉成立だ。
俺が叔母の洋館を訪れたのは、それから二日後のことだった。
都心から電車で2時間、山里の麓の鄙びた駅からぶらぶらと細い山道を登っていくと、青々と生い茂る裏山を背景に白の漆喰と赤煉瓦で構築された小さな家が見えてくる。斜面にへばりつくように生えた大木の脇を登っていく入り口の階段に、手入れの行き届いたバラのアーチ。まるで絵本の中から抜け出てきたようなメルヘンチックな一軒家は、浮世離れした叔母の性格をそっくり映し出していた。
一時期は警察によって封鎖されていたのだろう家だが、現在は野次馬すらいない静寂に包まれていた。虫やら鳥やらの声が耳鳴りのように響く中、俺は細い階段を登って煉瓦造りの玄関ポーチへと向かう。
「さて、鍵どこだったかな、っと」
カバンの中に放り込んでいた洋館の合鍵を手で探っていると、不意に玄関の扉が開いた。ギョッとしてたたらを踏む俺と、扉を開けた者の見開いた目が合う。
「……っと、失礼。ええと、矢嶋千秋さんのご親戚の……矢嶋耕作さん?」
若い男と中年の男、2人とも暑苦しそうなスーツに身を包んだ2人組は、怪訝そうな顔で俺を見て、そう名前を呼んだ。確か数回顔を合わせたことがある、叔母の事件を捜査している刑事だったはずだ。
「お疲れ様です、刑事さん。今日も捜査ですか?暑いのに大変ですね」
俺が声をかけると、年若い方の刑事が「いや本当に参っちゃいますよ」と愛想笑いを浮かべる。
「なかなか犯人の手がかりも掴めなくて、俺たちも上からどやされてて。今日も何か分かればと思って来たんですけど暑くて暑くて。耕作さんはこちらに何か御用でも?」
「あぁ、俺は……まぁ、遺品の整理に」
実際はゴーストライターとして原稿を書く為に資料を探しに来たのだが、ホイホイと人に話せることでもないので適当にぼかす。刑事達は探るような視線をこちらに向けてきたが、それ以上の追求はしてこなかった。
代わりに、後ろでこちらの様子を眺めていた中年の刑事が、愛想のない声で「そういや、何度も聞いてすまないんだがね」と口を開く。
「矢嶋千秋さんと親しい、この家によく来ていたような知り合いに心当たりないかね」
「いえ。強盗殺人って話になったんじゃなかったんですか?」
「や、何、何度も聞いてるからいないとは思ってるんだがね。やっぱりどうも、顔見知りの犯行としか思えなくてね。普通知らない人間が家に押し入ってきたら抵抗するだろう。だけども千秋さんはどうも無抵抗で殺されたように見えたもんでね」
取調べで何度も繰り返されたフレーズを口にしながら、中年刑事はギョロギョロと目を動かし俺を睨め付ける。俺が物語の中に出てくるような探偵の才能を持っていたら独自の捜査で冤罪を晴らすなり何なりできるかもしれないのだが、凡才の俺は「はぁ」と返答するのがせいぜいだった。
「叔母はそこまで人付き合いの多い方ではなかったと思いますが、俺もそこまで付き合いが多かったわけではないので俺の知らない知人がいても驚きませんね。それにおっとりした人なので、抵抗し損ねたんじゃないですか?」
何度聞かれても、俺から返せるのはこの言葉だけだ。疲れた顔でそう返せば、中年刑事はモゴモゴと別れの挨拶を口にして、若手の刑事を連れて出て行ってしまった。
スーツの背中が掌よりも小さくなったところで、俺は小さくため息をつく。誰が叔母を殺したんだか知らないが、本当に迷惑な話だ。
丁度木陰になっているせいか、玄関の扉をくぐった先は少しだけひんやりとしていた。警察が出入りしているおかげで籠った空気はなさそうだが、黒艶のあるフローリングの床の隅にはうっすらと埃が積もっている。電気も通っていないらしく、薄暗い室内はどこか物寂しさが漂っていた。
