1 あんた、俺を何だと思ってる
身にそなえた獣性は熊。
でも、ザイダルは比較的おだやかなひとだと思っていた。ヒグマとツキノワグマなら断然後者。(※偏見)
シオンはそれが勝手な幻想だと思い知った。
館に入り、エントランスを右へ。そこは普段立ち入ることのないザイダルの生活スペースだと気付く。掴まれたままの手首を引っ張られ、あっという間に手近な一室へと連れ込まれた。
カーテンを開けたままになっていたので暗くはない。
一望して彼の私室だとわかる。壁は一方が丸ごと書棚で、奥には机。手前には簡単な応接セット。――来客をもてなす部屋も兼ねているのかも。
こちらも開けっ放しだった内扉の向こうには寝台だの脱ぎ散らした衣服だのが垣間見え、どきりとする。
自覚していなかったが、養父以外では初めて成人男性の居住空間に立ち入ってしまった。
――すなわち、赤の他人。
もし、自分がふつうに女であれば危険な状態と言って差し支えなかったろう。特に、相手がザイダルでなければ。
シオンはこの段になってもザイダルに本当の意味の警戒心は抱いていなかった。
◆◇◆
「さて、シオン」
いっぽう、ザイダルは確固たる意志を込めて後ろ手に施錠した。マスターキーをコリスが持っている以上、大した時間稼ぎにならないとはわかっていたが。
ほんのひととき、彼女に思いの丈をぶつける時間が欲しかった。
ムカつきのあまり自室に連れてきてしまったが、鍵をかけた時点で何の焦りも見せない彼女に、さらに苛立ちが募る。
谷に入る前も、町中でも馬車の中でも徹底してジョアンとのいちゃいちゃを見せられ、女性同士のはずなのになんでこんなに由々しいんだとか、本当に色々と考えさせられた。
――あげく、勝手に嫁さん候補を探されて。
そのことに、ふつふつと怒りが沸く。
自分は、長年かけて谷の外を放浪した。
ほかの神の加護が深い女性や、あわよくば女神自身と婚姻を結べという、主に半人半馬神からの無茶振りのためだった。
不可能だとは最初からわかっていたわけで、結局はふつうに各地で友人や伝手ができ、外貨を稼ぎまくった日々だった。
旅の終盤、延長に延長をかさねた三十八にして、ようやく心惹かれる相手と巡り会えたのに。
――……その相手は、ことごとく自身を女扱いしておらず。
彼女がジョアンに結婚の打診をしたのは、多分に谷の存続のためだろう。それは理解できる。
谷の守備に加え、獣神たちへの力添えも依頼している以上、それが本質的かつ有効な手段だと頭ではわかっていた。
が、止められそうもない。
ザイダルは相手を逃さないよう、向かい合って掴んだ細い手首を潰さないように気を付けながら、じりじりと彼女との距離を詰めた。
間合いを計りきれていないシオンは、意図した通りに壁際に追い込まれる。その退路を完全に断つため、出入り口側の壁に手を当てた。
そこでようやく彼女の表情が変わる。
“女”としての微妙な揺らぎ、不安。
そのことに、こんなに喜ぶ自分はどうかしている。
だがしかし、追及の手を緩める気はさらさらなかった。
「ザイダル?」
「……」
訝しそうな問いかけを、気迫を込めて聞き流す。
真正面からやや伏せて目線を合わせ、彼女の肌のきめ細かさや眼鏡の奥の水色の瞳を。隠されがちな長い睫毛が落とす、凛とした目尻の影のうつくしさまで存分に堪能する。
高揚をひた隠しに、ザイダルは問い返した。
「シオン。あんた、俺を何だと思ってる」




