第92話 シューゲイザーズ(靴を見る人々)‐5
その後マリアは、学院の裏手にある窯で袋一つ分の煤を分けてもらうと、その足でエリザベートの元へ行った。エリザベートはちょうど実家から荷物を受け取りに寮の玄関まで出てきていたところで、片手に小さな木箱を持っていた。
マリアは武器のメンテナンスのために今日は外に出るとエリザベートに伝えた。クレアにエリザベートに見つかる前に話すべきだと薦めたのと同様、勝手に出て行って疑われた状態で後で話すことになるよりずっといいからだ。
それからマリアは、学院から遠く離れた小さな橋のたもとで、アイリーンを待った。アイリーンは十分たたずにやってきた。変装――というほどのものではないが、町娘らしい恰好をとっている。
「油は持ってきたか?」
マリアが尋ねると、アイリーンは頷いて透明のガラス瓶を渡した。
マリアは頭を通す穴をあけた大きな布を被った。ガラス瓶から油を軽く掬い取り、そこへたっぷり煤をつけて、髪に擦りつける。何度もそれを繰り返すと、見るものを眩ます銀髪は、光沢のある黒髪に変わった。
「せっかく奇麗な髪なのに……痛むでしょうね」
マリアが布を額まで上げ頬に付いた煤を水に浸した粗い生地の手ぬぐいで拭き取っていると、横からアイリーンが残念がった。
「奇麗だから隠すんだ」
アイリーンがマリアを見る。
「あなたって、貴族の中では珍しいよね。誉め言葉を素直に返さない人が多いし。だいたいみんな褒められたら”当然だろう、私だぞ。でも口に出すのはもう少し後にしよう”って態度をとるから」
「自分の見た目のことぐらい理解してるさ。私が騎士としてそれなりにやってこられたのもこの髪と顔貌のお陰が半分ぐらいはあるだろう」
そう言ってマリアは髪を持ち上げる。煤が指についていないことを確認すると、布を取って丸めて鞄に詰め込む。
「眉はいいの?」
「いい。後で取るのが大変だし、労力に見合わない」
「わかった。それじゃあ、行きましょうか」
アイリーンが言う。今日はシャルル王子をはじめアイリーンらと奇妙な協力関係を結んで以降、もっとも厄介な用事のある日だった。
二人がいるのはダルタニャン家のあるスラム街の近い地域でもなく、貧乏貴族ばかりいるケンドリック・クラブ周辺の地域でもない。王都の中流市民たちがいる、いわば住宅地だった。貴族街には及ばないが、近くに市場や娯楽施設もある。市民運動をする人々というのは、主にこうした中流階級の人々だ。貴族の下層より金を持ち、文句を確かな形にして言う余裕もある。複数の市民団体の拠点もあることが確認されている。敵は(もしいるとすれば)市民団体を隠れ蓑にしている可能性があったため、前々から調査自体はしていたらしい。
アイリーンの話では、その中で近頃この辺りに怪しい連中が出入りしているとのことだった。彼らはこの地域の一区画を買い取り、市民運動と銘打ってなにかやっているらしい。
「それでつい先日、その連中の住居に侵入したっていう盗人がいることがわかったの。何人かいたみたいだから、盗人団みたいなことなのかな。住民の話だと、その盗人たちはみんな行方不明か、殺されてしまっているみたいなんだけど、一人だけ生き残っていて、私達が彼を見つけたの」
「その彼はなにを?」
「中には大量の武器があったって。それで、彼はすっかり怯えていた。国外へ脱出する寸前だった。五分話しただけだったけれど、それで問題なかった。彼の死体が郊外の廃墟で見つかったから」
「史上最も物をいう死体が出来上がったわけだ。それで? 私達は今からそこに潜入しようとしている」
「盗人を殺したのだから、あるとすれば彼らもずっと武器をあそこに残して置いているとは思えない……今のところは大きな動きは見られないけど、証拠を押さえないと」
彼らはその区域の、白塗りの密集したビルディングが並ぶ表通りから外れ、薄暗い通りへと移動した。見張りの類はなかった。盗人から屋上の天窓の鍵が壊れていると聞いていたので(その彼は無惨な死体で見つかったわけだが)、マリアがまず目標の隣の建物の屋上に移動し、そこから飛び移って侵入。一つ下の階の窓を開け、アイリーンを招き入れた。幸いなことに、そこまでは誰にも見つからなかった。