叔母がいた頃は、いつも温かい電球色の光がこの洋館を照らしていた。少し年季の入ったペンダントライトも、下駄箱の上に置いたアンティーク調の壺とレースの敷物も、叔母はいつも宝物のように丁寧に手入れをしていたのに。
あぁ、本当に叔母は死んだのだ。
今更ながら、鼻の奥がツンと痛んだ。緩みそうになる涙腺を数度の瞬きで誤魔化して、俺はスリッパに履き替えるとゆっくりと廊下を進む。
廊下の右手、南側の庭に面した方にはリビングとダイニングキッチンがあった。テーブルの上の一輪差しの干からびた花や、キッチンに放置された数枚の食器に生活感を感じる。そういえば電気が止まっているということは冷蔵庫は……と一瞬嫌なことに気付いてしまい、俺はそっとキッチンを離れた。その辺りは早めに業者を手配して清掃してもらおう。
「一階は残りは物置部屋ぐらいだったか。叔母さんの書斎は確か上だよな……」
警察から聞いた話では、叔母は二階の書斎で殺されていたのだという。北側に面した階段は薄暗く、事前知識もあって登るのは少々覚悟が必要だった。汗ばむ手で手すりをしっかりと握り、ギシ、ギシと軋む踏み段を一段ずつ慎重に登る。階段の半ばで折り返す作りになっていて、上が見通せないのが尚更緊張感を高めた。
あと三段、あと二段。やがて階段を登り切ると、書斎に通じる扉に当たる。閉ざされた扉のノブに手をかける時、自分の手が小さく震えているのが分かった。
情けないもんだ、と俺はひとりごちる。
小説家を自称する者として、何度かこういった廃墟探索の描写をしたことがある。勇気ある若者、あるいは真実を追い求める探偵達は危険を承知でこうやって人気のない屋敷に自ら踏み込んでいくのだ。そこに待ち受けるのは恐ろしい怪物か?或いは凄惨な殺人現場か?一歩間違えば殺人鬼に殺されるかもしれない、そんな手に汗握るシーンを何度も空想し、さぁ躊躇うなと何度も登場人物の背中を押して物語を進めて来たのが自分だ。
けれどいざ自分がそのような状況に置かれてみると、勇ましい主人公達の勇気に感服したくなる。恐怖がじわじわと足元から忍び寄り、自分の想像力が次から次へと嫌な想像を増殖させていく。カラカラの唇を軽く舐め、心を落ち着けるために一呼吸。
そして俺は、覚悟を決めてゆっくりと扉を開いた。
殺人現場、叔母が死んだ部屋という割に、その部屋は綺麗に整っていた。
カーテンは開いたままになっており、夏の眩しい日差しが室内に燦々と差し込んでいる。窓際の最も日当たりの良い場所に叔母が使用していたらしい大きな机があり、その傍の椅子と、少しワックスの剥げた床にサッカーボール大の黒いシミが多少残っているぐらいだった。死体は放置されて腐乱すると酷い悪臭がこびりつくと言うが、早めに発見されたのが幸いしたのだろう。大した匂いも感じなかった。
本当に、叔母の留守中に家に紛れ込んでしまったのではと錯覚するほどにいつも通りの部屋だった。机の上に広げられた原稿用紙の束も、開きっぱなしの辞書や参考書の山も、蓋を外したまま放置された万年筆も。うっかり心不全か何かで突然死してしまった、そう言われた方がしっくりするほど、綺麗な殺人現場だった。
「こりゃ確かに、身内の犯行かと思うよなぁ……」
勿論幾つかの証拠品は警察の方で押収されているはずだし、多少は警察によって清掃されたのかもしれない。それにしても綺麗で拍子抜けした。肩の力が抜けたまま、俺は叔母の作業机へ手を伸ばす。
