第93話 シューゲイザーズ(靴を見る人々)‐6
というのも、その階には誰もいないらしく、生活痕のようなものも見られない。元が事務所のような用途で使われていると、少なくとも表向きはそうなっているので、それ自体はおかしいことではないが、廊下の地味な色のカーペットにうっすらと埃の膜ができ、窓にも多数の染みが出来ていたのを見ると、この階自体、使われていないようだ。ここのオーナーがクーデターを企てている人間の一人なのかはともかく、掃除には興味がないらしい。
この階が使われていないということは必然、この階に目的のものはないということになる。マリアはアイリーンに、件の殺された盗人の話を聞いたが、男は下っ端で、侵入したのが夜ということもあり、建物内の詳細な様子については知らないという。ただ、階段を降りた仲間が全員殺され、自分も追われたのだとか。
「何人ぐらいに追われたんだ? それについてはなにも言っていなかった?」
「それは聞いてなかった。ただ”やつら”と言っていたから、複数なんだと思う」
「そうか」
殺された人間を疑うのも野暮というものだが、少し廊下を、表通りのほうに進むと、確かにカーペットの埃が四隅に寄っている箇所がいくつかあった。ここで倒れ込んでもみ合いになったか……。
その跡は、廊下の奥の曲がり角まで続いていた。曲がり角から先は、右側に二つの扉がついた壁があり、左側に階段と、よく磨かれた窓がある。怪しまれないために表通りから見えるこの場所の窓だけは、奇麗にしておいているらしい。掃除をやったのが気にしたのか、カーペットも窓の周辺だけは埃がなかった。ただそれでも、夥しい血の跡は残ったままになっているが。血を拭き取るのは大変だから、そこまでやる気が起きなかったのだろう。気になったのは、別の点だった。マリアがそこを踏んでいったとき、ふわりとなにか花のような香りがした。この階には花瓶もないし、それどころか花瓶を置く台すらないにも関わらずだ。恐らく香水の匂いだろう。
「貴族が関わってるな」とマリアが言う。といっても、市民運動に手を貸す貴族というのも、まったくいないではない。金の匂いに敏感な中流貴族の中には、貴族のプライドよりもその地位を利用して金稼ぎに勤しむものもいる。不安を煽ればものは売れるものだ。戦争期にも同じことをしている貴族がいたのをマリアは憶えている。
でもこれは、そういう貴族じゃない。金があるならいい香水を買って使う。その方が自分の権威を表せる。カーペットから香ってきたのは、そんなにいいものじゃない。時間が経っているのもあるだろうが、嗅いだことのある安っぽい甘い匂いだった。
「線の細い気弱な貴族が血の匂いを消したくて吹きかけたんだろうな。でもこんなの血と香水が混じって余計にひどい匂いになったはずだ。どこかにゲロのあとが見つかるかもな」
「そんなものを探しにきたわけじゃないけど……でも変ね。貴族が入っていったなんてこと、聞いていないけど」
「王子もこの件に関してはうまい具合に権力を使えているわけじゃないみたいだし、漏れがあるとか」
「そう思う?」
「いや。でもここで考えても仕方ない。階段を降りるよりもまず、そこの部屋を調べようか」
そういってマリアはドアノブをまわす。開けたのは手前のドアだったが、奥のドアともつながっていた。この階はどうも、この一部屋を廊下がぐるりと囲っている構造になっているらしい。珍しくはない。集会場として使っていたり、本を提供したり。遊戯室となっているパターンもあるだろう。
マリアは口と鼻を抑えた。天窓から通った光が、部屋中を舞う埃をきらきらと輝かせていた。部屋は中心にちょうど、天窓から差した光がぶつかる場所に置かれた丸いオブジェクトの他には、壁にいくらか本棚が設置されている。手に取ってみると、”渦哲学”に関する本だった。以前、エリザベートと入った古代遺跡の持ち主である”嵐のメウネケス”が創始した思想流派であると同時に、”予言の民”たちの信仰のもとでもあるが、埃を被っている。ここも使っていないということか。
「多少危険でも、地下から入るべきだったかな」マリアが独り言ちる。「武器なんかは普通、地下に置くものだ」
「このオブジェクトはなにかしら……」
アイリーンが部屋の中心に鎮座した謎の透明の球体に手を伸ばし――すぐひっこめた。すぐには気付かなかったが、部屋の中でそのオブジェクトだけが、埃を被っていない。水晶かなにかでできているようだ。つやつやとした見た目をしている。
「すごい。奇麗な円ね……。優秀な研磨師の仕事でしょうね……」
アイリーンが感嘆の息を漏らす。これは手に触れるには、少し見事すぎるかもしれない、と考えた。
マリアは首から下げたアミュレットが熱くなっていることに気が付いた。奇妙なことにその熱は、黒い球体のほうを向いていた。
「占星術で保護されてるな。埃が被らないようになってる。ここには他になにもなさそうか? そうなら下の階に行こう」
マリアがアイリーンに急かす。今はまだ、階下にどれぐらい人がいるのかもよくわかっていない。武器がある証拠を探しにきたというなら、その全てを把握する必要はないが、生来気になる性質なのだ。
「ちょっと待って。台座になにか……」
アイリーンが台座に触れる。すると黒い球体を乗せた台座が横にスライドし、床に大きな穴が現れた。
マリアもアイリーンも絶句して、互いを見合った。
「入るのはちょっと待て。隠しスペースじゃなくてただ下の階と繋がってる可能性もある」
マリアが言う。アイリーンが頷く。
階下を確認しにマリアが部屋を出る。アイリーンが穴の下を覗き込む。階下はここと違って真っ暗だ。天井からの光も届ききっておらず、様子を見られない。
一方のマリアは音を立てずに階段を降りる――どうやら外からは見えないようになっている階らしい。窓が一つもなく、明かりの類もない。構造は上と同じか。人の気配もないため、マリアはますます不安になる。もう一つ下の階に降りて、床に耳を付けた。すると、その下には足音がする。上三階に人がいないということらしい。建物は六階建てなので、実に半分が使われていないというのか。その考えは、上の階に戻って階の中心にあたる部屋に入ったところで、否定された。埃がまったくないのだ。暗かった。上から光が差し込んでいるが、これは先ほどのオブジェクトによるものだろう。そこまで近寄って行くと、部屋の中心に、今度はオブジェクトもなく、ただ穴が開いていることに気が付いた。床に横たわる四枚の巨大な鏡にもだ。
それを見てマリアはピンときた。
「光増幅器か」
鏡で穴を囲み、上のオブジェクトをどかして光をいれる。入ってきた光を鏡で増幅しているのだ。全ての階か、あるいはこの下の階までに同じ仕掛けがあるだろう。
光を用いた占星術はとても多い。光をエネルギー源とする古代の遺物についても、聞いたことがある。そのどちらかがこの建物内にあるのかもしれない。
「でも光源が弱いと思うけどな。あんな天井の明かりだけじゃ……そうか、発光体があるのか。あの水晶玉かもな。なにか占星術か、もしかすると魔法か。あれ自体が古代の遺物なのかもしれないな」
随分大掛かりなしかけだ。それだけ大きいということだろう。それを見つけられれば今回の仕事は終わりだ。
そう考えてアイリーンの元へ戻ろうとすると、階段に彼女の姿があった。
「マリア、武器を見つけたわ」
アイリーンが言う。
「ああ、それは……」
「そうじゃなくて。上の階にあったのよ」
「はい?」
マリアが眉を曲げて戸惑いを表した。今しがた手がかりらしいものを見つけたというのに、現物を発見したと?




