2 なんで、あんなやつが谷に
――手紙をありがとう。お元気そうで何よりです。あなたが姿を消してからというもの、私たちはずっと気を揉んでいましたが……
優美な縦書きの崩し青霞文字は昔の法術士仲間・如杏によるもの。
ジョアンは生粋の神殿っ子で、わずか三歳で神殿に引き取られた。優秀な法術の使い手で、出身は都の大貴族。血筋よし、見目よし、性格よしの三拍子が揃った逸材のため、求婚者はひっきりなしの印象だった。
とはいえ、本人の口は固く、あくまでお勤め重視で身持ちも固い。彼女ならば……と、淡い望みをかけて手紙を出したのだが。
かさり。
折り重ねられた便箋をずらし、二枚目にも目を通す。
文面からは当時聞き慣れたお小言が直接響くようで、懐かしさに思わず口元をほころばせた。
それでも容赦なく、ほろ苦く迫る郷愁をやり過ごして続く言葉を予想する。
突拍子もない、たんなる旧知でしかない自分の頼みごとに対する答えは、是か、否か。
◆◇◆
「残念。やっぱりだめか」
「何がです? シオンさん」
「あっ、だめだよ、コリスさん。覗いちゃ」
膝の上に手を置かれ、右側からひょこっと可愛らしい顔が急接近した。
興味津々なまなざしは、じきに故国独自の製法で作られた上質な便箋へと移る。
文面には自分の本当の名や、法術士ならではの知識に基づいた、神の加護を繋ぎとめるための様々な助言まで記されていた。
これはこれで読まれては大変な気がして、わたわたと姿勢を崩す。周囲からは温かな笑い声がこぼれた。
――今日は館の外にいる。
正確には、谷を周回する乗合馬車の中にいる。
わずかに目元が染まるのを意識しつつ、遠慮がちにコリスの細い肩を押した。「読んじゃいました?」
コリスは、きょとん、と首を傾げた。
「いいえ。残念ながら、わたしにはセイカの文字は読めません。お国のお友だちは何と?」
「あっ、うん。そうか。あのね、やっぱり断られちゃった。年齢的にも落ち着いたひとで、お勧めだったんだけどなぁ。ザ…………彼に」
「まあ」
うっかり衆目のある場所で谷の長を呼び捨てしそうになり、ふわっと語尾をぼやかす。
意を汲んだコリスは、ぱち、と目を瞬き、何事もなかったように話を合わせてくれた。
「いいんですよ。こちらこそすみません。うちの面倒事を引き受けていただいて。えっと…………失礼。これで三人目でしたっけ?」
「そうそう。皆いい相手だと思えたんだけどなぁ。ところで、コリスさんは? お待ちかねの報せはあった?」
「! そうでした。待ってくださいね。いま、さっき関所でもらった運搬屋さんの包みを」
意訳すれば“ザイダルからの知らせは来た?”という問いに、コリスは機敏に反応する。
今日は、週に一度の物資の買い出しを合わせた、峠の関所回りも兼ねていた。
コリスはシオンと反対側の座席に積んだ荷の一つを探り、若干中腰になった。
そのときだった。
――――ヒヒーーーン!!
(!!!)
ガタッ、と激しく車体が揺れ、馬車が急停止した。
弾みで転がったコリスの小柄な体躯を慌てて受け止める。
「す、すみませんシオンさん! お怪我は」
「そりゃこっちの台詞だよ、大丈夫?」
「大丈夫です。でも……、いったい何が」
風通しを良くするために幌を巻き上げた車内には、同じように戸惑う羊獣人の老婦人や山羊獣人の若夫婦、幼い子どもたちがいた。
すると、御者台では牧羊犬っぽい耳と尻尾を生やした壮年男性が、ヒィッ、とおののく気配が。
シオンは素早くコリスを座らせ、御者台の後ろまで近づいた。声を低めて尋ねる。
「どうしました」
御者の男性は、震えながら答えた。
「あ、あれ……!! ありゃあ魔物だ。なんで、あんなやつが谷に」
進行方向を左手が森。右手にせせらぎが流れている。
カララ、と石塊を落としつつ、それは左手のやや奥、切り立った崖の上から現れた。谷を満たす陽光とはひどく不似合いな感じがする。遠目にも不吉な濁った緑の鱗、尖った角と鋭い牙。爬虫類じみた外観と滲み出る獰猛さ。
あれは。
「――キースドラゴン」
ぽつり、と呟くシオンの声に、背後の座席はぴたりと騒ぎを止め、水を打ったように静かになった。
なんにも起こらないんじゃなかったのか……! という突っ込み(作者)




