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女の子と化け物

作者: 結城 冴



 あるところに、目の見えない女の子がいました。

 少し前、世界では恐ろしい病気が大流行していて、あちこちで人がたくさんたくさん死んでいました。運よく助かった人たちも、歩けなくなってしまったり、言葉が話せなくなってしまったり、青黒い痣ができてしまったり、耳が聞こえなくなってしまったりと、ひどい後遺症をもってしまうのです。

 五歳の時、女の子もその病気にかかってしまいました。

 幸い、重くならずに済んだので、治療をするとすぐに治ることができました。

 そのかわりに、目が見えなくなってしまったのです。


 周りの人たちはとても悲しみましたが、女の子は泣きませんでした。

 たしかに、みんなの顔が見えなくなったことは悲しいことでしたが、お話をしたり、抱き締めたりすることはできます。周りが見えないので怪我をしやすくなりましたが、気をつけていれば怪我もしなくなったので、平気でした。

 ただ、雲やお空、可愛いお花が見られなくなったことは、寂しいことでした。


 でも、女の子はへっちゃらです。

 だって、女の子には大好きなお兄さんがいました。

 血は繋がっていません。目が見えなくなったあとに出会った、顔の知らないお兄さんです。どういう経緯で知り合ったのかは覚えていません。気がついたら、女の子と一緒にいました。

 お父さんとお母さんがお仕事でしばらく遠くに行くことになったので、お兄さんが一時的に女の子を預かっているのだそうです。お父さんとお母さんのお仕事や難しいことは、女の子にはわかりません。大人の事情というものなんだな、と思うことにしました。

 

 お兄さんがいたおかげで、お父さんやお母さんがいなくても、目の見えない真っ暗な世界にいても、女の子は全然寂しくありませんでした。

 お兄さんにはたくさん素敵なところがありました。作ったご飯はとても美味しく、セロのような低く優しい声で紡がれる歌はどれも綺麗で、女の子の頭や背中を撫でてくれる手はとても温かい。目のせいで出来ないことが多い女の子を、いつも手助けしてくれる。


 そして、お兄さんは目の見えない女の子のために、外の世界のことをたくさん話してくれるのです。

 深い青色と白んだ光が溶けあった朝焼け。優しい木の香りがするこの家と、ほとりにある大きな湖。そしてそれよりももっと広く冴え冴えとした海というもの。氷の欠片のような星と、少しだけ雨の匂いがする夜空、宝石のような飴細工に、朝露を零す咲いたばかりの花。


 炎のように赤く眩い紅葉に、柔らかな色彩を映す虹。桃色と橙が完璧に絡み合った夕焼け。海よりも高く澄みきった夏の空。エメラルドのような森、空の上でだけ咲くことができる火の花。世界をどこよりも冷たく静謐にする、嘘のように真っ白な雪というもの。


 お兄さんの言葉で語られる世界は、それはそれは美しいものでした。もちろんどれも見たことはありませんでしたが、お兄さんが語ってくれると、女の子の頭の中でその情景がありありと浮かんでくるのです。


 その世界を見てみたいと、願ったことは一度や二度ではありません。

 思い描くだけでもこんなに美しいものを、実際にこの目で見ることが出来たら、どれほど幸せだろうと女の子は思いました。


 でも同時に、自分の目のことを思い出しました。

 目が見えたらよかったのにと、女の子が言った時、お兄さんは寂しそうに辛そうに笑いながら、お兄さんがいるから大丈夫だと、セロのような低い声で優しく言ってくれました。

 それもそうか、と女の子は思います。そうだ、わたしにはお兄さんがいる。お兄さんがいるから何も怖くないし、お兄さんがいれば目が見えなくても美しい世界を知ることはできる。女の子はそう考えました。







 優しくて、温かくて、聞かせてくれる話はどれも面白くて。

 いつも、女の子の心に寄り添って、豊かにしてくれる。

 女の子にとってお兄さんは、王子様であり、勇者であり、英雄であり、魔法使いでした。


 初めてそのことを言った時、お兄さんはひどく驚いたようで、その様子がおかしくて笑ってしまったことを、女の子は今でも覚えています。








 お兄さんと一緒に暮らしてから、長い年月が経ちました。

 女の子はもう女の子ではなく、長い黒髪の似合う美しい少女に成長しました。

 でもお兄さんは変わりません。もしかしたら見た目は変わっているかもしれませんが、見えないのでわかりません。いったい何歳なのだろうと思いました。そしてやっぱり、魔法使いみたいだとも。

