3 だめだだめだ、思い出すんじゃない!
『心ここにあらず』。
案の定、館のいっさいを取り仕切る少女によってシオンがそう断罪されるまで、時間はさほどかからなかった。
◆◇◆
「熱ちッ」
「もうっ! シオンさんったら。危ないですから、今日は夕食までお部屋で休んでてください。ね?」
「……はい」
お叱りに似た優しい気遣いに、しゅん、と項垂れる。塵も積もれば山となる。
洗ったひよこ豆のザルを落としてもう一度洗い直しだとか、鶏肉の下拵えを間違えたりだとか。果ては温め中のオーブンを素手で開けようとするなど、失敗は重なれば目に余るものばかりだった。
指の火傷を冷やしてすごすごと引き下がろうとしたとき、ふと、もの言いたげなコリスに「散歩して来ていいですか」と訊いたのは――ひとえに、このあとの夕食時に平静を装えるとは思えなかったからだ。
コリスは思案しつつも追及してはこなかった。
左手を腰に、右手の人差し指を顎に当ててしばらく小首を傾げると、やおら「いいですよ」と告げ、ぱぱっと焼き菓子のストックや果汁の瓶詰めを大きなハンカチで包む。それを、はい、と目の前に差し出してくれた。
「コリスさん……」
じーん、と感じ入るシオンに、コリスはお茶目に笑う。
「あのね。わたし、こう見えても“祠守り”としての生活は長いんです。ここで、自分より若い子たちがじれもだしながら大きくなるのを、さんざん見てきました。ザイダルは、谷にいたころは奥手で……。事情が事情でしたから、そういうのを見守る機会はありませんでしたけど。すみませんね? 多分、いえ絶対、うちの長がご迷惑を」
「! い、いいえ!? そんな」
急激に顔が熱くなったシオンは、ぶんぶんと顔を横に振った。
可愛らしい包みを受け取り、心を込めて礼を述べる。
さいわい「どちらまで?」と、問われるころには笑顔で答える余裕が戻っていた。
「――手近な山中へ。知らせ石の様子でも見てきますよ。いろいろ、ちょっとだけ。ひとりで、考えたいので」
◆◇◆
ひらり、若干日の陰り始めた木立のなかをゆく。
谷の西端にあたる館の後ろは、すぐに山の裾野だ。ここからだと。
(北側はだめだな。時間がかかり過ぎる。南のローエ山脈沿いに東へ。関所辺りに出る頃には日没だから、そのあとはギルドでも覗いて帰ろう)
何だかんだ言って獣人たちの谷は居心地がよく、みんな優しい。余所者のシオンにも、長であるザイダルが説明してくれたからか、ある意味“館の助っ人”と目してくれるようになった。
そう、間違いではない。
間違っているのは――……
『あんたが、自分の人生を偽るのは間違ってる』。
『俺は、あんた以外には興味がない』。
そう言われた。壁際で追い詰められたとき。握られた左手首は痛くはなかったが、到底振りほどけず。
『長を、そんなふうに見られますか?』と、以前コリスに言われた。
偽らざる答えは“是”だ。そもそも、彼のおおらかさには最初から惹かれていた。でなければ、誘いに乗ったりしない。
――偶然出会った故国の端の居酒屋で仕事に、という意味だが。
それだって“ひと”として好いてしまったことに他ならないのだ。
正直、逃亡生活は疲れるときもあった。ときどきは帰る場所が欲しいと熱望した。
そのたび、自分の弱さに辟易した。ひとと深く関わることがないよう、神殿に見つかる前からずっと注意していたのに。
法術士だとバレないよう。
逃げるつもりだとバレないよう。
――女だと、バレないように。
逃げて逃げて、逃げ続けて。
(あのときも)
本当は、避けようと思えば避けられた。冗談めかして切り抜けることも。なのに、頬に触れる手があんまり優しかったから。温かかったから。
近づいた彼の顔が一瞬止まり、離れたときはがっかりしてしまった。
すぐさま無断で眼鏡を取り上げられ、目で追った隙に唇を奪われた。それから。
………………それから……。
(〜〜ッ、やばい! だめだだめだ、思い出すんじゃない! こんなところで!!!)
「ううぅっ」
うずくまり、頭を抱えて煩悶する。
そうして何十秒も経ったろうか。ひらいた目に、見覚えのある平たい白い石が映った。傍らの樹にはナイフで☓印を付けてある。
間違いない、最初に置いた知らせ石だった。ということは関所が近いはず。そろそろ人里に向かわないと。
気を取り直し、シオンは立ち上がった。そうして辺りを見渡す。
「ん? おかしいな。魔物じゃない……よね。焚き火の跡がある。こんな中途半端な位置で、谷のひとが??」
白い石はわずかに煤で汚れ、側には落ち葉を払って火の台を組んだあと。ご丁寧に枝の燃えかすも残っている。これは。
不審に思って近づき、膝を追って手をのばしたときだった。
ヒュッ……、と風の気配。否、ひとの気配。周囲に。
「! 誰っ!!?」
視界に、いくつもの黒い影が頭上の木から落ちてきたのはわかった。けれど、ちょうど暗がりになりつつある山中では確認しづらい。ヒヤリと背筋が凍る気がして、直感で背後を振り仰ごうとした。
そこで、有無をいわさず口元に布を当てられた。独特の匂いにハッとしたときは、既に遅く。
(しまった……、谷のひとじゃない。人間だ。手練れの――神殿にもいた。暗部の)
薄れゆく意識の向こうで、無機質な声が「こいつは……? まぁいい、連れて行こう」と告げるのを聞いた。
記憶はそこで途切れた。




