3 聞いてないぞ……!
翌日は朝から、何だかんだ言って客人を気に入っていたコリスがえぐえぐと泣きべそをかいた。
「ううっ、ジョアンさんっ。あなたってひとは、どうして、来るときも帰るときも急なんですか……!」
「まあっ。コリスさんったら。惜しんでくださるの?」
「当たり前ですっ」
昨夜、夕食の席でザイダルからの通達があった時点で手にしていたおたまを落とすなど被害は垣間見られ、シオンとジョアンが両側から慰めるという場面もあった。
いまは、その青霞美女を両側に侍らせたかのような谷の長が正面に立ち、わしゃわしゃと桃色の頭を撫でる。遠慮はなかった。
「よしよし。お前、本当にいいやつだよな」
「〜〜、何の慰めにもならないナデナデ禁止! 長!」
「はい」
ビシッと指を突き付けられ、それなりの格好をしたザイダルは一転、お行儀よく諸手を挙げる。そのことにシオンは(やっぱり、コリスさんは『触るのはいい、だが触られるのはだめ』のひとだった……!)と、ひとり頷き、ジョアンは愛おしそうに少女を抱擁した。
「うぎゃっ!?」
「ごめんなさいね。出会って早々に失礼をしたわたくしに、こんな」
「わ、わかればいいんです。わかれば」
しどろもどろと目を泳がせるコリスは安定の可愛さだった。
ジョアンは、そんはコリスの金色の犬耳の辺りでこそりと囁いた。とんでもなく物音に敏感な、彼女だからこそ聞き取れるような声だった。
「(――きっと遠くない未来、また会えますわ。ですから悲しまないで)」
「え? それって」
「お待ちしていますわ」
「??? わかりません。何かの、なぞなぞですか……?」
鳩獣人ではないが、豆鉄砲を食らったようなコリスが、ぽかんとする。
おかげで涙の止まった少女に胸を撫で下ろした一行は、今度こそ館をあとにした。坂の麓に来ていた迎えの馬車に乗り込む。
馬車の窓を開けたジョアンは、ちいさくなるコリスにほほえみ、王族らしく手を振った。
隣で薄緑の衣に身を包んだシオンは口元に片手を添え、大声で叫んだ。
「コリスさーーん! ラックベルで、美味しそうなお菓子でも買ってきます! 帰ったら、お茶にしましょうね!」
はーーーい……!! と、向こうも両手を筒状にして返事をしている。
そのあとは元気よく、ぶんぶんと手と金色の尻尾を振っているのが見えた。
◆◇◆
久しぶりのラックベルは、前回はろくにあちこちを見る余裕がなかったため、車窓越しでも改めて活気のある町だと思った。馬車は、高級旅籠“幸せの音色亭”の軒先でぴたりと停まる。
まずは公主が下車をした。宿で働く人間やセイカの役人らしき面々が両側に並び、そのなかをごく自然に歩む姿はまさに雲上人。
ちらりと振り向き、こちらに向かって(あとでね)と唇の動きだけで語りかけてくれるあたり、さすがはジョアンと頬が緩む。
「――着いちまったな。寄り道は帰りにするとして、行くか」
「はい」
嘆息を落としたザイダルが、窮屈そうな座席から立ち上がった。もちろん天井は熊獣人の彼にとってかなり低い。降車口ぎりぎりに身を狭めて通り抜け、地面に足を付けてからはじつに伸び伸びとして見えた。こちらもくるりと振り返る。
「ん。ほら、手」
「!」
ジョアン渾身の見立てのおかげで、ずいぶんと着飾られた感はあった。たしかに、この出で立ちなら段差のある足元はおぼつかない。
――――慣れぬ装束。無理は禁物。
シオンは、差し出された大きな手に、そっと自分の手をかさねた。「ありがとうございます」
なるほど、こんなときのための長いひらひらとした袖なんだなと伏し目がちになり、口元を隠すと、なぜかザイダルの目元が染まった。気のせいでなければ、ぼそりと呟いている。
「いい」
「はい?」
「……いや、何でも」
「??」
係の者に恭しく案内されたのは二階。
こういった公ごとの会談や商談に用いられるのだろう。豪奢な調度品に重厚感のあるテーブル、ひとりひとりが掛けられる布張りの高価そうな椅子が存在感のある、いわゆる上室だった。
奥にある上座は空席。入って右側にその人物は座り、すでに待ち受けていた。書記官と思わしき随行員も。
ジョアンは、まずは公主らしく別室で支度なのか、姿がない。樂公子もいないことに、シオンは明らかにホッとした。
けれど、続くザイダルの一声に度肝を抜かれた。
「お初にお目にかかる。青霞国の太子、煉どの。待たせただろうか」
「いいえ、時間通りです。こちらこそご足労いただいて申し訳ない。警護がどうこうと官が小うるさくて」
「まぁまぁ」
(!!! 太子?? このかたが!??)
ザイタルはすっかり物慣れた様子で、担当者が引く椅子へと歩を進める。
ご婦人はこちらへ、と声をかけられ、シオンも内心冷や汗ものでそれに従った。
――聞いてない。
聞いてないぞ……! こんな大物がセイカ側の外交官だなんて、と、天に向かって叫びたい心地だった。
こうして、借りてきた猫状態のシオンも同席する二国間会談は始まった。




