9 古の約
その後のふたりには、目をみはるものがあった。
ジェラルドは通路に向けて二種の短槍を突き出し、駆けつけるセイカ兵たちを間合いに入れない。
ザイダルは普段の大剣ではなく片手剣を装備しており、それをスラリと抜いて寝台へ。いまだにシオンを組み敷いていた樂の顎先へと、迷わず切っ先を向けた。
「降りろ。すぐに」
「この……、賊めが」
憎々しげな捨て台詞とともに、公子はいちおう指示に従う。
ザイダルは、シオンの『ぎりぎりの無事』をさっと確認すると、極力見ないように気をつけつつ「動けるか、シオン。できればこっちへ」と呟いた。
「は、はい」
震えは収まらなかったが、問答の隙に最低限の衣服の乱れは直しておいた。口元の戒めをほどき、頷いて寝台から滑り降りる。はだけた胸元は、両手でかき合わせながら走り寄った。
そんなシオンに、樂は皮肉げな笑みを浮かべた。
「郷。それで助かったつもりか? ――おい、お前。俺が誰だか、わかっているのか」
「もちろんわかってるさ、セイカの樂どの。会うのは初めてだが」
「…………口を慎め。やはり、辺境の獣は躾がなっておらんな」
(!!)
かちん、と、これにはシオンのほうが頭にきた。
躾がなっていないのは目の前の男だし、“獣人の谷”は辺境ではない。セイカとは違う豊かさに満ちた、おだやかな里だ。商人だってそこそこ訪れている。
反論したいのを我慢しながら、シオンは悔しげに口をつぐんだ。同時に(そうそう、そんな名だった)と、ようやく相手の名を思い出す。
そのときだった。
バタバタ……と、通路の向こう側が騒然とし始めた。
膠着状態の兵たちをかき分けて来たのは、ラックベルの町長だった。わずかだが手勢も連れている。
ジェラルドは、なぜか――――これを黙認した。
◆◇◆
失礼、と断ったあとで、ぶち破られた扉に目を丸くしつつ、町長は恭しくザイダルに頭を下げた。
「お久しぶりでございます、ザイダルどの。此度は申し訳ありません」
「すまない、町長。一刻を争ったので勝手に邪魔をした」
「…………は?? 『どの』? どういうことだ」
「おそれながら、セイカの公子様」
額の汗を拭いながら、町長はいったん言葉を区切らせた。ひどく緊張しているようだった。
「ご存知なかったのでしょうか。我々ラックベルの民は、有事の際は“獣人の谷”の庇護下に入ります。貴国ではなく」
「??? 盟約があるということか……? だから、こんなくたびれた半獣の肩を持つと? 馬鹿な! お前たちは人間じゃないか!」
「――おそれながら」
町長は表情をあらため、視線を厳しくして樂へ。同じ台詞を繰り返した。こちらも怒りを感じているようだった。
「セイカと谷に結ばれた、古の約もご存知ないのですか。両国は基本的に不可侵であると」
「約?」
ぽかん、とした樂に、ザイダルは剣を鞘に収めながら深々と溜め息をついた。
「昔、そっちの人間が勝手に谷の者たちを連れて行った。言うのも憚られるような、家畜や奴隷にするためだった。そこから派手にやりあって締結した、永世不可侵条約だ。ちゃんと学べよ若造」
「なっ……!! どういうつもりだ貴様! 第一、郷は。その女は逃げ出したセイカ人で――……ッ」
「くそったれ。わかっちゃいねえな。『谷の者』と言ったろうが!!! 何人たりとも、うちの領土にみずからの意志であるうちは谷のもんだ。あんたの妹もな」
「お、お前は」
とたんに、樂が青ざめた。領土侵犯。条約違反。不法な拉致は国際的に青霞が責められても仕方のない失態だった。
おまけに、谷にはすでに、再び――――
わらわらと町長の手勢が樂の両脇に回り、丁寧ではあったが有無をいわさぬ様子で「公子様。ひとまずは別室へ」と促した。樂はまだ呆然としている。
ザイダルはシオンの肩を抱き、後ろを振り返った。
「帰るぞ、ジェラルド。あとは国同士のことだ」
「了解、長」
――長だと、という呻きを無視して、ザイダルは背中から圧を滲ませた。
「今ごろ谷に来てる奴らに関しちゃ、もう無事は保証できない。そこは覚悟しておけ」