 お兄さんは変わらず、少女の大好きな優しい魔法使いでした。

 目は見えないままでしたが、お兄さんと練習をしたおかげで、一人でご飯を食べることも、お風呂に入ることも、手助けなしでできるようになりました。手作りの杖も貰ったので、家の中でなら転ばずにすいすいと歩けるようにもなれました。

 街からは遠く離れた、湖の畔に住んでいたので、お兄さん以外の人とは一度も会ったことはありません。

 お父さんやお母さんとも、会っていません。手紙も貰ったことがありません。

 でも、二人と一緒にいたのはもうずいぶん昔のことです。顔も声も、もう覚えてはいなかったので、悲しくはありませんでした。

 少女は、お兄さんと一緒にご飯を食べて、湖の近くを手をつないで散歩して、心が躍る話を聞かせてもらう、ささやかな生活を送っていました。


 ある日のことです。

 お兄さんが、少女に言いました。

「目が、見えるようになりたいか」

 突然どうしたんだろうと思いました。目が見えたらいいのにと言ったのは遠い昔のことで、今は見えなくても不自由はなかったのですから。

 でも、少女は考えました。


 目が見えるようになったら。

 もしまた、見ることができるようになったら。

 あの、お兄さんがたくさん語って聞かせてくれた、うっとりするほど美しい世界を見ることができる。

 そしてなにより、お兄さんの顔を見ることができます。

 それはとても、魅力的なことでした。

 にっこりと笑って、少女はお兄さんの問いに頷きました。


 少しの間、お兄さんは何も言いませんでした。

 でも、明るく優しい声で言いました。

「目を、治しに行こう」

 目が見えるようになる、とお兄さんが言いました。

 少女は喜びました。遠い街だから疲れてしまうかもしれないとお兄さんが言いますが、そんなこと全然気になりません。

 目が見えるようになる! ―――― これは、少女にとって途方もない奇跡だったのですから。

 喜ぶ少女を見ながら、お兄さんはじっと、黙り続けていました。

 表情は、見えないのでわかりませんでした。


 お兄さんと少女は荷物をまとめました。ほとんど初めての長旅のスタートです。

 たくさん歩きました。座っているだけで遠くにいける列車というものにも乗りました。ずっとあの家にいた少女には想像もつかない距離を進みました。

 お兄さんと手を繋いで、歩いて歩いて、歩いている間に、少女は目が見えるようになってから何をしようかずっと考えていました。


 流れ星や花や、お月さま。太陽や朝焼け、夕焼け、雨に雪。海に草原、森や小鳥。見てみたいものがたくさんありました。お兄さんが教えてくれた美しい世界です。

 料理もしてみたいと思いました。火や包丁を使うので危ないからと、お兄さんは料理だけは少女にさせてくれなかったのです。お兄さんの作るごはんが好きでした。だから今度は、自分がお兄さんにごはんを作ってあげたかったのです。

 夢はむくむくと膨らんでいきました。長旅は全然つらくありません。


 でもお兄さんは、歩いている間も、列車に乗っている間も、なかなか話してくれません。

 どうしたの、と聞いても、大丈夫だ、としか言わないので、少女は少し心配でした。

 でも、目さえ見えるようになれば、お兄さんの表情が見えるようになります。そうすれば、お兄さんが黙っていても、何を考えているのかわかります。





 目さえ、見えるようになれば。








 やがて、二人はある街に着きました。 

 一体どれくらいの距離を歩いたのか、少女にはわかりません。でも、あの木の香りのする家から、ずっとずっと遠く離れた場所であることはわかりました。そして、どこか、懐かしい空気のする街だ、とも。

 お兄さんの手に引かれて、少女はある建物に入りました。

 冷たい匂いのする場所です。

「少し、ここで待っていろ」と言って、お兄さんは少女から離れていきました。目を治すことができる人とお話があるそうなのです。少女は大人しく、その椅子に腰かけて待ちました。