今回の俺の目的は肝試しでも感傷に浸ることでもない。叔母の書きかけの原稿の資料を探すことだ。
叔母の遺作である『残影』は、とある文芸誌で連載されていたファンタジー小説だ。既に単行本3冊分出版されており、完結巻となる4巻の6割分ほどの内容が既に文芸誌にて掲載されている。依頼を受けてからざっと目を通した限り、物語は1人の少女の成長譚だった。
長い戦争で荒廃した王国に生まれた主人公のラナは、貧しい貧しい農民の子だった。毎日必死に働いていたが、10歳の誕生日を迎える前に口減らしとして親に山へと捨てられる。空腹に耐えながら山奥へと進んでいったラナは、偶然山奥にあった古い遺跡にたどり着き、そこで悪魔が封じられた腕輪を手に入れる。
悪魔はラナに、その命と引き換えに3つの願いを叶えようと持ちかけた。3つであればどんな願いも叶える、しかし3つ目の願いを叶えたタイミングでラナの魂は地獄へと連れていかれる、そういった契約だ。強かなラナはまず一つ目の願いで生計を立てられるだけの剣の腕を望み、騎士として戦争で功績を立てて大成した。安定した生活、大切な仲間。けれど物語の中盤でラナの所属する部隊は危機に追い込まれ、ラナは二つ目の願いを利用してなんとか危機を乗り越える。けれど物語の終盤、更に厳しい状況に追い込まれたラナとその仲間達はなんとか智略を巡らせて状況を覆そうと尽力したが、囮を務めたラナは敵国に捕らえられ、絶体絶命の状況に追い込まれる。といった物語だ。
恐らく物語のラストでは3つ目の願いを行使して危機を乗り越えるのだろう。ラナの死は最初から仄めかされており、この物語はラナの死に際の足掻きを主軸に組まれている。最後どのような足掻きを見せて彼女が死ぬのか、それに関する資料を発見するのが今日の目的だ。
幸い、机の上にはそれらしき資料がいくつか広げられていた。女性らしい丸っこい字で埋められたキャンパスノートに軽く目を通すと、どうやら完結までの簡略な骨組みがメモされている。幸先の良さに思わず口笛を吹いた。
「助かるな、これがあれば描写を考える以外の苦労がなくなる」
叔母の文体に寄せて実際原稿を書くという手間は残っているが、当初想定されていた展開通り完結するとなれば読者も文体の多少の違和感には目を瞑ってくれるだろう。ノートのメモと自分の記憶を照らし合わせながら、俺は物語の内容を追いかける。
《三つ目の願い》
ローゼッタ騎士団は帝国の奇襲により壊滅、囮役を務めたラナは捕縛される。
悪魔騎士ラナは帝国首都に移送され、処刑されることに。騎士団の侍従ジークはラナの奪還を試みるも、ラナは味方にこれ以上の犠牲が出ることを危惧し、自分を見捨てるよう進言する。
いつもの叔母の作風には似付かわない暗い展開だな、と俺は心の中でぼやいた。今回の作品は全体を通して暗い。あの人はもっと優しい世界を愛している夢見がちな女性だと思っていたのだが。
俺の知っている叔母は、空想世界に人生の半分以上を投げ打ってしまった浮世離れした女性だった。小説の世界に没頭するあまり、登場人物の分まで夕食を作って1人で虚空と晩餐会をするような変人だ。詩的な表現が多くて話が通じないなどというレベルではなく、親戚の世間話をするように小説の世界の話をする。明日の天気を聞くように「そういえばここ最近の妖精の里はどんな様子なのかしら」と聞かれてどう答えれば良いというのか。本気で見ている世界が違うのだ。
