第89話 シューゲイザーズ(靴を見る人々)‐2
デートとは言ったものの、マリアにはそのつもりはなかったし、クレアも彼女が失いかけているユーモアを補うためにわざとそう言っているのだということは、重々承知していた。
マリアとクレアは、二人だけで庭園に出て行った。夏も近い学院の庭園には、色とりどりのダリアが植えられており、生徒教師問わずその姿に癒されているが、今は暗く、くすんでさえ見えた。月明かりに照らされ青みがかった一片の花びらに手を触れ、マリアは口を開くタイミングを計っていた。
「元気にしていたか?」
いろいろ考えて、出てきたのはそんな言葉だった。月並みにもならない。口説き文句としたら最低レベルだろう。そうじゃないから、この場ではまだマシだ。
「……そんなことを聞きたくて、私を呼び止めたの?」
「いや、そうじゃない……ただ、話したいことがいっぱいありすぎて、整理のできないうちに、最初に出てきたのがそれだったんだ。それで、元気か?」
「ええ」
溜息気味に息を吐きだし、クレアが言う。そして庭園の舗装された地面をまたぎ、中心に建つ小さなアーチ形の建物の下に入った。
「そうは見えないな」
マリアが言った。
クレアはベンチに座り、無言で肯定する。そうやって言うならそうなんでしょうと言わんばかりにだ。
「……アイリーンのところでメードを?」
「見ればわかるでしょう」
「それはな。見ればわかる。見ればわかるが……いったいどんな流れでそうなった?」
クレアはアイリーン・ダルタニャンはジュスティーヌのオルガンの友人であり、ジュスティーヌの元を離れるとき、彼女がお付きのメードを探していると聞いて、推薦してもらったのだと言った。まさかエリザベートとこじれるとは思っても見なかったと。
筋の通っていない話ではない。が、マリアはそこに嘘が含まれていると思った。クレアはアイリーンと付き合っているうちに、気づいたはずだ。エリザベートとは合わないだろうということを。
二人とも合わないなら合わないで相手を徹底的に避ける性格をしていないから、遅かれ早かれどこかでぶつかっていたはずだ。聡いクレアがそこを理解していないはずがない。
だが、マリアはそこを指摘しなかった。指摘しても意味などないからだ。兎角この場で必要なのはいつもの揚げ足取りや冗談ではなく、有意義な会話だ。
「戻ってくる気はないのか?」
「今さら無理よ」
クレアが目を伏せる。
マリアは月を見上げていた。昔から月明かりは、隠されているものを曝け出すと言う。信じてはいないが、信じなくなるぐらい神秘的に見えることが月にはある。
「今でも気持ちはあるんだろ」
マリアが言う。クレアが顔を上げ、マリアの顔を睨みつける。
「なにを根拠にそんなこと!」
「さっき、お嬢さまと呼んだだろう。エリザベートのことを。普通、主人の前で元主人をそうは呼ばない。エリザベート様だとか、マルカイツ様と呼ぶはずだ。お嬢さまなんて言い方はしない。まだ愛してるんだろう?」
話してからマリアは、少しばかり後悔した。クレアが本当にエリザベートから離れたかったことはないだろうし、内心で彼女が自己嫌悪を感じていることは、あんな手紙を出しもせず捨てもせず置いて行ったことから見れば、察せられる。それをわざわざ、こんな風に詰めて自分はどうしようと言うのだろうか。無意味な挑発だ。
もしかすると、自分は怒っているのかもしれない。抱えきれない問題を前にして、抱えきれないという事実を曝け出したくないのだ。
「君が必要だと思うぜ。幸い、大方のことはまだ決しちゃいないんだ。エリザベートのことはもちろん、クーデターとやらも。やりようはあるはずだ」
マリアがそう口にした瞬間、クレアの眼に怒りが宿った。立ち上がり、マリアに相対する。
「その”大方のこと”が、いつまでそのままでいると? どう思ってそんなことを言っているの? その”大方のこと”のうちにはどれぐらい重要なものがある? なにが”大方のこと”で、なにがそうでないのか、あなたにはわかるの?」
マリアはじっとクレアの眼を向き合った。それぐらいの度量はあったし、今目を逸らすことで、クレアがいかにダメージを受けるかが、その眼に見て取れてしまった。
「そうだな。わかっていない」マリアは素直に誤りを認めた。無責任で、かつ欺瞞の楽観を示したことを。「その通りだ。すまない」
マリアはクレアの頬に触れた。今度はクレアが、マリアの目の奥にある感情を見取り、その怒りを鎮め、ベンチに座り直し、膝の上に両手を置いた。「あなたはどうするの? アイリーンのことよ」
マリアが行き場のなくした手でわからないとジェスチャーをつくった。
「不味いだろうな」
「でも、関わらないのも、不味いわ」
その通りだ。これはあまりに厄介だ。マリアはアイリーンを切り離すつもりでいた。彼女に好感を持っている。彼女のような人間を傷つけることが、どれほど罪深いか。しかしそれも、エリザベートが心の平穏を保てるのなら、そうするつもりだった。
「…‥‥それがまさか、国の危機と来るとはね」
すべきでないとわかっていても、マリアもクレアも、問題をあいまいにしておくほかに、前に進む方法を見つけ出せない。せめてずっと悩んでいようと自罰に耽溺しかける自分を戒め、この状況が自分の身から出た錆だと認める。加えて、だからどうか事態よ好転してくれと、祈りさえした。
「冗談じゃないのはわかってるが」マリアが笑う。「冗談であって欲しいよ」
「ごめんなさい」クレアが言った。
「いいんだ」とマリアが返した。
クレアがマリアを見て、マリアもクレアを見た。二人は自然と顔を近づけていた。
二人ともが互いを求めた。自分の身勝手な問題意識も、恥知らずな価値観も、共有し合い、認め合い、そして赦し合えるのは、互いだけだと知っていたからだ。二人はその場で会話を続け、どちらともなく自分の部屋に誘った。クレアからだったかもしれないし、マリアからだったかもしれない。どうでもいい。どちらでも変わりはない。
翌朝、マリアはクレアの部屋から出て、エリザベートの元へ彼女を迎えに出た。不思議と罪悪感の類はなく、むしろ気は晴れていた。
「よく眠れましたか?」マリアが言うと、エリザベートは不審がって同じ言葉を彼女に聞き返した。「眠れましたかって訊いた? なんでそんなことを訊くの?」
「わかりませんが」
「寝覚めのいい日なんてないわ。ここ最近は特に」
「そうですか」
寮から校舎までの短い区間で、マリアはアイリーンの姿を見た。マリアは自分の中に不安が溜まっていくのを感じていた。それはクレアとのことぐらいで逃げ切れるような容易なものではない。だが、向き合う気力はまだ残っている。