 やがて、お兄さんが戻ってきます。面倒な手続きは全部終わらせてきたようです。

 二人は手を繋いで、お医者さんのいる部屋へ入りました。

 お医者さんは少女の目を詳しく調べました。時折、お兄さんと少し話をしていましたが、話している内容が難しくて、少女にはわかりません。

 ただ、少女の手を握るお兄さんの手の力は強く、まるで縋り付いているようでした。

 

 診察が終わった少女は、そのまま病院に泊まることになりました。

 お兄さんは泊まることができません。初めての、離れ離れの夜です。寂しくて泣きたくなりましたが、我慢しました。だって、もう十五歳なのです。いつまでも子供ではありません。

 明日手術することになっている少女に、病院を出る前、お兄さんは言いました。


「目が治ったら、この手紙を読んでくれ」


 少女の手に小さな紙を握らせます。

 少女は驚きました。目が見えていた時に文字は習っていたので読めないことはないと思いますが、お兄さんは伝えたいことがあったら口で直接少女に言っていました。それが、いきなり手紙で伝えるというのです。


「大丈夫、大丈夫……ここの先生たちがお前の目を治してくれる。なにも心配はいらないよ」


 セロみたいな低く美しい声。少女の好きな優しい声です。でも、今日はどこか、変でした。

 どうして、お兄さんは泣いているのでしょう。


「ずっと見たかったんだよな。目が見えるようになりたかったよな……連れてくるのが遅くなって、ごめんな」


 そんなこと、少女は気にしていません。だって、お兄さんは優しい人です。大好きな魔法使いです。今まで連れてこれなかったのも、なにかきっと事情があったのです。少女はそれをよく分かっていました。それに、明日にはもう見えるようになっているのですから。


「優しいな……本当に、優しい子だ。……ありがとう」


 お兄さんが少女を抱きしめて頭を撫でます。少女も、微かに震える背中をぎこちなく撫でました。

 お兄さんがなにを恐がっているのか、それとも悲しんでいるのか。少女には、わかりませんでした。











 ―――― 長い、長い、長い、時間を過ごした気がします。

 暗闇の中で浮き沈みを繰り返し、ずっと眠り続けた少女は、差し込んだ光に導かれるようにして目を開けました。

 眩しさに目を細めます。でも―――― はっとしました。暗闇ではありません。ベッドの白さも、天井の白さも、窓から見える空の青さも、全部本物の色です。

 胸が高鳴りました。少女の目はとうとう見えるようになったのです。

 少女は喜びながら、同時にお兄さんを探しました。この喜びをお兄さんに伝えたかったのです。見たことはありません。なので、どんな姿をしているのか少女にはわかりません。でも、見ればきっと、すぐにお兄さんだとわかる。少女は確信していました。


 でも、何処にもいません。

 きっとお医者さんと話しているんだ、と少女は気楽に思いました。

 でも、お兄さんは帰ってきません。

 だんだん、少女は不安になりました。

 お医者さんの難しい説明を聞いたあと、お兄さんはどこにいるのか聞きました。

 見ていないと、お医者さんは言います。




 胸騒ぎがしました。

 お兄さんは、こんな長い間、少女を一人になんてしたことがありません。ましてや、ここは初めて来た街で、初めて来た場所なのです。そんなところで、お兄さんが少女を放っておいてしまうはずがないのです。

 そこで、はっと思い出しました。

 お兄さんからもらった手紙です。

 ベッドの脇にあった引き出しから、慌ててそれを取り出しました。







『 めは みえるようになりましたか 』








 息をのみました。

 目が見えるようになったばかりの少女でも読みやすい、大きくて綺麗な字です。








『 とつぜん あなたのまえからいなくなってしまって ごめんなさい

でも あなたにあうことは もうできないのです 』



『 おにいさんは むかしから ひとりであのいえに くらしていました

すこしまえ せかいで おそろしいびょうきがはやったこと おぼえていますか?