人間として色々とピントのずれている叔母であったが、そっちの世界にトリップしている時間が長いだけあって深みのあるファンタジー作品のクオリティには定評があった。歴史や文化にも造詣が深く、御伽噺のように優しく温かみのある作風が読者に愛されていた。
今回の作品は世界観は厳しいが彼女の周りの人間達は皆優しく人間味に溢れており、生まれもあって荒んでいたラナがゆっくりと絆され、手負の狼と評されていた頃から他者の為に自己犠牲を選ぶ騎士へ変わっていく様は心にくるものがある。その暖かな人間模様の描写は確かに叔母の趣味と一致していた。ーーーーとまぁ、別にそんな話はどうでもいい。
「で、結局なんの願いを叶えるんだぁ?」
次の展開を求めてページをめくった俺は、閉口した。
続きのページがない。
何かが書かれていたと思しきページは乱雑に破られていた。よほどの激情に任せて破いたのだろう、次のページにも力を込めたシワが残っている。これじゃあ意味がないと俺は机の上にあった原稿用紙にも目を通したが、書きかけの原稿はラナが地下牢に囚われているシーンの途中で途切れていた。
『かつり、かつりと足音がする。ラナは顔だけをかすかに動かし、乱れた赤髪の隙間から静かにその足音の主人を見やった。
「無様な姿じゃないか契約者よ。私が力を貸しておきながら、鉄鎖に繋がれ地下牢の住人とは。随分と貴方は弱くなったのではないかな?」
「そうかもしれないわね」
悪魔の言葉に、ラナは小さく笑みを浮かべた。
「それで、貴方は私の遺言を聞きに来たのかしら」
「おお契約者よ、何を勘違いしているのか。私は未だ貴方の忠実なる従者。貴方はまだ最後の願いを告げていないのだから。忘れてはいないだろう?」
悪魔は細い尾を揺らし、実に紳士的な足取りで鉄格子をすり抜けてラナの前まで近づいた。両手足を壁に繋がれ、ぐったりと項垂れる彼女の顎を指先で軽く持ち上げ、悪魔の金色の瞳がラナを覗き込む。
「さぁ願いたまえ。そして共に冥府の底で暮らそうではないか。私は貴方を気に入っているのだよ、ラナ。このような薄汚れた場所で打ち捨てられる最期など似つかわしくない。貴方のためなら私はどんな願いでも叶えよう」
なんでも、とラナはひび割れた唇を動かして悪魔の言葉を反芻した。疲れと諦めから濁っていたエメラルドの瞳をしばし瞼が覆い隠す。
「その言葉に、二言はないわね」
「勿論。契約を違える願いでなければなんでも。今まで私が貴方の期待に応えられなかったことがあったかな?」
それでは、とラナは顔を上げた。エメラルドの瞳を爛々と輝かせて。』
そこから先の文字はない。というよりも、原稿用紙が破られて中途半端に途切れているのだ。
破られたノートと原稿用紙。まるでこの先の展開を読まれたくないかのようじゃないか。
そういえば、昔どこかのミステリでこのような話を読んだ気がする。作家の被害者が過去の犯罪を作品の中で仄めかせ、それに気づいた犯人が作家を殺して過去の事件を隠蔽しようとする、というものだ。
つまりこの小説のラナと悪魔は何か現実世界の何かを隠喩していて……?まさかな、と自分の考えを鼻で笑う。そんな俗世に塗れた作品を書ける作家様じゃないのは俺が何より知っている。
じゃあ叔母自身がスランプから原稿を破ったのか。それもまた無い気がする。几帳面で温和な叔母がこんな乱雑にページを破り捨てるとも思えない。
無精髭が生えたままの顎を撫でながら、俺は椅子を引き、深々と腰掛けた。クッションの効いた椅子のスプリングが小さく軋む。
視線が少し下がると、窓の外の鮮やかな緑がよく見えた。しばらく足を揺らしてギコギコと椅子を軋ませていると、机の下の何かに足がぶつかる。