あなたがまだ ちいさいころにかかった あのびょうきです

おにいさんも そのびょうきにかかりました 』


『 あんしんしてください

びょうきは すぐになおすことができたので あなたには うつっていません

でも おにいさんは なおったあと ひとりぼっちになってしまいました 』


『 あなたもよく しっているように

あのびょうきは さまざまな こういしょうを ひきおこしました

あなたのめが みえなくなったように 』




『 おにいさんのかおには 』














『 みぎはんぶんが みにくいみにくい あざで おおわれてしまっているんです 』













『 めもあてられないほど みにくいすがたに なってしまったおにいさんを みんながきみわるがりました

おやでさえ おにいさんといっしょにいるのを いやがりました

だから おにいさんは とおいばしょへにげました

いろんなひとから みにくいみにくいと いわれてしまうことに

たえられるほど おにいさんはつよくありませんでした 』


『 おにいさんは ずっとひとりでした

あのおうちで ずっとひとりで くらしていました

あのひ あなたにであうまでは 』


『 そのひ おにいさんは かいものをしに まちへきていました

かおをかくして びくびくしながらあるくおにいさんに

あなたが こえをかけたのです

もう わすれてしまっているのでしょうけど 』


『 めがみえないのだと すぐにわかりました

だから ひきょうな どうしようもないよわむしのおにいさんは おもいついてしまったのです 』


『 このこなら ともだちになってくれるかもしれない

このこなら じぶんのそばにいてくれるかもしれない

だって めがみえないのですから

おにいさんの みにくいすがたが みえないのですから 』


『 おとうさん おかあさんから あなたをあずかっている

あれは うそです

おにいさんは あなたをさらいました 

じんせいでつかえる すべてのこううんを つかったのです

あなたといられる ともだちができる それにまさるきせきなんて おにいさんにはありませんでした

さいしょは いちにちだけだと おもっていました 』


『 でも おれがみえないあなたが あまりにやさしいから

おにいさんといって なついてくれるから

だから あまえてしまったのです

ずっといっしょにいたいと おもってしまったのです 』


『 そんなあなたでも きっと おれのかおがわかったら はなれてしまう

みにくいおれと いっしょにいたくないって おもってしまう

だから おれは あなたのめが なおらないままでいればいいのにと

そんな ひどいことをおもっていたのです 』


『 いつだったか おれのことを まほうつかいだといってくれましたね

でも ちがうのです

そんな すてきなそんざいじゃありません

おれは あなたがすごすはずだった しあわせなじんせいを 10ねんも うばったのです

ほんとうは こんなみにくいあざがある みにくいにんげんだということを かくしたのです

おれは あなたにうそをついた

そんなの まほうつかいではありません







おにいさんは ばけものなのです 』









『 そのまちは あなたがもともと すんでいたまちです

もうすぐ おとうさんや おかあさんが むかえにくるでしょう

きっとよろこんでくれます このさきも だいじにしてくれます

あなたはもう だいじょうぶです 』


『 きたないうでで だきしめて あたまをなでてしまって ごめんなさい 』


『 そして ありがとう

あなたとすごせた じかんは たいせつな たいせつな たからものです

じんせいすべての こううんでした

とほうもない きせきでした 』


『 だから どうか

かおもしらない うそをたくさんついた ひどいばけもののことは

わるいゆめだとおもって わすれてください 

これから あなたは たくさんのひととであいます

すてきなひとと この うつくしいせかいのなかで いきるのです 』


『 さようなら

  ずっと ずっと さいごまで

あなたのしあわせをねがっています 


おにいさんより   』








 涙で息ができませんでした。

 目が治ったのに、なにもかも見えるようになったというのに 目の前が真っ暗になってしまったようでした。しゃくりあげて、ぼろぼろと涙が溢れて止まらなくて、少女は声の限り泣き叫びました。


 なんということでしょう。


 お兄さんは、少女がなによりも、誰よりも、姿を見たいと願ったその人は、少女の目が見えるようになったことで、遠くに行ってしまったのです。

 少女から離れてしまったのです。

 


 手紙に書いてあった通り、少女のお父さんとお母さんは少女を迎えに来ました。

 ずっと行方不明だった、死んだとすら思われていた娘に会えた二人は泣いて喜んでくれました。少女の妹や弟だという子供にも会いました。

 でも、全然嬉しくありません。

 全然、ちっとも、嬉しくありません。

 だって、一番会いたかった人が。一番傍にいてほしい人がどこにもいないのです。

 お兄さんを返して、お兄さんに会わせて。あの、優しい魔法使いに会わせて。

 そう考えてから、少女は、お兄さんの名前すら知らないことに愕然としました。

 あんなに一緒にいたというのに。

 少女は、お兄さんの顔も、名前も、笑顔も、ずっとずっと苦しみ続けていたその心も、なんにも知らなかったのです。



 どんな気持ちだったのでしょう。

 目が見えるようになりたいかと、少女に尋ねたお兄さんは。

 それに笑って頷いた自分を見たお兄さんは。

 この手紙を書いていたお兄さんは。

 どんな思いだったのでしょう。

 どんな顔だったのでしょう。

 考えるだけで、胸が張り裂けそうでした。

 あの時、目なんて見えないままでいいと言ってしまえばよかったと、

 心から、後悔してしまうほど。




 ―――― 帰ろうと、思いました。


 あの、木の香りのする家に、お兄さんの住む家に、少女の家に、帰ろうと思いました。

 だって、あそこが帰る場所なのです。顔も声も覚えていないお父さんやお母さん、全く知らない妹や弟が住む知らない家ではありません。

 あそこに帰らなければなりません。

 



 そこからは目まぐるしい日でした。

 ずっとずっと遠くへ行くには沢山のお金や知識がないと行けません。その二つを持っていない少女には、あの家に帰るなどとてもできません。お兄さんから沢山の本を読んでもらったので、少し知っていることはありましたが、そんなの高が知れていました。

 だから、少女は勉強をしました。

 お父さんやお母さんから本を借りて、寝る間も惜しまず、ひたすら、帰るために必要なことを勉強しました。

 また、何年か経ったあと、仕事も始めました。

 学校には行っていませんでしたが、必死で勉強したことおかげで、ある程度は働くことができました。賢くて機転の利く少女を誰もが重宝したので、お金も少しずつ溜めることができます。

 それと並行して、あの家の場所もできるかぎり調べました。

 あの日、どのくらい歩いて、何回列車に乗ったのか。

 家の周りには何があったのか。

 記憶を頼りに、それだけを頼りに、調べました。



 少女はもう少女ではありません。

 自分の足で歩いていける、大人の女性です。

 目が治ってから何年も経ちました。


 女性は、あの家に帰るために、旅に出ました。

 

 家の場所がわかったわけではありません。

 どうやったらいけるかも、完璧にわかったわけでもありません。

 でも、めどが立ったので、女性は旅立ちました。

 可能性があるのなら、もう一度奇跡が起こるなら、何としてでも帰りたかった。



 何度も列車に乗りました。

 お金も水も何度もなくなりました。

 途方に暮れるほど長い距離を歩きました。

 へとへとの、ぼろぼろです。

 でも、絶対に諦めません。

 だって、わかったことがあるのです。


 勉強して色々なことを知りました。

 目が見えるようになって、色々なものを見ました。

 この旅の途中だって、ありとあらゆる景色が見えました。


 流れ星にお月さま。

 森に湖。

 花に蝶。

 雲に青空。

 夕焼けに朝焼け。

 昔、お兄さんが教えてくれた景色です。

 女性が、ずっと見てみたいと願い続けていた景色です。

 

 でも、全然綺麗ではありませんでした。

 星も空も、海も花も、蝶も鳥も、太陽も雲も雪もちっとも綺麗じゃなかったのです。

 ああ。

 その時にやっと、理解したのです。

 見えるようになった目で、とめどなく泣きながら。

 














「どうして」








「どうやって……いや、どうして、」









「ここに、帰ってきた」








 扉を開け放った私に、掠れ声で彼が呟いた。

 優しい木の香りがするこの家に、顔の半分が青黒い痣で覆われてしまっている、ずっとひとりぼっちだった人のもとに、もう絶対に帰れないと思っていた場所に、私が、帰って来たからだ。人生全ての幸運を使って。