ゴミ箱だ。なんの変哲もない安物のプラスチックのゴミ箱。そこにはぐしゃぐしゃに丸められた紙が中程までたっぷりと入っている。ゴミ箱を手に取って中身を床にぶちまけると、やはりそれは書き損じらしき原稿用紙だった。
何かヒントにならないかと丸まったそれを開いて、俺はブルリと身を震わせた。
『私はこの世界の神を殺しに行きたい』
明らかに叔母の文字ではない、荒々しく怒りに満ちた赤い文字が、原稿用紙のマス目を無視して大きく踊っていた。
「な、んだこれ」
まるで鮮血を指先で塗りたくったような太い線は、他の丸めた原稿用紙からもちらりと覗いていた。丸められた原稿用紙全て、20枚近くの紙に渡って、その文字は走る。
『死にたくない、まだ生きたい、幸せになりたい』
『私は私の運命を決めた奴が憎い』
『こんな人生歩みたくなかった』
『私の大切な者を山ほど奪った』
『お前が憎い』
『人殺し』
『絶対に許さない』
『だから最後に、殺しに行かせて』
雲が出てきたのだろうか。先ほどまで燦々と差し込んでいた日差しが翳り、ぞわりとした寒気に鳥肌が立った。
「……はは、ははは。まさか、まさかな」
床にぺたりと座り込み、散らばる紙片を呆然と眺めた。
頭をよぎったのは、ただの妄想だ。非現実的、非科学的、100人中100人が聞いたら大笑いするような与太話だ。
「どこの誰だ、こんな創作なんかに傾倒してバカな小道具を作って回った奴は。ほんと、殺人犯はイカれてんな」
叔母を殺したのはきっと気の狂ったファンの仕業だ。そうに違いない。
俺の乾いた笑いと重なるように、ジャラリ、と重い鎖の音がした。
ジャラリ、ジャラリ。ギシ、ギシ、ギシ。
階下から、重い鎖を引き摺って何かが上ってくる。
この洋館に入るとき、俺は玄関の鍵を閉めただろうか。いや、まさかこんな場所にわざわざ来る人がいるなんて思っていなかったし。何より。
この部屋の扉すら、開け放したままだ。
「私の人生は、最悪なことばっかりだったわ」
少しだけ掠れた若い女の声がした。ジャラリ、鎖の音は最上段まで上りきり、扉を潜ってこの部屋に踏み込んでくる。痣だらけの細い素足に、途中で鎖がねじ切られた足枷を引き摺って。ボサボサにもつれた赤い髪の間から、エメラルドの瞳をギラギラと燃やして。
「だから、自分の人生の最期ぐらいは望む通りに描きたいのよ。その為だったら私はなんだってするわ。昔も今も、悪魔に魂を売ったって構わないの」
自分の幸せを守る為、人ならざる力を奮い続けた騎士。ーー自分の我欲の為に数多の命を屠り続けた悪魔の契約者。
凶悪な殺人犯は、悪魔にも似た顔でニタリと笑う。
「貴方たちだって散々私を殺そうとしてきたんだもの。私だってーーーー貴方たちを殺したって、良いわよねぇ?」
「皮肉なもんだ。俺達がガイシャの最後の目撃者になるなんざ」
めくり上げたビニールシートを引き下ろしながら、中年の刑事が苦々しげに吐き捨てる。
つい先刻までは容疑者の一人だった男は、苦悶の表情を浮かべたまま息絶えていた。刃渡りの長い刃物で胸を
一突き。随分と刃物の扱いに慣れた犯行だ。
「被害者一族に恨みのある者の犯行でしょうか……」
未だ理解が追いつかない、といった顔で若手の刑事がぼやく。それに対して、中年の刑事は死体の脇の壁を見上げ、小さく唸った。
「俺達にゃ理解できない狂気の沙汰かもしれんな」
被害者が寄り掛かるクリーム色の壁紙をキャンバスのようにして、そこには一言、赤い血文字が書き付けられていた。
『そして少女は神から解放されました。
めでたしめでたし。』