「……目の見えなかった私に、聞かせてくれた話が好きだった」


 茫然と立っている彼に対して、独り言のように私は行った。


「お兄さんは、綺麗な言葉を使ってくれたから……見たことのない景色も、本物以上に、素晴らしく言ってくれたんだと思う。それのせいも、あると思う」


 歩きすぎて痛む足を、ゆっくりと動かす。浅くなった息を、少しずつ整える。


「目が見えるようになりたかったのは、その景色を見てみたかったからだった。お兄さんの顔も、見たいからだった」


 一歩一歩、噛みしめるように、彼に近づく。


「でも、この世界は、夢見ていた景色は、全然綺麗じゃなかった。全く感動できなかった。ずっと見たかったはずなのに、なんで綺麗だと思えないのか、ずっと、考えていた」


 薄く痩せ細った、彼の前に立ち止まる。


「それで、やっと分かったの」


 すっと、彼と視線を合わせた。痣に侵された乳白色の右目と、晴天の空を閉じ込めた様な青い左目を、私は真っ直ぐ見つめ返す。


「世界が綺麗だったんじゃない、あなたがいたから、この世界は美しかった」


 強く、はっきりと、私は言い放った。

 目の前で、言葉を失っているこの人に。


「あなたがいてくれたから、教えてくれたから、私の思い描いた世界は美しかった。傍にいてくれたから、私がいる世界は温かかった。優しさも美しさも、全部あなたが教えてくれたから」


 暗闇しかなかった世界に色を教えてくれたこと。温もりを与えてくれたこと。何も見えなくても、言葉だけでありありと景色を想像させてくれたこと。一人じゃ何もできなかった私に、優しい世界だけを教えてくれたこと。夢を、見させてくれたこと。


 それを多分、魔法と呼ぶのだと思う。


「私が見たかったのは、欲しかったのは、世界じゃなくてあなただった」


 私は腕を伸ばし、優しく包み込むようにして彼を抱き締めた。薄くて細くて、びっくりするほど痩せた体だった。目の見えない馬鹿な少女は、なんにも知らずにこの体に頼りきっていたのだ。


「……なん、で」


 震えた声で。どこか怯えたような声で、彼が言った。


「ずっと、お前を騙して。すぐに治るはずだった目も十年も先延ばしして。家族や友達ともっと幸せに過ごせたはずで。それを奪ったのは、俺なのに、どうして」


 ひくっと咽喉の奥を引き攣らせて、彼が続けた。


「もう、魔法は使えない」


 痛みに満ちた言葉だった。まるで、呪いのようだった。

 そこで気づく。

 その呪いをかけたのは、私だ。

 魔法使いであれと、そう願ったのは私だ。


「お前が好きだった魔法使いはどこにもいない。ここにいるのは、ただの化け物だ……なのに、」

「そうだね。あなたはもう、魔法使いじゃない」


 遮った私の言葉に、彼が短く息を詰めた。


「私の目は見えるようになってしまったから、もう、あなたは魔法使いじゃない。でもね、」


 抱き締める腕をぎゅっと強くする。表情の見えないこの人の心を、想う。


「私はもう、魔法も奇跡もいらない。世界も、幸運も」


 呼吸が浅くなる。唇が慄いて、体が震えて、全身がじんじんと熱くなっていく。

 涙が、せり上がる。


 

「化け物でも魔法使いでもない、人間のあなたと一緒にいたい」



 その瞬間、私は骨が軋むほど強く抱き締められた。彼の胸の中に埋めていた体を、その時彼が、縋り付くように。ほたほたと、肩口が熱く濡れるのが分かった。


「……俺の」


 涙に塗れた声が落ちる。


「俺の傍に、いてくれ」


 ―――― ゆっくりと、うねるような温もりが、心を満たしていくのがわかった。安心したのか、嬉しいのか、どこかで緊張していたものがほぐれたのか。全部かもしれない。わからない。


「ずっと傍にいるよ。もう、あなたを置いて、どこにもいかないよ」


 この人が好きだ。

 誰よりも、どうしようもなく、この人のことが好きだ。

 父なのか、兄なのか、ともだちなのか、はたまた恋人なのか。私達の関係にどんな名前がつくのかはわからない。わからなくてもいい。名前がなくても、一緒にいられる理由があれば。どんな魔法よりも、奇跡よりも眩い日常を、この人と過ごせるならば。

 彼が腕を緩めて、もう一度私を正面から見た。それから、涙でべしゃべしゃになった顔をくしゃりと破顔させる。心底、幸せそうに。

 ああ、どうしよう。いとおしくって、堪らなかった。

 





 今まで見たどんな景色よりも、美しかった。

 






























 こうして

 目が見えなかった女の子と、化け物だった青年は

 いつまでも いつまでも 幸せに暮らしました

 めでたし めでたし


 








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